第一章 四話

榠樝かりんの暮らしている飛香舎ひぎょうしゃは庭に藤が植えられていることから藤壺ふじつぼとも呼ばれている。

この時期の飛香舎は格別に美しい。濃い紫から薄紅うすくれない、そして白。

藤の花房が風に揺られるさまは波のよう。

早朝の清しい風に運ばれて来る甘い香りに、榠樝はうっとりと目を細めた。

「お庭に降りられておられるのですか」

とがめる声に榠樝は振り返り、笑う。仁王立ちの堅香子かたかごが居た。

「今日は良い天気になりそうよ。藤に誘われたの」

「はしたない。もう童ではございませぬでしょう」

誤魔化されてはくれない。

めっ、と肩を怒らせて堅香子かたかごきざはしから降りてきた。

「さ、お戻りくださいませ」

差し出された手に榠樝はぽんと手を乗せた。

「はあい」

榠樝の手を取った堅香子がザッと青褪める。

いきなり変わった顔色に榠樝はきょとんと動きを止めた。

「榠樝さま!こちらへ!」

え、と小首を傾げるいとまもあらばこそ。

「危のうございます!」

なにかが足元から榠樝目掛けて飛び掛かり、それを堅香子が払い落す。

「痛っ」

「堅香子!?」

えいやっとばかりに堅香子は何か紐のようなものを掴んで投げた。

何だ?何が起こった?

混乱する榠樝に堅香子はぎこちなく顔を向ける。

「蛇にございます」

真っ青で震えながら、堅香子は榠樝を抱き締めた。

「ご無事で、ご無事でございますか。お怪我は?」

がたがたと震える堅香子を抱き締め、榠樝は笑い出した。

「大丈夫。それより堅香子、お前、とんでもない武勇よ。褒めて取らせる。すごい。私だってあんなことできないわ。蛇を掴んで投げるだなんて!」

虹霓国に於いて蛇は龍の眷属けんぞく。畏敬の対象だ。

進んで蛇を害そうとする者はほぼ居ないし、そもそもがそれ程頻繁に遭遇するほど存在していない。ましてや内裏に出るなど滅多に無い。

何かの予兆かと、後で陰陽寮おんみょうりょうに問い合わせねばならない事態だ。

まさか掴んでぶん投げたと知れたら怒られるかもしれない。

虹霓国の蛇は基本的に温和で、こちらから何かを仕掛けない限り、滅多に害にはならないのだ。基本的には。

鶏を襲った蛇が養鶏場の管理者に叩き出されるくらいで済む。

蛇を害せば祟りがある。虹霓国では常識である。

「あああ、それ以上おっしゃらないで。自分でも怖ろしゅうございます。もう無我夢中で、なにがなにやら」

榠樝を抱き締めたまま、堅香子はへなへなと庭に座り込んでしまった。

「今更ながらに腰が抜けましてございます。蛇が人に飛び掛かろうとする姿なぞ、初めて見ましたわ……」

「腰が抜けても仕方ないわ。だって蛇だもの。大の男だってこうはいかないわ。……右大将の南天なら簡単かもしれないけれど」

誉め言葉ではない気がする、と堅香子は思ったけれど、榠樝が誇らしげなので、ただ黙って笑い返した。

榠樝はふと堅香子の袖をめくる。

確かに堅香子はあの時、痛い、と言った。

「やっぱり、噛まれたのね。ええと、蛇に噛まれた時はまず傷口の上側を縛り、または圧迫し、心の臓より低く保ち、安静に……」

ぶつぶつと呟く榠樝に、堅香子が呆れたように笑った。

何故なにゆえそのようなことにお詳しいのですか」

「前に習ったの。万が一にも毒蛇だった場合の処置の方法」

「いえ、ですから何故に習うのですか、そんな場合のことなど。毒蛇など、隣国の五雲国ごうんこくにでも行かぬ限り遭遇せぬでしょうに」

それはそう。

「女東宮たるもの、あらゆる危険に備えねばならないわ。まあ、人生で蛇に噛まれるなんてそうそう無いことでしょうけど。知っておいて損は無いし」

得意げな榠樝に笑おうとして、堅香子は急に硬直したようにばたりと横に倒れた。

人形の様だった。

「え、堅香子?」

額に玉のような汗。頬に血の気が無い。唇が震えている。

「堅香子!」

慌てて再び袖を捲れば傷口が紫色に変色している。

まさか本当に毒蛇だったのだろうか。

いやありえない。虹霓国に毒蛇など。

「誰か!来なさい!早く!!」

堅香子の頭を膝に乗せ、榠樝は今まで出したことのないほどの大声で叫んだ。


「誰か!」


悲鳴を聞き付け、走って来た近衛舎人このえのとねりをそのまま典薬寮てんやくりょうに走らせた。

「至急、蛇毒の解毒をと伝えなさい!女東宮の命よ!直ちに藤壺に来るべしと!」

復唱さえさせぬ剣幕だった。

漸くわらわらと湧いてきたような女官たちに、榠樝はてきぱきと指示を飛ばす。

「運ぶのを手伝いなさい!ああ、いいわ、お前たちは水と布!そこのお前たちは畳としとねを敷きなさい!至急よ!私が許す、走りなさい!そこな舎人、私が許す。この者を茵まで運んで!揺らさないように、そっとよ!」

女東宮に仕える女官は大抵が相応の家格の姫たちであり、常におっとりと慎ましやかに事を運ぶもので。

まさか内裏で走るなどと、端女はしためのような振る舞いをするとは夢にも思わなかっただろう。

慌てふためく女官たちの中、一人だけ男もくやと走る者が居た。

畳を置き、茵を設え、邪魔な几帳を端にやり、榠樝の意を汲んだように的確に動いている。

「そこな者、名は」

浅沙あさざと申します」

応える声も、動作も短く簡潔。使える。瞬時に判断し、榠樝は頷いた。

「浅沙、私の補佐を」

「畏まりました。何なりとお申し付けください」

「取り敢えずきれいな水と清潔な布をありったけ」

「御意」

典薬寮から医官が走って来るまで。

いや、転がるように走って来る近衛舎人に医官の青年が担がれて来るまで。

榠樝は生きた心地がしなかった。

「堅香子、しっかりね……」

額の汗を拭ってやる。

堅香子は低く呻くだけで目を開けない。

「……堅香子、お前まで、」

死なないで、とは口に出せなかった。

ただ強く願った。



わたしをおいていかないで。

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