第一章 三話
一方の
流石に心配になった堅香子が声を掛けようとした瞬間、榠樝が飛び起きた。
「作戦を練ろう」
「は」
脈絡不明な一言だったが、優秀な女房である堅香子はすぐさま
「本当、よく気の利くよい女房だわ、堅香子」
堅香子はにこりと笑って
「畏れ入ります」
碁石を幾つか並べ、榠樝は紙に名前を記していく。
「
「然様にございます。躑躅どののご子息が
「流石にそこを持ってくるとは思えないけど、蘇芳の二郎はそろそろ元服してもいい年だったか……いや、でもたぶん紅雨が来るでしょうね。妻はまだ居なかった……わね?」
「はい。婿君としては順当ですわね」
「たぶん一番厄介な相手になると思うのよ」
「おそらくは一番婿の座に近い御方でございましょうね」
摂政を頂く蘇芳家は着々と力を伸ばしている。
今や
「次は、菖蒲か。ええと、当主
菖蒲家の直系は女性が多い。紫苑の兄弟姉妹も確か女ばかりだった。
どの姫も父王への入内を願い、叶わなかった。
いわば因縁の対決になる。
「仰せの通り。やはり直系の紫雲英どのが立たれるかと存じます。確かわたくしと一つ二つしか変わらぬ年頃だったと」
菖蒲の紫雲英もその
若さの為か、それとも蘇芳家に負けまいとする気概の為か、いささか才気走った様子も見られるが、情に厚く好かれているという評判だ。
「
すんなりと出てきた当主の嫡子の名に堅香子は少し目を瞬く。
「笹百合どのとは
少しだけ榠樝の目が泳いだ。
「そういう訳でもないけれど、
堅香子は少し考えた。
「御年は確か風花どのは榠樝さまの一つ上、笹百合どのが五つ上でしたわね。釣り合いを考えますと、どうでしょう。その辺はお父上の
笹百合は物静かで慎ましやか。その名の表す通り清らかで美しく、物腰柔らかな青年である。
榠樝とは幼い頃から文を遣り取りし、他の六家の若君たちと比べると確かに親しい間柄ではある。
昇進し、
優しい、兄のような人。
恋ではなくとも慕わしい人ではある。
無論、婿にするのは知らない人より、親しい人の方が良いに決まっている。
けれど、それを決めるのは榠樝の心ではなく。
俯いたままの榠樝の肩がそっとそっと、揺れた。
溜め息ともつかない微かな吐息。
「榠樝さまのお気持ちが、一番大切でございますよ」
そっと囁くように言われた堅香子の言葉を笑おうとして、できなかった。
「東宮位にある者は、大局を見極めなくてはならないわ」
女東宮に相応しい立場にある者を選ばなくてはならない。
家格、身分、地位。そしてそれに相応しい品性、人柄。
たとえそれが、榠樝の気に沿わぬ相手であったとしても。
重ねて何事かを言おうとし、けれど堅香子はきゅっと唇を噛んで頭を下げた。
自身の立場を
「さて、次は
筆を
「
あまりに雑な物言いに、思わず変な顔をしてしまう。
「何でよ」
堅香子は溜め息を吐くと、諭すように榠樝を見詰める。
「ご存じでしょう、榠樝さま。うちはアレですよ。
辛辣な言い様に、流石に榠樝も苦笑した。
「従兄弟に対して随分と点が
「身内だからこそでございます。つい先程橘どのともお話し致しましたけれど、藤黄を選ぶようでは女東宮の見る目が問われます。王たる器とは思われぬでしょうね」
悪口雑言ではないが、かなり酷い内容に榠樝は思い切り苦笑した。
「そこまで言うか」
「見目が良いのだけが救いでしょうか。或いはもっと悪いのかもしれませんが」
どこまでも本気の堅香子だった。
行儀悪く頬杖をつき、榠樝は少し笑う。
「婿には確かにどうかと思うけど、南天の気性は嫌いではないわ」
「嵐というか
堅香子がまあ、と目を
「勿体なきお言葉を頂戴しまして、従兄弟に代わりお礼申し上げます。そんな風にお考えでいらしたなんて」
「まあ、本当に婿には向いてないと思うけども。ていうかそういう話無かったかしら。一年だか二年だか前に、どこぞの姫と結婚するって」
「有ったとして、大人しく収まる人ではありませぬので……ええ、
言い難そうにした堅香子を見て、榠樝は膝を叩いた。
「あー。なんだか思い出した。有ったわねそんなことも」
気に入らぬ宴席、実質の見合いの場を打ち壊してめちゃくちゃにした挙句、騎馬で走り去ったとかなんとかかんとか。
うんうんと頷く榠樝に、先を促す。
「次は
「月白の当主は
「月白家は末のご子息が病弱であることしか、わたくしは存じあげませんが」
頷いて、榠樝は碁石を四つ置く。
月白家の直系四兄弟。
他の追随を許さないほど素晴らしい所は特にない。
良くも悪くも普通の貴族らしい貴族の子息たちである。
「月白の四郎ね。元服して
「まだ十かそこらではございませんでした?」
驚いて平衡を崩した堅香子に頷いて、榠樝は筆を執る。
「
「お詳しいですね」
「ちょっとね」
曖昧に誤魔化した榠樝に、堅香子は
「陰陽寮に何かご用事が?」
「ん-ん。なんでもないわ」
白々しい素振りの榠樝に、堅香子はますます不審な顔付きになる。
「わたくしに隠れて、何かなさいました?」
「ええと最後は黒鳶ね」
「榠樝さま」
「母上の実家だから、気安いといえば一番気安く近しいのだけれども」
堅香子は追及を諦めた。
「ご当主は榠樝さまの御叔父上の
榠樝は黒鳶の従兄弟たち三人の名を連ねていく。
「黒鳶の本家の者たちは幼い頃は遣り取りもあったけど、最近は縁も絶えてしまったわね」
堅香子が苦笑した。
「なによ」
コホンと白々しく咳払いして、堅香子が重々しく言う。
「幼い榠樝さまのあまりの
多少気まずげに榠樝は視線を泳がせた。
「浅学を指摘したのが痛かったのでしょう。私のことを怖がっているわ。自分の勉強不足を棚に上げて」
「挙句、詩歌も管弦も私に劣るのでは仕方ないでしょう。相手にもならないのだもの。でも流石に
「蹴鞠までなさったとか」
「蹴鞠は流石に数回よ。難しかったわ。私何度も失敗したもの。
しかし周囲が止めなければ、蹴鞠どころか馬にまで乗ろうとしたというから恐ろしい。
姫君のするところではない。だがしかし、榠樝は女東宮。
前例の無い立場の者が前例の無いことをして何が悪い、と宣われると誰も何も言い返せぬ訳で。
「そこらの若君ではとても太刀打ちできませんわね」
婿たる者は相当な器の持ち主で無ければ、榠樝に遣り込められてしまうだろう。
「当たり前でしょう。私は女東宮なのだから。そこらの若君に負けているようでは務まらないのよ」
虹霓国を率いていくのだ。
それくらいの気概は当然に必要である。
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