第一章 三話

一方の飛香舎ひぎょうしゃ榠樝かりんは寝転がったまま天井を見つめている。

堅香子かたかごが帰って来てからかれこれ四半刻だろうか、ずっと上を睨み付けるようにして動かない。

流石に心配になった堅香子が声を掛けようとした瞬間、榠樝が飛び起きた。

「作戦を練ろう」

「は」

脈絡不明な一言だったが、優秀な女房である堅香子はすぐさま文台ぶんだいを整え、紙と硯箱すずりばこを用意し、碁盤を運ばせた。

「本当、よく気の利くよい女房だわ、堅香子」

堅香子はにこりと笑ってこうべを垂れる。

「畏れ入ります」

碁石を幾つか並べ、榠樝は紙に名前を記していく。

蘇芳すおう摂政せっしょう深雪みゆき左大将さだいしょう銀河ぎんが、当主の躑躅つつじ中納言ちゅうなごんよね」

「然様にございます。躑躅どののご子息が紅雨こううどの、二郎どの。銀河どののご子息が太郎どの。お二人はご元服前でございますわね」

「流石にそこを持ってくるとは思えないけど、蘇芳の二郎はそろそろ元服してもいい年だったか……いや、でもたぶん紅雨が来るでしょうね。妻はまだ居なかった……わね?」

「はい。婿君としては順当ですわね」

「たぶん一番厄介な相手になると思うのよ」

「おそらくは一番婿の座に近い御方でございましょうね」

摂政を頂く蘇芳家は着々と力を伸ばしている。

今や虹霓国こうげいこくの一の家は菖蒲あやめではなく蘇芳であろう。

「次は、菖蒲か。ええと、当主紫苑しおんのところは娘ばかりで、息子は紫雲英げんげのみだったわね」

菖蒲家の直系は女性が多い。紫苑の兄弟姉妹も確か女ばかりだった。

どの姫も父王への入内を願い、叶わなかった。

いわば因縁の対決になる。

「仰せの通り。やはり直系の紫雲英どのが立たれるかと存じます。確かわたくしと一つ二つしか変わらぬ年頃だったと」

菖蒲の紫雲英もその才気煥発さいきかんぱつさ故に、若手の貴族の中では一目も二目も置かれる存在である。

若さの為か、それとも蘇芳家に負けまいとする気概の為か、いささか才気走った様子も見られるが、情に厚く好かれているという評判だ。

はなだ笹百合ささゆり

すんなりと出てきた当主の嫡子の名に堅香子は少し目を瞬く。

「笹百合どのとは昵懇じっこんであらせられましたっけ」

少しだけ榠樝の目が泳いだ。

「そういう訳でもないけれど、和歌うたのやり取りくらいはしているし……。ああ、でも弟の風花かざはなかしら。どう思う?」

堅香子は少し考えた。

「御年は確か風花どのは榠樝さまの一つ上、笹百合どのが五つ上でしたわね。釣り合いを考えますと、どうでしょう。その辺はお父上の苧環おだまきどのの采配次第では」

笹百合は物静かで慎ましやか。その名の表す通り清らかで美しく、物腰柔らかな青年である。

榠樝とは幼い頃から文を遣り取りし、他の六家の若君たちと比べると確かに親しい間柄ではある。侍従じじゅうであった頃は父王がよく供に連れ、飛香舎へ来ていた。

昇進し、五位蔵人ごいのくろうど左少弁さしょうべんを兼任するようになってからは、多忙故に顔を合わせる回数は目に見えて減ったが、和歌の遣り取りは続いている。

優しい、兄のような人。

恋ではなくとも慕わしい人ではある。

無論、婿にするのは知らない人より、親しい人の方が良いに決まっている。

けれど、それを決めるのは榠樝の心ではなく。

俯いたままの榠樝の肩がそっとそっと、揺れた。

溜め息ともつかない微かな吐息。

「榠樝さまのお気持ちが、一番大切でございますよ」

そっと囁くように言われた堅香子の言葉を笑おうとして、できなかった。

「東宮位にある者は、大局を見極めなくてはならないわ」

女東宮に相応しい立場にある者を選ばなくてはならない。

家格、身分、地位。そしてそれに相応しい品性、人柄。

たとえそれが、榠樝の気に沿わぬ相手であったとしても。

重ねて何事かを言おうとし、けれど堅香子はきゅっと唇を噛んで頭を下げた。

自身の立場をいやというほど理解している榠樝に、一体何が言えるというのだろう。

「さて、次は藤黄とうおうね」

筆をった榠樝に、堅香子は打って変わって投げ遣りな様子で言う。

藤黄うちは除外しても宜しいのでは?」

あまりに雑な物言いに、思わず変な顔をしてしまう。

「何でよ」

堅香子は溜め息を吐くと、諭すように榠樝を見詰める。

「ご存じでしょう、榠樝さま。うちはアレですよ。独立不羈どくりつふきと言えば聞こえが良いですが暴走する次男の南天なんてんどのに、優しいだけが取り柄、軽佻浮薄けいちょうふはくの三男、茅花つばなどの」

辛辣な言い様に、流石に榠樝も苦笑した。

「従兄弟に対して随分と点がからいわね」

「身内だからこそでございます。つい先程橘どのともお話し致しましたけれど、藤黄を選ぶようでは女東宮の見る目が問われます。王たる器とは思われぬでしょうね」

悪口雑言ではないが、かなり酷い内容に榠樝は思い切り苦笑した。

「そこまで言うか」

「見目が良いのだけが救いでしょうか。或いはもっと悪いのかもしれませんが」

どこまでも本気の堅香子だった。

行儀悪く頬杖をつき、榠樝は少し笑う。

「婿には確かにどうかと思うけど、南天の気性は嫌いではないわ」

雁字搦がんじがらめで動けない状況も、面倒臭いしがらみも全部。力尽くでどうにかしてしまう南天は確かに厄介だが、ある種清々しい。

「嵐というか疾風はやてというか、風のような人よね」

堅香子がまあ、と目をみはる。

「勿体なきお言葉を頂戴しまして、従兄弟に代わりお礼申し上げます。そんな風にお考えでいらしたなんて」

「まあ、本当に婿には向いてないと思うけども。ていうかそういう話無かったかしら。一年だか二年だか前に、どこぞの姫と結婚するって」

「有ったとして、大人しく収まる人ではありませぬので……ええ、ち壊しまして」

言い難そうにした堅香子を見て、榠樝は膝を叩いた。

「あー。なんだか思い出した。有ったわねそんなことも」

気に入らぬ宴席、実質の見合いの場を打ち壊してめちゃくちゃにした挙句、騎馬で走り去ったとかなんとかかんとか。

うんうんと頷く榠樝に、先を促す。

「次は月白つきしろ家でございましょう」

「月白の当主は大納言だいなごん凍星いてぼし

「月白家は末のご子息が病弱であることしか、わたくしは存じあげませんが」

頷いて、榠樝は碁石を四つ置く。

月白家の直系四兄弟。

他の追随を許さないほど素晴らしい所は特にない。

良くも悪くも普通の貴族らしい貴族の子息たちである。

「月白の四郎ね。元服して六花りっかと名乗るようになったわ」

「まだ十かそこらではございませんでした?」

驚いて平衡を崩した堅香子に頷いて、榠樝は筆を執る。

はらいやらまじないやら、渡来の薬やらなにやら試したけれどなかなか効果が出なくてね。陰陽師おんみょうじ何某なにがしとやらが占いにとびぬけて秀でているとかで、卜占ぼくせんの結果、早々に元服するのが良いのでは、となったらしく。つい先日のことよ」

「お詳しいですね」

「ちょっとね」

曖昧に誤魔化した榠樝に、堅香子は胡乱うろんな視線を向けた。

「陰陽寮に何かご用事が?」

「ん-ん。なんでもないわ」

白々しい素振りの榠樝に、堅香子はますます不審な顔付きになる。

「わたくしに隠れて、何かなさいました?」

「ええと最後は黒鳶ね」

「榠樝さま」

「母上の実家だから、気安いといえば一番気安く近しいのだけれども」

堅香子は追及を諦めた。

「ご当主は榠樝さまの御叔父上の夕菅ゆうすげさまであらせられますね。御母上の弟君、黒鳶の大納言さま」

榠樝は黒鳶の従兄弟たち三人の名を連ねていく。

「黒鳶の本家の者たちは幼い頃は遣り取りもあったけど、最近は縁も絶えてしまったわね」

堅香子が苦笑した。

「なによ」

コホンと白々しく咳払いして、堅香子が重々しく言う。

「幼い榠樝さまのあまりの闊達かったつさに、音を上げてしまわれたと聞き及んでおりますが」

多少気まずげに榠樝は視線を泳がせた。

「浅学を指摘したのが痛かったのでしょう。私のことを怖がっているわ。自分の勉強不足を棚に上げて」

偏継へんつぎをやらせれば榠樝の圧勝。囲碁も、貝覆かいおおいもなぞなぞも、すべて榠樝の一人勝ちだった。

「挙句、詩歌も管弦も私に劣るのでは仕方ないでしょう。相手にもならないのだもの。でも流石に小弓こゆみは負けたわよ」

「蹴鞠までなさったとか」

「蹴鞠は流石に数回よ。難しかったわ。私何度も失敗したもの。毬打ぎっちょうはやらせてもらえなかったし」

しかし周囲が止めなければ、蹴鞠どころか馬にまで乗ろうとしたというから恐ろしい。

姫君のするところではない。だがしかし、榠樝は女東宮。

前例の無い立場の者が前例の無いことをして何が悪い、と宣われると誰も何も言い返せぬ訳で。

「そこらの若君ではとても太刀打ちできませんわね」

婿たる者は相当な器の持ち主で無ければ、榠樝に遣り込められてしまうだろう。

「当たり前でしょう。私は女東宮なのだから。そこらの若君に負けているようでは務まらないのよ」

虹霓国を率いていくのだ。

それくらいの気概は当然に必要である。


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