学問よすすめ
その学生のことは、少し前から、気にしてはいた。
「先生、質問よろしいですか?」
始めにその学生が私の研究室にやってきたのは、確か、5時ごろ。
4限の授業を終えて、帰宅まで自分の研究に専念できる。と一息ついた頃の話だった。
「おお、質問。まだ一年なのに偉いねえ君は」
最初はイラっと来たけど、よくよく考えてみればそれは私の授業を真面目に聞いてくれたってことだ。素直にうれしい。
私は彼女に椅子を勧める。
「はい、今日の講義の所なんですけど...」
彼女の質問は、実に的を得ていた。それも、恐ろしいくらい。
こんな質問があればどんなにうれしいんだろうか、とか考えていた部分だ。
「ああ、これはガウスの発散定理の応用だよ。えっとね...」
そこら辺の紙に、数式を書いていく。
研究のことは忘れて、つい没頭してしまう。
「...となるから、ガウスの法則の微分形が得られるんだ。わかった?」
ついつい話が脇道にそれてしまった。しかし彼女は、それを難なく理解して、すっきりした顔をしている。
「なるほど、そうだったんですね。」
そして、来る前とは真逆の笑顔を見せて、部屋を離れていった。。
「あの学生は、入学試験の5教科で、満点を取ってこの大学に進学したそうですよ」
「彼女の家は政府と取引をしている大企業だそうだ」
知り合いの男性教授はそう言って、私に教えてくれた。
「へぇ~すごいですね、そうなんですか」
平静を装う。
何とも思わないわけがないだろう。
私は、帝都から遠く離れた寒村で産声を上げた。
ここの産業は、はっきり言って全くない。最近ガス田が発見されてからマシになったとは聞いたが、私が生まれたころはわずかに農業がある程度で、父を含めた男たちはたいてい都市へ出稼ぎに行き、そこから送金する。
勿論大学に行くやつなど皆無。都市へ向かう交通手段は、月に一回、バスがあるのみ。ここは見捨てられた地域なのだ。
でも、私はここにいる。
この国の頭脳を育てる、大変な役を、血の滲むような努力で勝ち取った。
私と彼女は、月と鼈。間違いなく違う。根本から違うのだ。
彼女が持っているのは天賦の才だけではない。
彼女の出自、環境、すべてが「成功」へと向かう軌道を形作っている。
「先生、こんなに詳しく教えてもらって、ありがとうございます」
講義室で、彼女を見つけるたび、ほんの少し、泥のような感情が自分の中でぐるぐる回り始めるのを感じる。
彼女は生まれながらにして、どこへでも行けた。
きっと、あの帝都の高層ビル群の中で、どこかの企業を動かす立場にまで登り詰めるのだろう。
何の支障もなく。
一方、私には――
机に向かうとき、窓の外を見るとき、あの寒村がちらつく。
狭い集落の景色、しがらみ、そしてそこから抜け出したい一心で貨物列車にしがみつき、家出した、あの雪の日。
それらが自分をここまで運んできたはずなのに、時々、そのすべてが無意味だったのではないかと思ってしまうことがある。
彼女のように生まれついて持つものを持っていたら、違った未来があったのだろうか?
いや、こんなことを考えるのは止めよう。今は今だ。それだけである。
「先生、また来ますね!」
笑顔でそう言いながら研究室を出ていく彼女の背中を見送り、私は深いため息をつく。
それでも、私は。
鉛筆をとって、研究ノートを開き、数式を書き始める。
自分が積み上げてきたものは、きっと無意味ではないと信じる。
「先生、明日は予定はありますか?」
秋、中間テストが近いころ、私は彼女に話しかけられた。
「うーん、明日なら大丈夫だよ。どうしたの?」
質問以外で話しかけられたのは初めてだ。どう話していいものか、少し緊張する。
「よかった!先生、もしよろしければ私の家に来ませんか?」
とてもびっくりする。
私は、大学時代の学友も含めて、誰の家にも行ったことがない。
なので、逆にその誘いを受けたことがないため、とても仰天した。
「え?ああ、うん、いいよ」
とても緊張したが、私は少し彼女の家が楽しみでもあるので、了承した。
6時ごろ、彼女は待ち合わせ場所に指定した図書館の前で私を待っていた。
「こんばんは」
彼女の服は一見素朴で、あまり華美なものではないが、サイズがあっており、毛並みや仕立てから見て、かなりの値段がするだろう。
そのまま歩いて、地下鉄に乗り込んで、家へ向かう。
めったに乗らない路線だ。
車内は、すいていて、空席が目立ったので、2人腰かけることができた。
『メイン・ストリート6番街~』
メインストリート6番街。
高級なタワーマンションが立ち並び、その名称はいわゆる"勝ち組"の代名詞でもある。
私には縁のない地名。魅力的な地名。
私は名前を聞くだけで緊張する。
「先生、行きましょう」
電車が駅に着くと、彼女はそう言って私とともに地下鉄を降りる。
改札の外は、私の住むサブストリートの国営アパートとは違い、いくつもの明るい窓がくっついているタワーマンション。40階以上はあるだろうか。
街自体が高級で、上品だった。
その中でひときわ高い1つに彼女とともに入る。
慣れた手つきで、オートロックを解除。エレベーターに乗って、38回へ。
「...!」
「どうぞ、こちらです。」
エレベーターを降りると、彼女は案内するように廊下を歩き、部屋のドアを開ける。
「失礼します...」
私は緊張で心臓が少し早く動くのを感じながら、中に足を踏み入れた。
部屋の中は、驚くほど広く、洗練されていた。
白と木目を基調としたモダンなデザインのインテリアに、リビングには大きなソファと壁一面の本棚。キッチンは島式。その奥にはガラス張りのバルコニーが広がっている。窓の外には、煌めく帝都の夜景が広がり、どこか非現実的な光景だ。
「先生、お茶を入れますね。」
彼女は慣れた手つきでキッチンへ向かい、コーヒーサーバーに湯を注ぎ始める。
私は戸惑いながらも、促されるままソファに腰を下ろした。
「...ここ、本当に君の家なんだね。」
つい、そう呟いてしまった。
「はい。ちょっと広すぎるかもしれませんけど、家族みんなここに住んでいます。」
彼女はカップを2つ手に持ち、私の前に置くと、向かいに座った。
「お父さんもお母さんも、仕事が忙しいので、普段は私一人なんですけどね。」
彼女はカップを手に取りながら、微笑む。
やがて食事にしましょうと言い。彼女はあっという間に食事を作り上げた。
「さあ、召し上がってください。」
「本当にいいの?」
「構いませんよ。先生ですから。」
彼女は、黙り込んでいたが、私から話始めた。
将来は何になりたいか、大学生活は楽しいか、どんな音楽を聴くか。
彼女は、1つ1つに、年齢相応の、現実味のある回答を返した。
私は驚きとともに、前に感じた類のどろどろした感情が、煮えていくのを感じずにはいられなかった。
「先生の人生も聞かせてくださいよ」
上品なしぐさでナイフとフォークを持ち、肉を切る彼女は私に平然とした顔で質問した。
私は、心を氷のナイフで刺されたような感じがした。
しかし、素直になろう。
私は自らの人生を赤裸々に話した。
なにも産業のない村に生まれたこと。
到底学問とは離れた環境だったこと。
必死で家出したこと。
奨学生に選ばれて、うれしかったこと。
帰り際、彼女は笑って、
「また、大学で会う日を楽しみにしています。」
といった。
帰り道、逆風が吹く中を、一歩一歩踏みしめて帰る。
新しい時代は近い、逆境の中で強くなってみせる。
夜、自分の住む、帝都のはずれの国営アパートに帰ってくると、いきなりドアを激しく叩く音が聞こえた。
そこに現れたのは、武装した兵士と、制服の男。
「エレーナ・アアアロワだな?」
男は冷淡に、一切の感情を含まない声で続ける
「お前に国家反逆罪の容疑がかかっている。」
すると、武装した兵士が私に手錠をかけて、両腕をがっちりつかんだまま、まるで物を扱うかのようにトラックに押し込められた。
これからどのような運命になるかは、誰が見ても明確である。
押し込められたときにできた擦り傷の感覚の中、私は、思う。
ああ、結局私は彼女のようにはいかないのだな。
帝都と学問を選び、故郷と無学は捨てたと思ったのに。
トラックの乾いたエンジン音。
あの寒村は、私をがっちりとつかんで離さない。
ディーゼルの臭い。
私はあのタワーマンションから見た輝きには、なれない。
これが私の改革前夜。
改革前夜 @aaa-3454
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