煌国のマジェスティ
みささぎ
序章
胎動の章
【煌歴三六二年 一二月二二日】
その部屋には、乾いた衣擦れの音のみが響き渡っていた。
大きな姿見の前に立ち、燕尾服を
黒よりも比率の多い白髪から、歳の頃は壮年である事は分かるものの背筋は真っ直ぐに伸びており、体格も良く引き締まった体をしていることから年齢よりも若々しさを感じさせる。
口元には白さの目立つ髭を蓄えており、鋭い眼光は相対するものを
シュトラウス・ヴィッツはこれから始まる事について考えを巡らせていた。
彼は宮内省長官という宮殿内でも指折りの重臣であり、これから始まる議会においても相応の発言力を持つ立場であるため、慎重な振る舞いが求められていたからである。
だが、腹はもう決まっている。皇帝陛下に直接謁見する機会はもうここでしかないのだ。
自分にそう言い聞かせて、ヴィッツは姿見の前から扉への方向に向き直り、自室を跡にした。
歩みを進めるその廊下は、ひたすらに長い。
その長さに合わせて特注で作られたカーペットは、この国のシンボルである朱色と金色の装飾があしらわれており、靴の裏側に伝わる感触は柔らかく、職人の意匠が感じられた。廊下の脇には侍女が目を伏せて列を成し、式場へ向かう重臣を送り出す役割をしている。
ご苦労なことだ、と思い、この国の豪華絢爛を是とする主義に内心うんざりとしながらも歩を進めた先には、自身の身長の倍はあるであろう巨大な扉が待ち構えていた。
扉の両脇に待機していた門番の近衛兵が同時に敬礼をすると、それに合わせて敬礼を返す。
近衛兵は宮殿内外の治安維持に務める特別な兵士であるが、その装備は槍を持っただけの軽装で、青いベルベットの礼装に身を包んでいた。これは宮殿内の治安の現れであるが、これでいざと言う時に戦えるのかと一抹の不安を感じるのは、ヴィッツが現在でも選り抜きの武芸者であるからだろう。
そんな彼の思いも知らず、敬礼を終えた近衛兵両名が扉に手を伸ばし、ゆっくりと地の底に響くような音を鳴らして扉が開く。
「宮内省長官、シュトラウス・ヴィッツ様、ご到着!」
近衛兵が声を張り上げるとほぼ同時に開かれた重厚な扉の先には、半球形状の広大な空間が広がっていた。『獅子の間』と呼ばれる広間である。
先程までの廊下とは比べ物にならない程に宝石等の装飾が施された石柱は、左右合わせて十本が天を貫くかのようにそびえ立っている。そして巨大なアーチ状の窓から降り注ぐ陽の光を浴びて、神々しいまでの存在感を放っていた。
だがそんな建築物よりも目を見張るのは、空間の最奥部の数段高い場所に鎮座する玉座、そしてその玉座を見守るようにはためくこの国、『煌国』の国旗であった。
荒ぶる獅子と一対の剣が描かれたこの国旗は、初代皇帝が『獅子王』と民草に呼ばれていたことを現しているらしい。今やこの世界に、この旗を見て怖気づかない国などは存在しない。
何しろ、世界の領土の八割を手中に収めている名実共に世界統一国家なのだから。
そしてその超大国を統べる皇帝のみ座すことを許される玉座は、獅子を
その玉座が空席ということは、当たり前だが皇帝はまだ来ていないということであり、皇帝より遅れて到着するという失脚ものの失態をせずに済み、ヴィッツは小さく安堵した。
しかし彼が到着した時、中央部に敷かれたカーペットの左右に二列の縦隊で玉座に向かい並ぶ、他の重臣たちの無遠慮な視線を浴びることになった。
自分自身が高位の役人であり、何より定刻に遅れた訳では無い為に責められる筋合いは無いが、そんな逡巡をおくびにも出さず歩を進める。そして他の重臣たちの間を抜けて、玉座より一段下の定位置に立った。
他の重臣たちの視線を浴びながらも、目線を走らせ出欠状況を確認する。
――流石に今回の議会を欠席するものはいなさそうだ。
そう思慮を巡らせていると、左側から声をかけられた。
「ヴィッツ殿。今回の議会の流れを確認してよろしいか。」
その声の主はこの国の宰相を務める男だった。グレゴリオ・ルイ・ケルリッヒという貴族であり、歳はヴィッツとそう変わらないが身長は頭一つ分ほど低く、薄くなった頭髪を後ろに撫で付け、片眼鏡から覗く瞳からは陰気な光が指し込んでいた。
脂肪が乗り肥太った体格から分かるように根っからの文官であり、その昔は戦場で武勇を奮ったヴィッツとは正反対のタイプとなる。故に執務以外で接点はなく、それにお互い自分のことを話す性分でも無いため、一定の距離感を常に保っていた。
役人の中にはまるで友人同士のように振る舞う者もいる。しかしそれでは、この欲望の渦巻く宮殿内で生き残れないだろう。そうでなくても、
「ええ、ケルリッヒ卿。まさか自分が生きている間にこの瞬間に立ち会えるとは、光栄の極みです。進行の流れは頭に叩き込んでいます。」
「それはなにより。」
一言二言言葉を交わし、お互いに最後の確認作業に入る。事前に書類に目を通しただけでは、理解が及ばない部分もあるのですり合わせは必須だった。
なにせ今回の議会は普段のものとは違う。前回に同様の議会が開かれたのは五○年以上前であり、この国の未来を左右するといっても過言では無い、『儀式』の序章となる議会なのだから。
ケルリッヒとヴィッツは一通りの確認を終え、元の位置に戻ると、石像のように不動の体勢になった。あとは皇帝の到着を待つのみとなる。
どれほどの時間が経過しただろうか。
整列している将軍のひとりが、欠伸を噛み殺しているのを目の端に捉えた瞬間とほぼ同時に、門が開いた。
「第一三代皇帝、クリフォード・ヴァン・レガリア陛下のお成り!」
近衛兵の甲声と門の開く音が広間に響き渡り、皇帝が姿を現した。
皇帝の姿が見えると、同時にその場にいた全員が皇帝に向き直り、一糸乱れぬ動きで敬礼をする。しかしそれに対し皇帝は一瞥をくれるだけで構わずに歩を進めた。御歳七○を迎えようとしているとは思えないほどの軽やかな足取りで玉座へと向かうその姿は、在りし日に戦場を駆け回っていた頃の姿が重なるようであった。
身につけたローブには国旗が刺繍されており、首からは皇族の紋章を模した金の装飾品を下げ、君主の象徴たる王笏を右手に握っている。
背中まで伸び、末端近くで結われている漆黒の長髪とローブをたなびかせ、金色に輝く瞳で周囲を値踏みするように睨め回しながら進むその頭上には、皇帝の証である帝冠が掲げられていた。
――纏っている覇気が違う。
老いてなお健在であると肌で感じたヴィッツは敬礼の体勢を崩さず、皇帝が玉座に座す瞬間を待った。
皇帝が玉座にたどり着き、腰を沈めて一息ついた後に「もう十分だ」とでも言うかの様に右手を軽く上げると、その場にいた全員は敬礼を止め、元の体勢に戻った。
一時の静寂が訪れた後、皇帝は静かに口を開いた。
「皆の者、よく集まってくれた。今回皆を集めたのは他でもない、この国の次期皇帝を決める『
その一言を皇帝が発すると、空気が張り詰めるのを感じた。
それはこの煌国において次期皇帝を決定するための儀式である。
この儀式は、煌国初代皇帝であり唯一の『大帝』の称号を持つ、クロノス・アル・レガリアを起源とする。
大帝は血気盛んな性格であり、次期皇帝を選ぶに際して、皇帝の座は血筋だけでなく実力も伴わなければならないと考えた。
大帝には五人の皇子皇女がいた。
そしてある時、その五人を闘技場に集めるとそれぞれ剣を持たせ、殺し合わせた。そして阿鼻叫喚の地獄絵図の中、兄弟たちの血を浴びて最後まで生き残ったひとりは、次期皇帝の座を約束された。
時は流れ、その風習は三代目皇帝マクシミリアンの時代に皇位継承権者同士の命の奪い合いから、それぞれの皇位継承権者の従者である近衛兵も含めた『集団戦』へと姿を変える。
煌国がその勢力を増すにつれて儀式の規模は大きくなっていき、やがてそれぞれの皇位継承権者は独自の軍を率いることになる。それはさながら、戦争の様相を呈していた。
誰も止める者がいなかったのかと思うかもしれないが、その時代の皇帝は「大国の将たるもの、千や万の兵を率いる力無くてどうする」と言い放ち、この国家公認の内戦は脈々と受け継がれていくことになった。
この不条理こそが、今日の煌国の繁栄をもたらしているのだろう。
そして今日から九九日後、前回の
「恐れながら陛下、報告いたします。五箇所それぞれの領地や城塞についての準備は滞りなく進んでおります。」
皇帝の前に進み出て、目を伏しながら進言したのはとある文官だった。そして設備や地形について滔々と報告事項を全て言い終えると、その報告に対して皇帝は口を一文字に閉じたまま頷き、了解の意と捉えたのか文官は引き下がり元の位置に戻った。その後入れ替わるように精悍な顔立ちの男が皇帝の前に歩み出た。
「報告致します。周辺住民の一時立ち退きも予定通り進行しております。刻限までには完全に終了する見通しであります。」
男は簡潔に報告し、踵を返して元の整列位置に戻っていった。辺境の将軍であろうか、この無愛想なまでの簡潔さはある種好ましくさえあった。そして次々に重臣たちが報告を一通り終え、ずっと報告を聞き頷くだけだった皇帝が再び口を開く。
「皆の者、ご苦労であった。それでは最後に、今回の
その言葉を聞いた瞬間、胸の鼓動が早くなった。
――来た。この時が。
「第一皇位継承権者、オルテギウス・ウル・レガリア。
第二皇位継承権者、クラウゼ・ジーク・レガリア。
第三皇位継承権者、ラファール・シャッハ・レガリア。
第四皇位継承権者、アルミダ・ゼノ・レガリア。
第五皇位継承権者、ギルメロイ・ラウラ・レガリア。
以上五名を
皇帝が参加者を読み上げるのを待ってから、意を決して皇帝の前にヴィッツは進み出た。
「恐れ入ります陛下。それについて報告事項がございます。」
その場にいた皇帝も含む全員の視線がヴィッツに向けられる。どこに補足することがあるのだ、という訝しむような苦々しい顔をする重臣もいる中、皇帝の口が開く。
「ヴィッツ。何だ、申してみよ」
皇帝はヴィッツを役職名で呼ばない。それはお互いに古くからの友人だったことの現れだった。
「は。
見かねたように宰相のケルリッヒが食ってかかる。
「何を申すか。皇位継承権者は先程陛下が申されたように五名、しかといらっしゃるではないか。」
その発言に対して、周りの他の重臣もそうだそうだと頷く。獅子の間に戸惑いのざわめきが満ちていく。その中でヴィッツはケルリッヒに対し向き直る。
「はい。
しんと一帯は静まり返った。言葉の意味を処理しきれていないようだったが、その中で皇帝が問いかける。
「どういう意味だ?」
「は。話は二○年前に遡ります。
とある侍女がこの宮殿を去りました。名はイレーナ・アンゼリカ。」
その名前を聞くと、これまで表情を崩さなかった皇帝の顔色に変化が見られた。明らかに一瞬動揺が見られたが、すぐに元の威厳を取り戻す。
「そして調査を進めた結果、イレーナ・アンゼリカはスラム街に流れ着き、ひとりの男子を産んだそうです。」
ヴィッツの語りが進むにつれて、周囲のざわめきが強くなっていく。
――これ以上を言えば不敬罪で首が飛ぶかもしれない。
その瞬間、ヴィッツの脳裏には、二人の男女の顔が思い浮かんでいた。
ひとりはイレーナ・アンゼリカ。そしてもうひとりは、数日前にスラム街で出会った、金色の髪を靡かせる青年のものであった。
「それは貴方様の御子でございます。皇帝陛下。」
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