うちのおーちゃん
知世
おーちゃんについて
おーちゃんは、強烈な人物だ。
おーちゃんとは私の母方の祖母のことである。初孫である母の姉の長男、私から見て1番上の従兄弟が生まれた時40代だった彼女は「まだ私は『ばあ』がつく年齢ではない」とおばあちゃん呼びを断固として拒否した。見知らぬ他人から言われるならまだしも、孫から見たら本物のおばあちゃんなんだから良いではないかと私は思うが、それは彼女の美学に反するらしい。それから「ばあ」が似合う年齢になっても、彼女は孫たちに自分をおーちゃんと呼ばせた。
おーちゃんは、自分の恋愛の話が大好きだ。
おーちゃんとじい(祖父)は高校で出会った。川村先生という陸上部の顧問が、走るのが早かったおーちゃんを部活に誘い、当時部長であったじいは紅一点だった彼女に一目惚れした。卒業後にじいがおーちゃんに年賀状を出して交際が始まり、なんだかんだで私が生まれるに至るのである。祖父母の恋のキューピッドの名前を一族中が知っていたり、祖父が祖母を「姫」と呼んでいたりするのは、世界広しといえどうちくらいだろうと思っている。
おーちゃんは、自分の遺伝の話が大好きだ。
いとこが陸上で全国大会に行った時や、私が校内マラソンで2位になった時など、報告に行くと必ず陸上部時代の自分がどんなに優秀であったか、孫がその血を受け継いでいることの嬉しさを熱心に話し出す。そうすると次は陸上部でじいと出会った頃の話が始まってしまう。ユニクロもびっくりのシームレスっぷりである。
私は、昔からおーちゃんが苦手だった。
おーちゃんは前述するようにパワフルな人だったし、礼儀やしつけに厳しい人でもあったから、良く言えば口の達者な、悪く言えばクソ生意気なガキだった私とは相性が最悪だった。どんなに叱ってもへこたれずに言い返してくる小学生の私を持て余して泣き、母が仰天するという事件もあったそうなので、おーちゃんも私を苦手だと思っていたかもしれない。
そんなおーちゃんの病気が発覚したのは、私が中学を卒業する頃である。脳の難病だった。わかった時にはもう利き手が動かしにくくなって、言葉があまり出なくなっていた。旅館で、浴衣の着方がわからなくなっているところを見た。私に会うと、私の名前と「おこづかい」を繰り返した。何度もう貰ったと言っても、繰り返した。私は、苦しかった。
小学校の頃、通っていた学童クラブに行きたくない時期があった。放課後、クラブに行く代わりにおーちゃんの家に預けられていた。学校に迎えにくるじいはいつも私に紙パックのぶどうジュースを渡した。じいはそんな細やかな気遣いをするタイプの人ではなかったから、おーちゃんが用意していたのだろう。そのジュースをふざけた姿勢で飲むので、よく白いポロシャツを紫にした。おーちゃんがそれを風呂で漂白した。冷たい脱衣所の床の感触と、風呂場でズボンの裾を捲っているおーちゃんの背中をよく覚えている。夕飯には私の好物である天ぷらや豚の味噌漬けが並んでいた。
おーちゃんはフランス刺繍を何十年も続けていた。私が小学校の手芸クラブに入った時、彼女はとても喜んだ。玄関に飾られた見事な牡丹の刺繍が施された鏡は、展示会で20万円で買いたいと言われたけど、私にあげたくて売らずに取っておいていたようだ。私が中学の入学祝いにミシンが欲しいと言うと、喜んで贈ってくれた。そのミシンにはミシンカバーも一緒についていた。彼女手作りのそれは、白い綿の生地に小さな色とりどりの刺繍の花が施されたもので、私は一目ですっかり気に入った。すでに動きづらくなった右手でした刺繍は、他の作品よりも素朴な図案だったけれど、やはり素晴らしい物だった。それが彼女の最後の作品になった。
私は、その全てにきちんと感謝していただろうか。
病状が進むなか、それでもおーちゃんは家事をこなし、じいとふたりで暮らしていた。週末に母と一緒に様子を見に行くことが習慣になった。
その日も母と一緒におーちゃんの家に行き、細々とした家事を片付けていた。昼頃、母に電話がかかってきて、どうしても出かけなければならない用事ができたと留守番を頼まれた。
おーちゃんとお茶を飲む。そのうち、おーちゃんは私におこづかいをあげなければならないという使命感に駆られ始めた。財布を見て手持ちがないことを確認すると、玄関の方に向かう。
「どうしたの?」
「ちせちゃん、銀行」
彼女は、あげられるお金がないから銀行にお金を下ろしに行きたいらしい。印鑑などが入っている靴箱の上の丸いお盆から、車のキーを探している。彼女の免許はもう返納されているし、車もない。私は困ってしまった。「いつももらっているから今日はいいよ」や、「お母さんが来てから行こう」などと言って説得しようと試みたが、頑として首を縦に振らない。母が帰ってくる様子もない。彼女に車が無いという事実を伝えて悲しませるのも嫌だ。どうしよう、どうしようと焦った私はこう言った。
「おーちゃんがいなくなったら、私は一人で留守番していなくちゃいけない。それは寂しいよ」
それまで熱心に車のキーを探していた彼女は、私の言葉を聞いて靴を脱ぎ、居間に戻った。ほっとして私も居間に戻り、ソファに座る。隣に座った彼女は、私の手を握って笑いかけた。
その時、分かった。きっと彼女は私が感謝なんかしていなくても、どれだけ扱いづらくても、美味しそうにご飯を食べたり、笑ったり、遊んだりしているところを見て、嬉しかったのだ、と。苦しい思いや、寂しい思いをさせたくないといつも思っていたのだ、と。
泣き笑いしている私を見ながら、彼女は心配そうに私の手をさすり続けた。働き者のがっしりとした手だった。彼女の手に触ったのは、思い出せないほど久しぶりだった。
それから私はたくさん彼女の手を握った。
こわばっている右手側に立って、私が杖の代わりになって歩いた。ショッピングモールをゆっくり回って、フードコートで一緒にソフトクリームを食べた。洋服屋に入ると、やっぱり彼女は私の服を買いたがった。
食事に行った時は、私が隣に座って介助した。旅行先で茶碗蒸しを食べているおーちゃんと、食べさせている私の写真が母のスマホに残っていた。
筋肉の拘縮した右手をマッサージした。私が「熟女の柔らかさ最高」と冗談を言うと、母が笑った。
病状は進んでいった。しばらくは家で介護していたが、施設に移ることになった。私が遊びに行くと、いつも笑顔になるので、母は「私は毎日来ているのにそんな顔見せてもらっていない」と拗ねていた。
最近はもうずっと笑顔を見られていない。私のことをわかっているのかもわからない。一日中管に繋がれて横になっている姿を見るのは、苦しい。
でも、これから誤嚥防止の手術をして、口で食べ物を楽しめるようになるらしい。最近作って大成功したかぼちゃプリンも、きっと口に含んでもらえるだろう。
足や手を拭きながら、目ヤニを取りながら、出来るだけ苦しくないように、寂しくないように。と祈ることしか私にはできない。それでも、時間の許す限り彼女の手を握って、出来ることをしていきたい。
うちのおーちゃん 知世 @nanako1123
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