斉唱

Nagara(ながら)

斉唱


 親父が死んだ。

 俺たちきょうだいは全員東京に住んでいたし、親父は随分と嫌われていたから、姉も弟も喪主を渋って俺が行くことになった。

 実家に戻るのもこれで最後だと思って律儀にスーツを着ていった。けれど最寄りの駅は時代に逆行するかのように廃れていて、俺の格好は明らかに浮いていた。あたりには鬱々とした雰囲気が立ち込めていて、観光地だったころの活気はつゆほども感じられない。ここにはコカ・コーラはもとより、自動販売機すらなかった。

 鉄道駅を降りて、そこから八キロ先の海岸線に向かって歩いていく。駅近辺の繁華街跡地を抜けると視界の端から端まで田畑が広がっていて、それを懐かしみながら二十分くらい歩くと住宅街が見えてくる。そこが俺の地元だった。九十九里浜って大層な地名が付いているが、実際の砂浜は十九里くらいしかない。

 秋も終わり際の冷たい海風がうなっていた。風音の合間に渡り鳥の鳴き声が聴こえて、それで一気に懐かしい気分になった。

 俺の実家は田畑と住宅街のちょうど間にある一軒家で、なんの特徴もない普通の家のはずだった。けれど七年ぶりに見た実家の姿はそうじゃなかった。実家の塀は張り紙と落書きだらけで、俺はさすがに呆然としてしまった。それもやんちゃな中学生がやるようなものじゃなくて、出ていけだの許さないだの暴言が連なっていた。本当に実家かどうか自信がなくなって玄関を見たが、そこには俺たちきょうだいが書いた「今井」という表札があった。

 鞄の中から実家の鍵を取り出して、七年ぶりに扉に刺した。ブランクが嘘のようにするりと回って玄関が開いた。俺はそれでもまだ少し疑心暗鬼だったが、たちまち少し湿った木の香りがして、ここは確かに実家なんだと分かった。

 実家は外だけでなく中も奇妙なことになっていた。アルファベット表に始まり、周期表やら、世界地理表やらがあってまるで子持ち世帯みたいだった。少なくとも俺たちが子供だったころにはこんなもの一つもなかったし、弟だってもう二十一歳で東京に居るのだ。

「……親父、どうしてたんだ?」

 俺は親父とまったく連絡を取っていなかったことを後悔し始めていた。

 見知らぬ実家から逃げるようにして、俺はずいぶん早く通夜会場に着いた。受付で自分の名前を名乗ると、足元の方から声がした。

「あ、あの……」

 男の子だった。たぶん小学校の三年か四年だろう。俺がじっと見つめると、委縮してしまったのか、口をもごもごさせて黙ってしまった。おれは慌てて仕事のときみたいに笑顔をこしらえて、膝を屈めて目の高さを合わせるようにしてから、一呼吸おいて話しかけた。

「こんにちは、お父さんとお母さんはどこか分かる?」

「……」

「迷子かな? お家ってわかるかい?」

「……」

 無言だった。俺が普段百貨店の屋上遊園地で相手している子供も大体そうだ。迷子になった時の子供はいつだって喋らないものらしい。

「政男おじさんの、家族ですか」

 子供はぼそっと呟いた。政男は俺の親父の名前だ。

「えっと、そうだけど」

「高、高って言います」


 通夜になって、おれは老人たちに囲まれていた。親父の徴兵時代の友人、元同僚、それに名前も覚えていない親戚が並んでいたが、地元の人間はいなかった。俺は老人たちのお酌をしながら酒を断り続けて、必死にあの子供のことを考えていた。

 名前を高と言うらしいその子供の言うところによると、高はここ数年俺の実家に住んでいて、しかも俺の親父が実質的な保護者になっていたのだという。そんなことあり得ないと思ったが、高は俺の実家の間取りも、家具の配置も、親父の癖までも完璧に言い当てた。それに親父の第一発見者は高だったと聞かされた。

 地元の交番に電話して確認したら、むしろ警官は俺が高を知らないことに驚いていた。親父がこの子供の世話をしていたのは周知の事実だったらしい。

 親戚の日本酒を割りながら、俺の頭の中には高の顔と荒んだ実家の光景が繰り返し浮かんでいた。

 高は通夜の間ずっと控室に座っていた。俺は心のどこかで通夜が終わるまでには迎えがくるだろうと期待していたが、日付が変わっても高はまだそこにいた。

 通夜が終わって俺が戻るやいなや、高は覚悟を決めたような表情で話しかけてきた。

「政男おじさん、本当に死んじゃったの」

 もう今にも泣きそうだった。というか泣いていた。俺はまだ半信半疑だったから「それって本当に俺の親なのか」と聞きたかったが、まもなく高の目からぼろぼろと涙が溢れて、そこから堰を切ったように大声で泣き始めた。宴会会場まで聞こえるような、強烈な泣き声だった。

 経験上、こうなった子供は言葉じゃどうしようもないと知っている。俺は仕事で子供をあやす時と同じように、呼吸に合わせて背中をさすっていた。気が付けば高は疲れ果てたのかそのまま眠ってしまった。

 幸いなことに通夜と葬式の会場は一日中取っていたから、俺は高を仮眠室まで運んで布団に寝かせた。俺はどうにも眠れる気がしなくて、控室の窓から外を眺めていた。結局俺は朝までずっと起きていた。


 先に電話がつながったのは弟だった。受話器がとられた時の、ザッという雑音がしたとき、弟はまだ規則正しい生活をしているんだと思って安心した。

「はいもしもし、今井です」

「おれだ、相也だ」

「……え? ああ、兄ちゃん……その、ごめんよ、色々と」

 弟は俺に喪主を押し付けたことをずいぶん申し訳なさそうに思っているみたいだった。

「ああまあ、別にいいよ、それにこっちもこんな朝早くにかけてすまない」

「普段から起きてるから、大丈夫だよ」

「朝起きて勉強してるのか?」

「まあ、うん。そうだよ」

 勤勉な弟だった。さすが唯一大学に行っただけはある。

「その、答えにくいかもしれないんだが、祥が最後に実家にいたのっていつだ?」

「……行ってない、一回も」

「じゃあ出て行ったときが最後で……もう三年前か」

 懐かしい記憶が蘇ってきた。高校が終わった後の春休み、こっそりと東京の大学に合格していた祥は、意を決してそれを親父に伝えたものの大反対を受けて、そのまま逃げだしてきたのだ。家が決まるまで、祥は俺と姉の家に交互に泊まっていた。

「なあ、その時の実家ってその、なんか、変になってなかったか?」

「……? どういうこと?」

「言いづらいんだが、塀に落書きされてたり、「出ていけ」だの書かれた紙が貼り付けられてたり……みたいな」

 祥はしばし絶句して、気まずい沈黙が流れた。

「知らない……けど。その、どういうこと?」

「俺も帰ってびっくりしたよ、ああ、それと高って名前の子供も知らないか」

「知らないよ。待って兄ちゃん、それって実家の話?」

「実家の話だよ。おれもよく分かってないんだ」

「その……なんか、大丈夫なの? 兄ちゃんは」

「今のところは。ちょっと時間がないから、また後でかけるな」

 俺はそう言って電話を切った。電話を貸してくれた葬儀場の警備員にお願いして、姉にも留守電をさせてもらってその場を離れた。

 仮眠室に戻ると高はまだぐっすりと眠っていて、その姿を見ていると眠くなってきた。よく考えたら一睡もしていない。高が起きたら起こしてもらえるだろう、と思って俺はその場に横になった。

 結局俺は葬儀場の人に起こされて、慌てて葬式会場まですっ飛んでいった。俺は一応喪主として何かを喋ったが、あまりよく覚えていない。ただ参列していた老人たちは随分と感慨深そうにしていた。俺には何が彼らを繋ぎとめているのか分からなかったが、少なくとも彼らは集まっていた。俺たち家族は集まれなかったが。


 俺は九十九里浜の近くで生まれ育った。

 地元のことを聞かれるとき、決まっておれは「ハンバーガーみたいな場所だ」と紹介している。まず海岸線が四〇キロメートルくらいある。そこから内陸に向かって、砂浜、住宅、大量の田畑、繁華街、鉄道、山の順で折り重なっている。厚さ約八キロメートルの田舎バーガーだ。田畑が六キロ以上あるわけだが。

 のどかで良い場所だった。ちょっとした観光地だからいつも見知らぬ人の往来があって、飽きることもなかった。

 九十九里浜には昔からコアジサシという鳥がいた。俺にとっては親の顔より見た鳥で、そいつはクュイクュイというふうに鳴く。胴体は真っ白、頭は黒、くちばしは黄色と綺麗に分かれていて、小鳥ってほどじゃないがカモメよりは幾分か小さい。

 コアジサシは渡り鳥のなかでも夏鳥という種類のやつで、春から夏にかけて日本で過ごし、寒くなる前に南半球へと消えていく。俺はそいつのことが好きだった。学校帰りには毎日のように浜まで寄って、その声を聴いていた。家に帰っても親父がいてぶん殴られるだけだったから、という理由もある。

 伝染病みたいなものなんだと思う。

 俺が中学生のころから、夏が終わってもしぶとく日本に残り続けるコアジサシが現れた。当然日本の冬は寒いのでほとんどが死んだ。最初は浜のだいぶ北の方に居たらしいが、数年のうちにどこでも見られるようになった。

 中学生だった俺たちはそいつらをバカ鳥と呼んでからかっていた。教師には止められたが、そんなことで「バカ鳥、バカ鳥」と叫ぶのをやめる子供はどこにもいなかった。

 俺が高校を卒業するころには、夏の終わりに飛び去って行くコアジサシはほとんどいなくなってしまった。それに冬の生存率も上がって、四〇キロある砂浜のどこを見てもコアジサシが歩き回っていた。何百メートルか歩けば必ず一つは死体があって、ハエがそれに群がっていた。行政が定期的に回収してはいたが、そのペースを上回るようにしてコアジサシは増えていった。

 その時もう九十九里浜は観光地ではなくコアジサシの死体遺棄所になり下がって久しく、それを冗談にできる雰囲気はとうの昔に消え去っていた。


 葬式が終わって、出棺、火葬までして葬儀場に帰ってくる頃には十七時を回っていた。日の入りの早い秋空は、綺麗な赤色に焼けていた。

 高は昼過ぎに起きたらしく、それから何時間も俺の帰りを待っていたみたいだった。もう控室も仮眠室も次の客が使っていたから、高はそこを追い出されて一人ロビーで座っていた。俺は火葬の行き帰りのあいだずっと高をどうするか考えていた。もし親の元に帰れと言って帰れるのであれば、そもそも親父が保護者になっていたりしないだろう。だが俺は間もなく東京に帰らないといけないし、そこに高を連れていくことはできない。だからといって小学生の子供を捨て置くのも心苦しかった。

「俺の家以外に帰るところはあるのか?」

 おれはまた膝をかがめて、高と視線を合わせた。

「ううん」

 高は伏目がちに小さく首を振って答えた。

「とりあえず俺の実家に、ああ、政男おじさんの家に行こう」

「……良いの?」

「まあ、ひとまずは」

 高が安堵するのが分かったが、俺の心は晴れなかった。 


 高は俺の後に続いておずおずと実家に入ると、荷物を置いて、居間のテーブルの前にちょこんと座った。おそらくいつもそこに座っていたのだろうと分かる佇まいだ。傍目にも明らかに家の空気に慣れていた。

 高はあまり喋らない性格のようで、受け答えもほとんどが「うん」「ううん」ばかりだった。俺はひとまず葬式で貰った土産物と、東京駅で買って飲まなかったコカ・コーラの缶を高の前に置いて、実家を見て回ることにした。

 塀は張り紙と落書きでめちゃめちゃで、シンナーの臭いが鼻についた。貼り紙の時期から見ても、生前の親父はこれを放置していたことになる。

 俺はまず紙を全部剥がすことにした。微かな街頭の明りに照らすとありふれた暴言ばかりが目に映ったが、そのなかにふと「高」の文字があって目が留まった。

「あぁ、ねえ……」

 俺はすべてを察して、思わずその場で深いため息をついた。そのあとシンナー臭を吸い込んで盛大にむせた。

 高は苗字を名乗らなかったが、その紙にははっきりと「天池高」と書いてあった。この地方で知らない人間はいない苗字、すなわちここから十キロメートルほど先にある石油化学コンビナートの工場長の一家の苗字である。年齢からして高はその一番下の子供だろう。父親が自殺したのは知っていたが、母親もいなくなってしまったのだろうか。ずいぶんと不憫な境遇だ。

 居間に戻ると、高はいつの間にか黒色のランドセルを抱えていて、その中から「連らくちょう」と書かれたカラフルなノートを取り出すところだった。おれは高に見られないように手早く紙を捨てて、手を洗ってから高の前に座った。

 高は両手に「連らくちょう」を握りしめて、体は俺の方を向いていたが目線は机をじっと見つめていた。

「どうしたのかな」

 俺が遊園地モードで話しかけると、高はゆっくりと「連らくちょう」の一ページを開いて、俺の方に差し出した。

「出てほしいの」

 そこには年間の「行じカレンダー」があって、明日のところには赤色で「運動会」と書いてあった。

「……運動会に?」

 嘘だろうと思いながら尋ねると、高は下を向いたまま首を縦に振った。

「ええっと、俺が、その――なに、保護者としてか?」

 高はまた頷いた。俺はもう一度よくよく「連らくちょう」を見た。確かに明日は運動会で、小さな字で「親子二人三脚」と書いてあった。あわよくば座っているだけでいいかなと思ったが、そういうわけにもいかなそうだ。

 高はランドセルからさらに紙を取り出して俺に見せた。そこには小学校の名前が書いてあって、俺の通っていた小学校だと分かった。運動会のスケジュールは昔に比べて随分と短くなっていた。

「二人三脚があって、出なきゃいけないから」

 出なきゃいけないというのなら、そうなんだろうか。


 水俣病が世間に知れ渡ってから、世間でいくつもの公害が糾弾されるようになって、九十九里浜でも同じことが起こった。少なくともコアジサシに異常が起こっているのは明らかだったからだ。コンビナートは説明を求める市民に取り囲まれて、会見を開いた。その内容もありきたりだった。

 これが他の公害と最も違ったのは、その明確な原因が最後まで分からなかったことだろう。だから本当は「公害」と呼べるのかどうかさえ分からない。カドミウムも水銀もなければ、そもそもこの程度の排水は全国どこでも行っている。渡り鳥が存在する地域で同様の被害が確認されたことはないし、九十九里浜においても鳥に異常があるのに魚に異常がない。それでも見知らぬ機序で公害が起こっている可能性は否定できなかったし、工場は閉鎖に追い込まれた。

 もう一つこれが他の公害と違ったのは、その後も事態が悪化し続けたことにある。その原因は誰にも分からないが、だからといってコンビナートが無罪として扱われることはなかったし、心象はむしろ悪化した。気の毒なことだと思う。


 翌日の明け方に、実家に電話がかかってきた。姉だった。

「はい、今井です」

「もしもし、相也? 相也だよね」

「ああ、俺だよ。ってか姉ちゃん何時に起きてんの?」

「こっちのことはいいよ、相也は大丈夫なの?」

「まあ別に」

「で、聞きたいことって何? 葬式出られなかったのは、その、ごめんって」

「ああいや、その――」

 葬儀場で姉に電話をかけたときはとにかく状況が分からなくて連絡したから、聞きたいことがあると留守電したのだった。

「いやなんか、それは大丈夫になった。でも親父が……その」

 親父という単語が出たときに、姉が身構えたのが聴こえた。

「子供を預かってたみたいなんだよ、それも一年以上」

「……え?」

「おれも訳分かんないんだって、それにだ、その子供ってのが……」

 俺は周囲を見回した。高はおそらく眠っているはずだが、さっきの電話の音で起きたかもしれない。俺はその場に屈みこんで、口を手で覆って小声で喋った。

「コンビナートの天池のところの子供っぽいんだよ」

「はぁ!?」

「ちょっと! 声がでけえよ、こっちはこっそり電話してるんだって」

 姉は何かを言いかけたが思いとどまるというのを三回くらい繰り返して、落ち着いてから聞き返してきた。

「……で、私に何かしてほしいってこと?」

「そういうわけでもないんだが、いやその、俺も何をしたらいいんだか……その子供が言うところには帰る場所がないとかさ、親がいないとか言うから」

「なんもできないよ、私」

 俺を遮るようにして姉はそう言った。なんだか姉らしくない仕草だと思った。実家にいたときの姉は勇猛果敢だった――とまでは言わないが、少なくともこんなに後ろ向きではなかった気がする。

「なあちょっと待ってくれ、俺だって東京に帰らないといけないんだよ。明日はもう仕事だしさ。でも十歳そこらの子供を放置するのか?」

「父さんみたいな人探せばいいでしょ、ねえとにかく私――」

「そうもいかないんだって、実家すごいことになってんだぞ、暴言書かれた張り紙されるわ、塀にひどい落書きされるわ、出ていけだのどうのと」

 姉は絶句して、長い沈黙があった。さすがに一分くらい喋らなかったから、俺は電話が切れたのかと思って口を開いた。

「姉ちゃん? いるか?」

「……いる、待って、祥はいるの?」

「いないよ、ただ実家のことは知ってるけど」

「なんて言ってた?」

「どうだっけか……ああ、時間が無くてこっちから切ったんだった」

「何、あんた、祥に言うだけ言って切ったってこと?」

「しょうがないだろ、俺だって忙しかったんだ」

 ああもう! という叫びを噛み殺したような唸りのあと、姉は「私が祥にかけるから」と言って電話を切った。

 時計は朝の五時を指していた。高はまだ心地よさそうに眠っていたから、おれは朝までには戻ってくると書いて外に出た。俺の足は自然と海の方へと向かっていた。

 九十九里浜の実物を見るのも七年ぶりだった。海へ近づくにつれてコアジサシの鳴き声がうるさくなってくる。まだ砂浜も見えないうちから、既に煩わしいくらいの密度の鳴き声がした。だんだんと人の痕跡がなくなっていく。住宅は建っているのだが、人が住んでいる形跡が一切なくて不思議な光景だった。いよいよ海が近くなってくると、もう住人がいなくなって何年もたった家ばかりだった。

 つんと鼻をつく臭いがした。腐乱臭ではない、科学的な消臭剤と殺菌剤の香り。どちらにせよ吐き気を催すものであるのに違いはなかった。俺は鼻をつまんで歩いていく。砂浜のすぐ横には土手があって、それを超えると一気に視界が開ける。俺は誰もいないことを確認すると、土手を登って有料道路を横切った。

 そこはコアジサシの天国だった。左から右まで、視界が途切れるまで延々と同じようにコアジサシがひしめいていた。クュイ、クュイという何千もの鳴き声が重なった音は、ガガァガガァって怪獣の鳴き声みたいだった。夜明け前の月明かりに照らされたコアジサシたちは、目だけが時折煌めいて見える。

 海の音は聴こえず、ただ鳥の声が波音のようだった。それはランダムに発せられているのではなく、本来の海の波音がそうであるように、何かしらのルールに従っているような音だった。

 コアジサシたちが向く方向もそうだった。常に思い思いの方向を向いているのではなく、時折ほとんどの鳥がある方向を向いたり、またバラバラになったりする。次に俺が瞬きをした瞬間、何百羽ものコアジサシがこちらを向いた。キュキュ、クュイ、クュイ。そのあまりにも恐ろしい光景に俺は思わず後ずさった。このまま砂浜に踏み込んだら帰ってこれないような気がして、俺は万が一にも自分がそうならないように、なんて変なことを考えながら走って逃げた。

 家に帰ると高は起きていて、律儀に居間の机の前で正座していた。朝ごはんを食べたのか聞くと、ううん、と帰ってきたのでまた葬式で貰ったお菓子を渡した。冷蔵庫を見たが傷んだ総菜や野菜が並んでいるばかりで、どれもが嫌な香りを発していた。旧式の冷蔵庫だから性能もよくないのだろう。それに冷凍庫もついていなかったから、使えるものはなさそうだった。

「今日が運動会……なんだよな?」

「うん」

「弁当とかはいらないのか? お昼ご飯は」

「……ない」

「どっちだ?」

「お昼は、給食がなくて、たぶんない」

 じゃあ弁当が要るってことか。どうすればいいのやら。思い出せば俺は東京に出てからもまともに料理をしていないのだった。しばらく考えて、俺が地元の商店の開店時間を思い出しはじめたとき、また電話が鳴った。

「相也、そっちいくから」

 姉の声だった。

「は?」

「とにかく、ひとまずそっちいくから」

「忙しいんじゃなかったのかよ」

「良いでしょ、別に」

「わかんないよ、何が良いんだ」

「もういい? すぐ出るから、今日中には着くから」

 取り付く島もなく電話は切れた。

 呆然としている場合ではなかった。俺は慌てて弁当を買いにいった。


 俺は高と一緒に学校に行くのだと思っていたが、高はそれをダメだと言ったので、俺は後から一人で行った。暇だったのでゆっくりと辺りを眺めながら歩いていく。小学校はだいぶ海に近いところにあって、周りに住民はいない。ここに現在通っているのは、俺の実家みたいに内陸寄りの場所の住民だろう。

 この道を通るのはずいぶん久しぶりだな、と思う。中学生になるとこの通学路を通ることもめっきり減ったから、俺の脳裏には自然と小学校のころの思い出が浮かんでいた。

 弟は二学年下でずっといじめられていて、俺はそれが波及する形で少しだけいじめられていた。なかなか来ない弟を教室まで迎えにいくと、決まってその同級生から嫌な顔をされた。俺が大丈夫かと聞くと、弟はいつも大丈夫だと返した。その頃の祥は今よりも喋らなかった気がする。俺はその足でよく海まで行って、土手の上の有料道路を渡って二人で海岸を眺めていた。そうして弟が「兄ちゃんと姉ちゃんはすごいや」と言葉をこぼすところまで毎日一緒だった。

 校門はあの頃と変わってなかったが、どこか寂れて悲しい雰囲気をまとっていた。

 俺が小学生だったころに比べれば随分と小ぶりな運動会で、全校生徒が並んでも三十人くらいしかいなかった。高もその中に並んでいて、身長も姿も周りと変わらないはずなのに、気のせいか浮いているように見えた。俺も同じように保護者席の中で浮いていた。もちろん年齢的に若いのもあったが、何より俺は「親」という姿かたちをしていなかった。あまりにも居たたまれなかったので、俺はこそこそと隅の方に隠れて運動会の様子を眺めていた。

 分かったことがある。高はだいぶ嫌われている。

 けれど同級生に嫌われているんじゃなくて、親から嫌われている。むしろ同級生はそこまで高に強く当たっているようには見えなかった。実家で見たランドセルも綺麗だったし、「連らくちょう」が水に濡れた跡もなかったから、弟よりもよっぽど仲良くやっている。

 そして明らかなこととして、高に向けられた視線は本来保護者に向かっているものだ。つまり俺が高と一緒に行っていたら、あの視線が俺に向いていたことになる。

 俺は親子二人三脚までのあいだ何度も逃げ出そうか悩んだが、親父の名前を呟きながら泣く高の姿を思い出して踏みとどまった。

 いよいよ二人三脚のときになって、俺は周囲の視線を受けながら高と足を結んで、スタートラインに立っていた。俺はそれに気が付いていながらも、どうして自分たちがこんなにも視線を向けられているのかわからない、という顔をして立っていた。高に対して申し訳ない気持ちと、憐れむ気持ちと、とにかく色々ごちゃまぜになった感情が俺の中を渦巻いていた。

 鳥の鳴き声を切り裂くようにして、スタートの空砲が鳴った。

「いっちにっ、いっちにっ」

 高は大真面目に声を出して走り始める。俺はとにかく足手まといにならないように、それに合わせる。高は正面だけを見つめている。俺のほうがはるかに身長が高いが、高の影に隠れたい気分だった。

「いちにっ、いちにっ」

 次第に早くなる。というかぶっちぎりじゃないか? 隣を走っていた親子がいつの間にかいなくなっていて、俺は剥き出しの視線のもとに晒されていた。最後のカーブを曲がって、ゴールテープがちょっと先に見える。その時俺はふと、このままゴールしてはいけないんじゃないか、なんて思ってしまって足が乱れた。

「いちにっ、いっ……!」

 勢いがついていたから高は盛大に転んで、おれもそれにつられてバランスを崩した。高に覆いかぶさらないように、とっさに横に転ぶ。思ったよりもずっと痛かった。後ろから足音が迫ってくるのが分かる。急がなきゃと思ったが、俺が前を見たときにはもう周りの親子がどたどたとゴールしていくところだった。瞬きの間にゴールテープはなくなってしまった。

 俺は今、何かとんでもないことをしたんじゃないだろうか。

「……おじさん、おじさん」

 高が俺の背中を叩く。横を見れば高はもう立ち上がっていて、俺は立ち上がる途中で呆然としていたのだった。

「あっ……ああ! ごめん」

 俺たちは不格好なまま、二人でゴールした。俺は謝らずにいられなくて、足の紐もほどかないまま、トラックの上でなりふり構わず高に頭を下げた。

「ごめんな」

「ううん、大丈夫」

 高はこちらを見ず、紐に手をかけてもう一度言った。

「大丈夫」

 俺が顔を上げると、凄まじい数の目がこっちを向いていた。

 クュイ、クュイ、と遠くにあるはずの鳴き声がやけに大きく聞こえる。紐は既にほどかれていたが、到底逃げられるような状況じゃなかった。


 まず姉が十七歳で実家を出ていった。

 姉は祥や俺と違って親父に正面から物を言っていたし、祥や俺が殴られた時も横から突っかかるもんだから、親父との仲は特に険悪だった。口喧嘩になると姉は決まって「いつまで拗ねてるの」と言って、それに対して親父は「関係ないだろ」と大声を張り上げた。俺や祥には母が居た頃の記憶がなかったが、姉は年が飛んでいたから、まだ平和だったころの家族のことを覚えていたのだ。

 姉が居なくなった日の前日は特に激しくて、親父は姉の頬を思い切り殴った。それに対して姉もやり返して居間はひどい様子だった。まだ小学生だった祥が怯えて眠れないもんだから俺が仲裁に入った。

 翌日俺たちが学校に行った後に姉は東京に行ってしまって、それきりだった。俺たちの部屋には姉からの置手紙があって、端的にはごめんなさいと繰り返し書かれていた。親父宛の手紙はなかった。親父は怒り狂って、それからしばらく俺と祥は部屋に籠っていた。

 次に俺が実家を出た。俺もやはり喧嘩別れだった。俺は前々から高校を卒業するときに出ていくと親父に伝えていて、それに対して親父は勝手にしろと言うのだからてっきり納得しているのだと思っていた。けれどその引っ越しの前日、地元に残れと言い出した父親と軽い口論になって、俺は散歩に行ってくると嘘をついてそのまま実家には帰らなかった。一九六五年の春のことだ。

 電車に乗っている間、親父と弟にも申し訳ない気持ちでいっぱいだった。その時祥はちょうど部活に行っていて、そういえば俺は置手紙もしていなかった。

 最後に祥も出ていって、それが三年前だ。親父は一人実家に残されたのかと思うと気の毒だったが、かといって戻りたくもなかった。


 俺が実家に戻ると、驚いたことに姉に加えて弟もいた。通夜と葬式を俺がやったぶん、後は二人に任せて俺は一旦東京に帰ることになった。特に姉とは十年ぶりの再会で聞きたいことも色々あったが、電車の時間もあったから俺は急いで支度をした。

 俺が実家を出る折、高はすごく不安そうな表情で俺のことを見つめていた。

「姉ちゃんは凄いから、まあ大丈夫だろうよ」

 俺はそれだけ言って背を向けて、鉄道駅に向かって歩いて行った。そうして東京まで電車で揺られて、翌日は普通に出勤した。

 百貨店の屋上の遊園地はいつもと変わらないまま、平常運転だった。おれはいつも通り膝をかがめて子供と喋ってにっこり笑うというのを繰り返していた。だが脳裏には高とコアジサシのことがあって、仕事の途中も気を抜けばクュイ、クュイと口に出してしまいそうだった。

 俺は今まで曖昧にしか認識していなかったことを、はっきりと認識しつつあった。

 コアジサシの声が聴こえる。俺には何か奇妙な耳鳴りが備わりつつあった。その日はみごとな秋晴れで、水色に塗られたコンクリの屋上に気持ちのいい陽光が差していた。昔の九十九里浜海水浴場みたいだな、なんて思っていた。

 だからたぶん、そいつも上の空だったんだと思う。

 俺の前で子供が盛大に転んで、間もなく泣き始めた。その場で座って泣きじゃくるが、親が現れる気配はない。たまにこうやって放置される子供もいる。仕方ないので俺はそいつのもとに歩み寄って、同じように屋上の冷たい床に座って片手を握った。子供の手は随分と暖かくてびっくりする。

「なあ、大丈夫だから。な」

 その後もしばらく子供の手を握って、背中をさすって、同じペースでゆっくり揺らしていたが、一向に子供が泣き止む気配はなかった。俺は狭い遊園地のなかで途方に暮れていた。

 だんだん周囲の視線が痛くなってくる。別の子供が泣き始めて、親にあやされている。やっぱり俺はそのときコアジサシのことを考えていた。後輩のバイトが俺の元に来て、俺はそいつに子供を譲り渡した。しばらくして泣き止んで、遊園地にはまた平穏が訪れた。

 俺がどうしてここで働けているのか、時折分からなくなる。俺はそういう時に決まってある記憶を思い出す。コンビナートの天池のことだ。

 石油化学コンビナートの管理者、工場長であった天池は最後まで工場の無罪を主張し続けた。それには科学的な理由もあっただろうが、それ以前に千人以上の雇用があったわけだから、おいそれと「はい運転やめます」と言えるわけもなかったのだろう。だが天池はあまりにも正面から反対しすぎたと思う。中学生の俺は「もっと大人しくしてりゃいいのに」と思いながらその様子を見ていた。天池は従業員を守らなければならないのだと繰り返し叫んでいた。

 だが絶大な影響が出ているのも確かだった。コアジサシの被害がひどくなって、海辺に近い住居が廃墟に近くなると、さすがの天池も無理だと悟ったのか一転して稼働を停止した。それに天池はもともとこの地域の出身で、九十九里浜が汚れていく様子に心を痛めていたのだと、何かのゴシップで見た。

 その後も天池は地元に残って元従業員の援助をし続けた。多くの従業員が次の職を見つけて、俺の親戚にもそうして助けられた人がいた。それがある日、自宅で首を吊っているところを発見された。予兆もなかったんだという。多くの元従業員に悔やまれた。

 屋上遊園地には高と同じくらいの年齢の子供もたまに来る。小学校高学年にもなれば、ふつう親が出かけている間はどこかで勝手に遊ぶものだが、親離れが遅い子供は百貨店までついてくるのだ。だから年齢が上がれば上がるほど内気そうな子供が多かった。

 後輩のバイトは、暇そうなときはそういう子供によく話しかけていて、殊勝なやつだなと思っていた。

「そういう子と、どういう話してるんだ?」

 と一度聞いたことがあった。その時も俺は後輩に助けられて、同じように天池のことを思い出していた。

「どういう話って言われましても……今日はどこから来たの~、とか、そういう話ですよ。別にどうってことないですよ」

「たまに長く話してるときは?」

「……色々? ですかね。好きなおもちゃとか。食べ物とか。子供によって違いますけど」

「んじゃあ、子供が何も話さなかったら?」

「……何も話さないことってあります? 聞いてたら何かは話すのが子供だと思います」


 東京の図書館には過去の新聞がたくさんあって、その記事に辿り着くのには時間がかかった。天池が自殺したのはずっと前かと思っていたが、実は俺が地元を離れた直後だった。五年前ということになる。

 天池は自分の遺産を、できる限りでいいから元従業員のために使うようにと書き残していた。地元から離れて暮らしていた妻と子供はその応対のために九十九里浜に戻らざるを得なかったのだろう。そして荒んだ状態の実家を見た。

 その後のことは分からなかったが、高が一人で投げ出されるような状況になるのは、それほど不自然なことでもないように思える。少なくとも、親父が高を引き取っていたことの方がよほど不思議に思えた。

 俺は天池が亡くなった時の記事で喋っていた、何人かの元従業員に電話をかけてみた。事情を話して天池の妻に繋いでもらおうとしたが、妻も既に死んでいるのだと言われた。高は正真正銘の孤児になったわけだが、誰もがその引き取りを渋ったそうだ。まあ仕方のないことだと思う。

 最初は食い気味に断られるのが不思議だったが、三件目に電話した相手から、「数年前に同じことを言われたが」と返されて気が付いた。当然だが親父も同じことをしていたのだった。


 数日経った夜、実家から電話がかかってきた。姉だった。

「ねえ、あんた、高のことどうするのが良いと思う? 祥とも話したんだけどさ」

「どうって、そもそも俺たちが引き取れるのか? 姉ちゃんだって忙しいんだろ」

「私は……」

 姉はそこで口ごもった。

「……ちょうど仕事を辞めようと思ってたところで。だから私――」

 とそこで姉の声が途切れた。電話越しで、少し遠くに姉と高の声が聴こえる。何を話しているのかは分からなかったが、高はそろそろ眠る時間だろう。

 しばらく待っていると、今度は弟の声がした。

「兄ちゃん、兄ちゃん?」

「んあ、ああ、俺だよ。祥か?」

「うん」

「姉ちゃんは?」

「今高を寝かしつけてる。高、すっかりお姉ちゃんに懐いてさ、寝るときも起きるときも一緒なんだよ」

「それは……その、すごいな」

「姉ちゃん、なんかお母さんみたいだ」

 俺はそれに同意しようとして、だが何かが喉につかえた。

 たまに実家に来る人がいると、お母さんみたいだねと皆が口にした。確かにそういう時は決まって姉がお茶やお菓子を出したりしていたので、そう見られるのも不思議ではなかった。俺はその意味で姉を母みたいだと思っていた。

「姉ちゃんがいると、高がすごく安心した顔をするんだ」

 けど、今弟が話しているのはそういうことではない気がした。

 しばらくして姉が戻ってきた。

「ああ待て、最後に一つだけ。祥、大学はよかったのか? 今は授業中だった気がするが――」

「うん、まあ……大丈夫だと思うよ」

「そうか、お前がそういうなら」

 俺は祥の言葉を信じることにした。

 受話器を手渡すザザッという雑音のあと、姉の声がした。

「ごめんね、高は寝かせたから」

「で、なんの話だっけか」

「高のこと」

 そうだった。俺たちはずっと実家にいられるわけじゃない。

 俺は姉に高の両親のことと元従業員たちのことを伝えようとしたが、姉はどうやらすでに同じ話を高から聞いていたらしい。特に母親のことは俺よりよっぽどよく知っているみたいだったが、具体的な話は濁された。

 一呼吸おいて、姉が切り出した。

「高のこと、まあ引き取ってもいいかな、って思う」

 俺には、それが数日でしていい決断には思えなかった。けれど姉の言葉にはどこか有無を言わせぬ覇気があって、俺はただ頷くことしかできなかった。昔と同じだった。問題が解決しているようにも、いないようにも、そもそも問題なんて何一つなかったようにも、あるいは今なお問題だらけなようにも思えた。

 姉はさらに続けた。

「あと私ね、別にこっちに戻ってきてもいいかなって」

 意外だった。姉はきょうだいの中でも一番激しく親父と喧嘩してここを出ていったので、こっちに帰ってくる気はさらさらないのだと思っていた。

「高を東京に連れていくんじゃダメなのか?」

「……それはね、まだ分からない。東京に行った方が良いような気もするし、そうじゃない気もする。こっちもみんながみんな高のことを嫌ってるわけじゃないから。とくに同い年の友達とか、高はすごく大事にしてるみたい。理解がある大人だってたくさんいるし」

「まあ、姉ちゃんがそう言うなら……。でも仕事は大丈夫なのか?」

「それはね、まあどうにでもなるかなって。祥もそろそろ卒業するでしょ」

 祥の名前が出てきて驚いた。

「それは、祥がそっちで就職するってことか?」

「必ずしもそうとは言わないけど。ほら、うちって田舎だし。祥が働けばこっちの生活費くらい出せるだろう、ってこと」

「祥はなんて?」

「それでいいって」

 祥もずいぶん大きな決断をしたみたいだった。

 それからしばらく会話して、俺はまた週末に実家に帰ることになった。葬儀の後にするつもりだった実家の整理を放り出したままだったし、高も俺にもう一度会いたいと言っていたらしい。


 俺の中で何かが固まりつつあって、そのうちの一つは転職の決意だった。もともと死ぬまで百貨店に居続ける気もなかったが、今が転職する時だと思ったのだ。十八歳で地元を飛び出してきた俺にはまともな職歴も経験もなかったが、天池の元従業員たちに電話をかけて頼み込むと、そのうちの数人はしばらく俺のことを雇っても良いと言ってくれた。

 いざそうと決まると自分が百貨店の屋上で数年働いていたのが本当に可笑しいことのように思えてきて、俺は東京の自宅でしばらく笑っていた。コアジサシの耳鳴りはひどくなるばかりだった。


 一週間ぶりに見る鉄道駅は何も変わっていなかった。ただあの時と違って今は夕方で、真っ赤な西日が後ろから弱々しく照っていた。間もなく山に隠れてしまうだろう。俺は足早に歩き始めた。少し汗ばむくらいの歩みで繁華街を抜けて、田畑に入った。まだ住宅街まで少しあるというところで日が暮れて、あたりは真っ暗になった。遠くの街灯の光を頼りにあぜ道を進んでいく。踏み外すと大怪我をするから、いつもより慎重に歩いた。

 実家が近づくと、徐々に激しい口論が聞こえはじめた。明らかに姉の声もあった。何事だろうかと塀の影から様子を伺うと、玄関の前で姉と見知らぬ数人が大声で罵りあっていた。数年ぶりにまじまじと見る姉の姿はずいぶんと変わっていて、年をとったんだなと思ったが、覇気はあの頃と変わっていなかった。

 相手の方は手に張り紙を持っていて、なんとなくの状況は察せられた。とそのとき、姉が相手に掴みかかろうとしたから、俺は慌ててその場から飛び出した。

「姉ちゃん、落ち着けって」

「っ相也……離して!」

「まあまあ」

 姉の顔はあまりよく見えなかったが、荒い呼吸に合わせて体が上下しているのが分かった。住民であろう、もう一方の男もそうだった。俺は両者を手で制して、それでことが終わらないかと期待したが、住民の男が俺に向かって口を開いた。

「お前も天池のところのか」

「……俺は、えっと、今井ですけど、何か用ですか」

 話にならないという顔をされた。多勢に無勢だし、とにかく早く事態を収めたかったから、俺は矢継ぎ早に言葉を続けた。

「その、分かりますけど、まだ子供じゃないですか。落ち着いてください」

 俺は諭すように言ったが、相手の勢いは増すばかりだった。

「だがそいつは天池のところの子供だ」

「……でも子供でしょう、彼には責任なんて――」

「ある! なぁ、おい、あるに決まってるだろうが! お前はないと思うのか!?」

 ダメだ。俺はその瞬間、すべてが鳴き声になるような錯覚に陥った。もはや相手の言葉が何を言っているのか分からなくなって、様々なことが頭を駆け巡った。少なくとも俺がこの場を取りまとめることなんてできない。その隙に姉がまた食って掛かって、俺はそれを訳も分からず仲裁した。その間ずっと、後ろから何人かの住民がこっちのことを見つめていた。

 姉がいると終わらない気がしたから、頼み込んで家に入ってもらった。

 落ち着いた頃には住民の手に持っている紙は破れていて、俺の体に滲んだ汗は乾ききって、夜風がひどく寒く感じた。もうあらゆる罵声は一通り聞いた気がする。お互い疲れ果てていたが、俺は怒鳴っていなかったから、たぶん相手の方が疲れていた。

「まあまあ、落ち着いてください」

 俺は途中からそんなことばかり言っていた気がする。半ば呪文のようにそれを唱えて、事態が落ち着くことを祈っていた。

「偏屈な野郎が消えたと思ったら! 今度はその子供が来やがって!」

 住民は最後までこちらを威嚇しながら去っていった。親父はこれをどうしていたんだろうか。

 誰も居なくなったことを確認して、おれはため息をついた。ゆっくりと玄関に向かって歩いていくと、物陰に高がいた。一体いつからかは分からないが、高は寒そうにぶるぶると体を震わせていたから、ずいぶんと長く外にいたようだった。

 体が冷え切っていたから、ひとまず風呂に入れた。

 高がいないから家は大騒ぎになっているのかと思ったら、姉も弟も居間で座ったまま眠っていたのだった。姉の顔には涙を流した跡があって、疲れのせいかずいぶんと老けて見えた。俺の中の姉ちゃんはまだ十七歳で止まっていたのだと思った。

 俺がじっとすれば居間のなかには寝息が微かに響くばかりで、さっきまでの姉の覇気が信じられなかった。高が風呂を出る音が聞こえた。

 居間の引き戸を、高はカラカラと音を立てて開けた。その音に姉が起きて、ゆっくりと目を開けて高の方を見た。それで、寝ぼけ眼のままにっこりと笑う。

 高はそっと姉の横にいくと、机の上にある姉の手に両方の手のひらを重ねて「大丈夫」と一言呟いた。

 俺たち三人全員が目を見開いた。

 見開いて、そして何も言えなかった。

 姉は震える手で高を抱きしめて、ゆっくりと背中をさすり始めた。高が完全に体重をあずけきっていないからか、最初は不安定に見えたが、ものの数秒のうちに高は綺麗に姉に抱かれて、一つの大きな丸のようになった。お互い目を閉じていたが、その微かな呼吸の動きさえもぴったりと同調していて、高の呼吸の速度は次第にゆっくりとなっていった。二人は机の横で小さな振り子のようにして揺れていて、俺は呆然とその光景を見つめていた。

「大丈夫だよ、大丈夫」

 姉はそれだけを繰り返し囁いていた。

「大丈夫だからね」

 何が起こっているのかは分からなかったが、たぶん一番最初に泣き始めたのは姉だったと思う。それとほとんど同時に高が涙を流し始めて、姉の呼びかけに対して、うん、うん、と声を出しながら泣いていた。

「ほら、大丈夫でしょ」

 弟もやはり同じリズムで揺られていた。それが大丈夫であることの証であるかのように。

 姉は涙を流しながらも柔らかに笑っていた。俺はこんな顔をした姉を見たことがなかった。頬は赤く腫れて、それは親父と喧嘩して泣いていたときとそっくりだったが、あの頃よりもざらついて見えた。姉の横顔は、なんだか真っ赤になったミカンの薄皮みたいだと思った。その下で血管が脈打つのが見えたような気がしたからだ。

 高は落ち着いた様子で、とても大丈夫そうだった。

 そのリズムが崩れる。弟だ。

 祥も涙を流していた。初めのうちはわずかな量だったが、やがてぼろぼろと崩れ落ちるように泣き始めた。それに気づいた二人は、抱き合うのをやめ、弟を両側から抱きしめるようにしてまた同じことをし始めた。次第にメトロノームが合うようにして、三人のリズムが揃っていく。弟は二人に支えられて、机に伏せて泣いていた。

「ごめん、ごめん」

 と弟は喘ぐようにしてか細い声で呟いていた。

 今度は高が「大丈夫」と繰り返しつぶやいていた。

「姉ちゃん、姉ちゃん」

 と鼻水をすすりながら泣く弟の姿を、俺はどこかで見たことがあった。弟が小学生だったころだ。姉はよくいじめられて帰ってきた弟のことを慰めていた。その時も同じように、大丈夫、大丈夫だと繰り返し言い聞かせていた。

 俺はきっとその場を立つべきではないと分かっていたが、そのとき俺はようやく自分の聴覚が何を聴いているのか分かった。

「ごめん、ちょっと、外歩いてくる」

 返事は聞かずに立ち上がった。それはちょうど、俺が十八の時についた嘘と同じだった。

 深夜になって真っ暗になった住宅街を海に向かって歩いていく。目を閉じて、あの時の鳴き声を思い出す。小学生のころ毎日のように聴いた鳴き声は今なお鮮明に聴こえてくるようだった。海に向かって次第に景色が荒れていく。最初は小さかったコアジサシの声が、今では大きな波のように聞こえた。堤防を無理矢理よじ登って、有料道路の柵を超えて、コアジサシたちと再び対面した。目を閉じると波紋が広がっているのがよく分かった。その中心は俺より少し右の、遥か前方にあるように思えた。

 立ち入り禁止のロープのすぐ先にはもう何匹かのコアジサシがいて、落ち着かない様子で歩き回っていた。ロープを持ち上げて、くぐるようにして砂浜へと入っていく。既にすさまじい臭いがする。靴を脱いでその場に置いた。

 自分が羽であることを忘れた渡り鳥の群れに、俺は入っていった。砂浜に足を置いているはずだが、抜け落ちた羽に覆われているせいで、足裏にはまるで感じたことのない不快な感覚があった。

 海に近づくにつれ、次第に腐臭が強くなる。直接は見えないが、死んだ鳥が羽に埋もれているのだ。ときおり砂浜とは違った、汚泥に足を突っ込んだ時みたいな感触があって、きっと肉や内臓を踏んでいるに違いなかった。

 それから行政が撒いている殺菌剤と消臭剤の香りもする。惨状からして焼け石に水だったが、海に劇薬を散布するわけにもいかなかったのだろう。もう鼻は使い物にならなかった。あらゆる音がコアジサシの鳴き声に圧倒されて、自分の呼吸も声も聞こえない。

 ふいに足元に波が触れる。凍えるような冷たさだった。

 遠くにイカ釣り漁船が浮いていた。船のシルエットは分からないが指向性のない白色のライトが提灯みたいに並んでいる。ここには月明かりも街明かりもなかったから、おれたちはその白色に微かに照らされるばかりだった。

 手で海水を掬うと、この闇でも赤色なのが分かった。血の色とは少し違うその赤色はプランクトンによるもので、コアジサシの死体を餌に異常繁殖しているのだ。テレビで見るよりずっとおぞましかった。

 また前に進む。波がくるぶしより高くなると、コアジサシたちはそれに合わせて揺られるようになった。もともとコアジサシは水面に滞留する鳥ではないので泳ぐ力はなく、ブイのように流されている。鳴き声が少し弱まったと思ったら、もうおれの周囲にいるコアジサシの半分くらいは死体だった。

 凄まじい腐臭と薬剤の香りが合わさって最悪の気分だった。

 今聴こえている音だけが頼りだった。ふと正気に戻れば消えてしまうような気がして、俺は必死に中心に向かって歩いていった。

 その時、数歩先で一匹のコアジサシがはためいたのを見逃さなかった。俺は吸い寄せられるようにして、そいつの元まで歩いていった。

 俺はそのコアジサシに手を伸ばして、首を掴んだ。

 驚いたことにそいつはバタバタと暴れ出して、飛び立とうとした。だがおれは離さなかった。ぐっと引き寄せて両手で首根っこを掴む。

 黄色い嘴がおれの腕をつついて、肉にめり込む。その激痛を叫んで耐えた。おれはついに両手でそいつを持ち上げた。目が合った。今までおれは屈んでばっかりだったが、子供を持ち上げても目の高さを合わせることはできるんだな、と思った。

 両手に思いっきり力をこめると、ポキッ、という感触と共にそいつは動かなくなって、その場にいたすべてのコアジサシたちの間に波紋が広がった。

 まずおれの隣にいたコアジサシが、ぱたり、とはためいて、静かに飛び立った。一瞬の間をおいて、何百ものコアジサシが一斉に飛び立った。羽ばたきの音が重なって、耳が吹き飛ぶような轟音がした。それにつられるようにして、隣のコアジサシが、そのまた隣のコアジサシが、と飛び立っていく。ものの数秒の間にその波は遠くまで伝播して、空には何千もの黒い斑点が浮かんでいた。

 麻痺していた聴覚がゆっくりと戻ってくる。九十九里浜の夜の、静かな波が俺の足にぶつかっていた。俺はいくつもの死体と共にその場に残されて、両手でコアジサシの絞殺体を掲げたまま、目が覚めることもなかった。感慨も何もなかった。

 何事かと駆けつけた住民に見つからないように、俺は体を隠しながら足早に実家に戻った。裏口から入って、風呂で体を洗って、コアジサシの死体と、塩素と、血と、そういったもの全部が斉唱を邪魔しないように丹念に洗った。特に指の爪からはなかなか臭いが取れなくて、何度も何度も洗った。

 俺が居間に戻ると、弟と高は抱き合うようにして眠っていて、毛布が被せられていた。姉はその横で少し離れて座っていた。

「相也、大丈夫だった? さっき凄い音がしたけど……」

「ああ、大丈夫。ただ散歩がしたくなって」

「……そう」

「高はどうか。大丈夫そうか?」

「うん、ほら見てよ、こんなに笑ってる」

 そこで見た高の笑顔は、俺が初めてみるような無警戒な、暖かなものだった。俺はそれはすごく良いことだと思った。

 俺は姉が眠るまで待って、荷物をまとめて始発で東京に帰った。

 嬉しいわけでも、誇らしいわけでもなかったが、悪くない気分だった。俺の頭のどこかでクュイ、クュイとコアジサシたちの声がこだましていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

斉唱 Nagara(ながら) @b_6k_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ