内心

風馬

第1話

渡辺悠は完璧だった。いや、少なくとも、周囲からはそう見られている。

朝は決まった時間に出社し、同僚に明るい挨拶を返し、上司からの指示もそつなくこなす。清潔感のあるスーツに爽やかな笑顔。30代前半という年齢も相まって、「できる男」のイメージそのものだった。


だが、悠には誰にも言えない秘密があった。彼の頭の中には、常にエッチな妄想が渦巻いていたのだ。


***


「渡辺さん、次のプレゼンの資料、こっちにまとめておきました!」

デスクに近づいてきたのは、後輩の西村愛。短めのスカートがふわりと揺れる。悠は表面上、冷静を装いつつも、心の中で嵐が吹き荒れていた。

(スカートの下って、今日はどんな……いやいや! 何考えてんだ、俺!)


「ありがとう、西村さん。」悠は落ち着いた声で返す。だが次の瞬間、口から思わぬ言葉が飛び出した。

「……君のバランス感覚も、すごくいいね。」

本当は「資料のバランスが完璧だね」と言いたかったのだが、なぜか「バランス」という言葉が、悠の脳内で妙な連想を引き起こしたのだ。


西村は不思議そうに首をかしげたが、特に気にする様子はなかった。それが、悠にとっての唯一の救いだった。


***


そんなある日、新しい同僚が配属された。

「初めまして、藤田咲です。今日からこちらでお世話になります。」

落ち着いた声とともに微笑むその女性は、洗練された雰囲気と知的な美しさを兼ね備えていた。悠は一瞬、息を呑んだ。


その瞬間、頭の中で妄想のスイッチがまたしても入ってしまった――が、慌てて抑え込む。

(まずい、彼女の前で失言なんてしたら、俺の人生終わるぞ!)


だが、悠の「内心」を完璧に隠し通すことは、そう簡単ではなかった。


藤田咲が配属されて一週間。

彼女は仕事ができるだけでなく、常に周囲を気遣う姿勢が好印象で、瞬く間に職場の人気者となっていた。もちろん、渡辺悠も例外ではない。だが、彼の場合は「内心」が災いして、彼女と接するたびに妙な失敗を繰り返していた。


***


昼休み、咲と偶然同じエレベーターに乗り合わせた悠。二人きりという状況に緊張しつつも、会話を広げようとした。


「藤田さん、もうこの職場には慣れました?」

「はい、おかげさまで皆さん親切ですし、とても働きやすいです。」


その柔らかな微笑みに、悠は心臓が跳ね上がるのを感じた。頭の中では「彼女ともっと話したい」という純粋な思いと、「彼女のスカートの丈は…いや、ダメだ!」という葛藤が渦巻いていた。


エレベーターが静かに動く中、悠はふと天井の防犯カメラに目を向けた。それをきっかけに、つい口から出てしまった。

「防犯カメラって、パンティまで映りますかね?」


その瞬間、時間が止まったように感じた。咲が「えっ?」と驚いた表情で振り返る。悠はすぐさま取り繕おうとした。

「いや、あの、防犯機能が…っていう意味で…!」


明らかに不自然な言い訳だった。咲は一瞬戸惑いの表情を見せたが、すぐに笑みを浮かべて言った。

「渡辺さんって、ユニークですね。」


その言葉に、悠は深い安堵を覚えると同時に、心の中で叫んだ。

(ユニークじゃない! ただの変態だ!)


***


その日の帰り道、悠は思い詰めた表情で独り言を呟いていた。

「ダメだ、俺は普通に接したいだけなのに、どうしてこうなるんだ…」


そんな時、スマホが震えた。画面を見ると、西村愛からのメッセージだった。

「渡辺さん、大丈夫ですか? 藤田さんとエレベーターに乗った後、なんだか落ち込んでるように見えました。」


西村の気遣いに、悠は少し救われた気がした。だが同時に、自分が「普通の人間」として彼女たちと接するのは難しいのではないかという絶望も広がる。


そんな悠の前に、ある日、一枚のメモが置かれる。それは、藤田咲からのものだった。

「渡辺さんへ。少しお話ししたいことがあります。明日の昼休み、時間をいただけますか?」


このメモが、悠の人生を大きく変えるきっかけになるとは、彼はまだ知らなかった――。


翌日の昼休み、悠は指定された会議室に向かう。ドアを開けると、既に藤田咲が中で待っていた。彼女はいつもの柔らかな微笑みを浮かべているが、その瞳には少しだけ真剣な色が混じっている。


「渡辺さん、お時間いただいてありがとうございます。」

「いえ、全然大丈夫です。…話って、なんでしょうか?」


悠の心臓は高鳴る。まさか、昨日のエレベーターでの失言が原因なのか? だとしたら、どんな言葉で弁解すればいいのか、頭の中で必死に考えを巡らせる。


咲は一息つき、慎重に言葉を選ぶようにして話し始めた。

「渡辺さんにこんなことを言うのは、正直少し迷ったんです。でも、あなたには聞いてほしいと思いました。」


「えっと…何でしょう?」悠はさらに緊張する。


「渡辺さん、普段とても優しくて頼りになる方だと思います。でも、昨日のエレベーターでのこと――ああいう、少し…独特な言葉が時々出てしまうのは、何か理由があるんですか?」


やっぱりその話か、と悠は青ざめた。だが、咲の表情に咎めるような意図はない。それどころか、どこか興味深そうな目で彼を見つめていた。


「そ、それは…」悠は頭を抱えそうになる。「俺は…普通の人間なんです。ただ、時々その…言葉が先走るというか…!」


思わず自分の胸中を吐露しそうになったが、咲は小さく微笑んで首を振った。

「大丈夫です、渡辺さん。私も、少し似たところがあるんです。」


「似たところ…ですか?」


咲は一瞬だけ躊躇したが、意を決したように話を続けた。

「私も、実は自分の頭の中でいろいろなことを考えすぎてしまうんです。たとえば、仕事中にふと、『もしこの会議室の天井が急に崩れたらどうなるんだろう』とか、考えるべきでないことを想像してしまう。」


悠は驚いた表情を浮かべた。

「藤田さんが…? でも、そんなことを全然感じさせませんよ。」


「そう見えるように努力しているだけです。でも、渡辺さんのことを見て、少しだけほっとしたんです。」咲は少し照れたように笑った。「私だけじゃないんだな、って。」


悠は彼女の言葉に思わず黙り込んだ。自分が隠してきた「内心」を、咲もまた別の形で抱えている。そう知ったとき、初めて自分だけが異常ではないと思えるようになった。


「渡辺さん、無理に隠そうとしなくてもいいと思いますよ。」咲が優しく言った。「たまに出ちゃうのも、人間らしくていいんじゃないですか?」


その言葉に、悠の胸に何かがスッと落ちていくような感覚があった。


***


会議室を出た後、悠は思った。

(俺は今まで、変なやつだと思われたくなくて、必死に隠してきた。でも、もしかしたら…隠さなくても、俺を理解してくれる人がいるのかもしれない。)


この日を境に、悠の生活は少しずつ変わり始める――咲との距離が近づくことで、自分をさらけ出す勇気を手に入れる物語の幕が開けたのだ。


渡辺悠の生活は、藤田咲と心を通わせたことで少しずつ変わり始めていた。以前のように失言を恐れて身構えることが減り、どこか肩の力が抜けた自分を感じていた。


しかし、それでも完全に「内心」が暴走しないわけではない。ある日の昼休み、咲と一緒にランチをしているときのことだった。


***


「渡辺さん、最近ちょっとリラックスしてる感じがしますね。」

咲は微笑みながらサンドイッチに手を伸ばす。


「そうですか? まぁ、確かに少し気が楽になったかもしれません。」

悠は照れくさそうに答える。


だが、その瞬間、不意に咲の口元にパンの欠片がついているのが目に入った。頭の中で警鐘が鳴る。

(落ち着け…これは普通のことだ。ただ教えてあげればいいんだ…。)


「藤田さん、そこに…」悠は口を開きかけ、次の瞬間、脳内の抑制が外れた。

「パン、ついてますよ! いや、パンティ…じゃなくて!」


言い間違えた瞬間、悠は真っ赤になった。咲は一瞬目を見開いたが、すぐに吹き出して笑い始めた。

「渡辺さん、本当に面白いですね!」


「いや、本当にすみません! 僕は別に変な意味じゃ…!」悠は必死に弁解するが、咲の笑い声がそれを遮る。


「大丈夫ですよ。」咲は目尻を拭いながら言った。「そういうところも、渡辺さんのいいところだと思います。」


その言葉に、悠は不思議と安堵感を覚えた。


プロジェクトが本格的に動き出したある日、悠と咲は取引先との重要な会議を終えた帰り道、一緒に電車に乗っていた。車内は混んでいたが、なんとか隣同士に立つことができた。


悠はふと、咲の横顔に目をやる。いつも冷静で完璧に見える彼女だが、少し疲れた表情をしている。


「藤田さん、大丈夫ですか? 無理してないですか?」

悠が声をかけると、咲は微笑みながら首を振った。

「大丈夫です。でも…渡辺さんはどうですか? 最近、ずっと頑張ってますよね。」


「僕は…まぁ、なんとかやってます。藤田さんがリーダーでいてくれるおかげです。」

そう答えたものの、悠の胸の内は複雑だった。プロジェクトのプレッシャーが増すにつれ、どうしても頭の中で余計なことを考えてしまう自分に嫌気がさしていた。


電車が揺れる中、咲が小さくため息をついた。そして、ふいにぽつりとつぶやいた。

「実は、私も怖いんです。」


「え?」悠は驚いて咲を見る。


「私、いつも『完璧に見える人』を演じてるだけなんです。本当は自信がなくて、失敗したらどうしようって、ずっと思ってる。でも、そういう弱い自分を見せるのが怖くて、隠してるんです。」


咲の告白に、悠は言葉を失った。いつも堂々としている彼女が、そんな不安を抱えているなんて想像もしなかった。


「だから、渡辺さんのこと、ちょっと羨ましいって思ったんです。」

「え…僕が?」


「失敗しちゃっても、それを隠そうとしないで、ちゃんと向き合おうとするところ。私にはできないことだから。」


悠は照れくさい気持ちと同時に、胸の中がじんわりと温かくなるのを感じた。


「藤田さんも、無理しなくていいと思いますよ。僕だって…完璧じゃないし、むしろ全然ダメですけど、ちょっとずつでも前に進もうとしてるつもりです。」


咲はその言葉に、少し安心したような笑みを浮かべた。


ついに迎えたプロジェクトの最終プレゼン当日。

悠と咲は、会社の幹部や重要な取引先が集まる会場に立っていた。悠の役目は冒頭での挨拶と、プレゼンの概要説明。その後を咲が引き継ぎ、プロジェクトの具体的な内容を解説する段取りだ。


緊張のあまり手汗が滲む中、悠は自分に言い聞かせた。

(大丈夫だ、冷静にやればいい。余計なことは考えるな…!)


***


「それでは、本プロジェクトの概要について説明させていただきます。」

悠は会場全体を見渡しながら話し始めた。冒頭の挨拶はスムーズだった。幹部たちも頷きながら話を聞いている。


だが、説明が中盤に差し掛かったとき、問題が起こった。スライドを切り替えた瞬間、悠の目に入ったのは「バランス」というキーワードが大きく表示されたページだった。


(冷静に…バランスだ。これは普通の言葉だ…!)悠は必死に頭を整理しようとした。

しかし、脳内のどこかで「バランス」を「パンティ」に変換しそうな衝動が沸き上がってくる。


「このプロジェクトの成功の鍵となるのは…パンティです。」


その瞬間、会場が静まり返った。悠は自分が言った言葉に気付き、顔を真っ赤にして絶句した。


(やってしまった――!)


取引先の幹部たちは戸惑いの表情を見せる。悠はパニックに陥り、どう取り繕えばいいかわからなくなった。


***


しかし、その時だった。咲がスッと前に出て、マイクを持った。


「失礼いたしました。」咲は穏やかな笑顔で会場を見渡した。「渡辺が申し上げたかったのは、プロジェクトのバランスがいかに重要か、という点です。」


会場が静かにざわつく中、咲はさらに言葉を続けた。

「プロジェクトの成功には、時に緊張感を和らげるユーモアも必要です。渡辺はそれを体現してくれたのだと思います。」


その堂々とした態度に、会場の空気が徐々に和らぎ、取引先の幹部たちから小さな笑い声が漏れ始めた。


***


プレゼンが終わり、二人が会場を出ると、悠は深々と頭を下げた。

「藤田さん、本当にありがとうございます。僕のせいで…」


「いいんですよ。」咲は微笑んだ。「失敗するのは誰だって怖い。でも、渡辺さんはそれを隠さずに向き合ってる。それがすごいことなんです。」


「でも、あんな失言…普通は…」悠は言葉を濁したが、咲が軽く彼の肩に手を置いた。


「私だって、失敗は怖いです。でも、渡辺さんと一緒なら乗り越えられる気がします。」


その言葉に、悠の心の中に温かいものが広がった。自分の「内心」を受け入れ、それを笑い飛ばしながら共に歩んでくれる存在がいる――それがどれほど心強いことか、彼は改めて実感した。


***


最終的に、プレゼンは成功を収め、プロジェクトも無事に完了。

悠と咲は仕事のパートナーとしてだけでなく、お互いを支え合う特別な存在として新たな一歩を踏み出す。


「渡辺さん、これからも失言には気をつけてくださいね。」

「もちろんです。でも…またやっちゃったときは、藤田さんが助けてくれると信じてます。」


二人は笑い合いながら、次の挑戦に向かって歩き出した。





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内心 風馬 @pervect0731

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