オペミス

あべせい

オペミス

オペミス

                


 年の差二十才の夫婦、霞(かすみ)と琴実(ことみ)は、今夜も解決のつかない会話に時間をかけている。

「わたしはまだあきらめないわ」

「また、その話か。二人とも、体には問題がないンだから。そういう星に生まれたンだよ」

「あなたはいつも、ホシほし星、って言うけど、だから古いって言われるの。世代が違うとこうも考え方が違うって思わなかった」

「おれは古いか。体は中古と言われても我慢するが、思考に中古も新型もないゾ」

「そうかしら。思考だって、時代とともに変わるわ。時の流れ、流行があるのよ」

「人間の真実について言っているンだ。人間の本質はいつの時代も変わらない。だから、昔の小説だって読まれている」

「あなた、小説を読んだことがあるの?」

「おれは、有名私大の独文科出身だ。一時は真剣に小説家を志していた」

「あらっ、文学青年だったの」

「きょうはヤケにつっかかるな」

「その話、初めて聞いた。わたしはいまのいままで、あなたのこと、つぶしの効かない文学部出のぼんくらと思っていたから」

「ぼんくら!? 亭主に向かって、ぼんくらって、どういうことだ。ぼんくらの意味がわかって言っているのか」

「ぼんくらって、バカでしょ。ウスノロとも言うわね」

「ウグッ……。ぼんくらの本来の意味を知って言っているのか」

「前に聞いたわ、あなたから。結婚して一年にもならないうちから、自慢げに薀蓄を垂れるから、こんなはずじゃなかった。あのとき思ったの。あれから、3年もたってしまった。ともだちが、バツイチには気をつけろって言っていたのは、本当ね。手遅れだったけれど」

「キミのその物言い、どうにかならないか」

「どうして?」

「傷つく」

「傷つくって? そのように言っているンだもの」

「キミはいつから、デリカシーを失くしたンだ。ぼくの愛しい琴実は、どこに行ったンだ」

「じゃ、わたしも言うわ。あなたの愛しい子猫ちゃんはどこにいるの?」

「!」

「なに、黙ったりして。無言と沈黙は違うの。はっきりしたら。元々、女癖は悪いと聞いていたけれど。わたしたちは、まだ3年なのよ」

「それは違う。彼女は、ただのウエイトレスだ。ぼくの職場の近くの喫茶店に勤めている」

「ウイトレスとお客の関係というの。そのウエイトレスが、お客に『わたし3度目でもいいわ。本当いうと、何度目でもいいの。あなたと一緒にいられるだけで、うれしいの』なんて、メールをくれる?」

「キミ、いやオマエ、それはルール違反だ! 無断で夫のメールを見るのは、通信の秘密を侵す恥ずべき行為だ」

「恥ずべきって! あなたのことだから、『盗人猛々し』ってことばは知っているわよね。わたしは我慢が嫌い。弁護士はお金がかかるばかりで、埒があかない。どうせあなたのことだから、『慰謝料なんか払えるか!』でしょうから、財産分与を七三にしてくれるなら、いつでもオッケーよ」

「どうしてこうなるんだ。おれは彼女の手を握っただけだゾ」

「手を握った!? 手も握ってない、ならわかる。あなた、わたしの手を最後に握ったのがいつだったか、覚えているわよね」

「待て、あれは、この前、おまえがデパートでコートを買おうとしたとき」

「そうよ。3ヵ月も前。トラ縞は似合わないってケチをつけたときよ」

「おまえはトラ縞なんか、いままで着たことがないじゃないか。だから、おまえの手を握って店員から引き離そうとした」

「あれは手を握ったンじゃない。掴んだ、って言うの。警察官が悪人を逮捕するときとおんなじ。その証拠に、手首が痛かった」

「そんなつもりはなかった。キミにトラは合わない。どうして、トラなんだ?」

「決まっているじゃない。あなたの子猫ちゃんを食い殺すためよ!」

「冗談はやめろ。あの娘はまだほんの小娘だ。キミの敵じゃない」

「小娘って! 25は昔で言えば、立派な年増よ。他人の宿六を狙っているドロボウ猫は、トラが退治しないと示しがつかない」

「わ、わかった。あの娘とは別れる。二度と会わない」

「もう、終わり。わたしはお金さえもらえれば、いいンだから」

「終わりって。おまえはまだ若いじゃないか」

「もう35よ」

「まだ35だろう」

「あなた、いつまで生きられると思っているの」

「生きられるって。そんな話は苦手だな」

「あなたは55でしょ。夏目漱石だったら6年も前に亡くなっているのよ」

「夏目漱石は49才で亡くなったのか」

「わたし、大学では日本文学を専攻していたから、作家の早すぎる死が前々から気になっていた。わたしは作家としては、すでに充分生きた年齢にいるの。芥川龍之介は35、太宰治は39までしか生きられなかったわ」

「芥川も太宰も自殺だ。自分で選んだ寿命だ」

「自殺は心の病。だから自殺も病死も変わらない」

「おれと別れてどうするつもりだ」

「わからない。でも、このままあなたといるよりは、幸せになれると思う」

「おれはどうなる?」

「あなたは子猫ちゃんと結婚すれば。そして、数年したら、別の子猫ちゃんと浮気して、その後も離婚と結婚を繰り返していく」

「おまえはこどもがいないから、そんなつまらないことを考えるんだ」

「そうかも。でも、あなたとはできなかった」

「まだチャンスはあるじゃないか。おれはまだ諦めてない」

「わたしは調べてもらったけれど、問題はなかった」

「おれは調べる必要はない。前の女房との間にこどもがいるからな」

「昨日、出かけたと言ったでしょ」

「歯科クリニックに行ったンだろう」

「本当は歯科クリニックじゃないの」

「どこに行ったンだ」

「クリニックだけれど、あなたの職場の産業医の先生が経営しているクリニック」

「おれの高校時代の後輩のか。あいつは外科だろう?」

「泌尿器科もなさっているわ」

「あいつ、まさか」

「それで、昨日ようやく決心がついた、ってわけ。理解できたかしら」

「あいつ、しゃべったのか」

「すべて。すっかり、ね」

「患者のプライバシーだゾ。あの男は医師の資格がない。医師法違反だ。告訴してやる」

「夫の体のことを妻に打ち明けただけじゃない。あなたこそ、夫婦のルールに反したことをやったのよ」

「いや、そういうつもりじゃなかった」

「いつ、オペしたの?」

「それは……」

「言えないの? 言いたくないの?」

「あのバカから、聞いただろう?」

「確かめるの。バカがウソをついたかも知れないから」

「おまえと一緒になって2年ほどした頃かな」

「ということは、1年前、去年ね」

「それくらいだ」

「どうしてオペしたの? 理由を聞かせて」

「それは」

「わたしは、こどもが欲しいの、欲しかったの」

「おまえは結婚するとき、こどもはできなくてもいい、と言わなかったか?」

「それが、結婚して2年もたってから、妻に黙ってオペした理由だって言うわけ。おかしいでしょ」

「……」

「黙ってないで、なんとか言ったら。わたしから、言ってあげる。その頃、ドロボウ猫とつきあいだしたからでしょ」

「知っているのなら聞くな!」

「ナニ怒っているの」

「怒ってなんか、ない」

「もう一つ、いいこと、教えてあげる」

「なんだ」

「あのオペは、不完全なこともあるンだって」

「どういうことだ」

「人間はだれでもミスをするわ。あのおバカさんもやってしまった、ってことよ」

「本当か」

「残念だけれど、そうなの」

「あいつはヤブだからと心配したンだ。だから、か」

「ドロボウ猫に脅迫されてンでしょ。責任とれ、って」

「どうして、それを……」

「電話があったの。あなたのこどもができたからって。わたしは言ったわ。夫はカットしていますから。それは別の方のお子さんでしょう、って。そうしたら、ドロボウ猫は黙ってしまったけれど」

「あいつ、黙ったのか」

「その程度の女ってことよ」

「もう一度、オペをやり直したほうがいいわ。わたしは別れるからいいけど」

「それだったら、おまえだってこどもができるかも知れない」

「そのことばは、できてもいいって受け取ってもいい、ってこと?」

「夫婦なンだから、できて当たり前だろ」

「でもわたしは、オペミスのこどもは欲しくない」

「オペミスって言い方はないだろう。こどもはこどもだ」

「あなた、その年で、赤ちゃんを育てる自信があるの?」

「もっと年を食った男でも、父親になっている例はいっぱいある」

「だったら、ドロボウ猫の赤ちゃんを育てたらいい。わたしはごめんだわ」

「あの女が尻軽とわかった以上、もうつきあえない」

「別の子猫ちゃんを探したら? そうだった、もう、いるのよね。あなたのことだから、その点はぬかりがない」

 そのとき、スマホの着信音が響く。

「あなたの子猫ちゃんからでしょ」

「おれのスマホは、二階の寝室だ」

「わたし? あら、いけない」

「オイ、どこに行くンだ。この夜中に外に出てどうする」

 ドアが閉まる音。

「ダメじゃない。この時間に電話をかけてこない約束でしょ。バレたらどうするの!」

「そうはいってられない事態が起きてしまって」

「どうした、っていうの」

「それが……」

「ナニよ。はっきりしなさいよ」

「それが、オペが失敗だったことがわかって」

「その話は織り込み済みだわ。いまうちのひとと話していたところ」

「そうじゃないンです。ご主人のオペは確かに不完全の可能性が高い。ぼくが気になって電話したのは、ぼく自身のオペです」

「ぼく自身って。まさかッ」

「ぼくが、友人の医師にやってもらったオペが失敗だったことが、今夜わかったンです。友人は、カットするパイプを間違えたと言っています」

「あなた、いつでも安全ですって言わなかった。それじゃ、詐欺と同じじゃないの」

「ごめんなさい。ぼくは友人の腕を過信していました」

「どっちもヤブだってことでしょ。わたし、体がおかしいから、明日、産婦人科に行くつもりにしているの」

「まさか」

「まさかはわたしだけでたくさん。これじゃ、だれのこどもかわからなくなるわ」

「法律上はご主人が父親です」

「ふざけたことを言わないでッ。あなたの受けたオペが失敗だったって、どうしてわかったの。術後の検査をしたの?」

「そんな面倒なことはしません」

「じゃ、なに」

「ぼくの女房がきょうクリニックに行って、赤ちゃんが出来たって、うれしそうに帰ってきたからです」

「あなたの奥さん、わたしより、十歳も上でしょ」

「そうです。だから、あきらめていました」

「オペミスの子か」

「オペミスの子なんて言わないでください」

「オペミスに違いないでしょ。わたしだって、オペミスの赤ちゃんを授かったかもしれないのよ」

「……」

「どう責任をとるつもり?」

「責任って、責任があるのは、ぼくの体にオペした医師です。友人のヤブです」

「それじゃ責任転嫁よ。待って……あなたの奥さんだって、わからないでしょ」

「わからないって?」

「操よ。貞女かどうか」

「失礼なことを言わないでください。ぼくの妻に限って」

「男はみんなそう思っているの。とにかく、あなたは明日、術後の検査をしなさい。絶対にするのよ。妊娠させる能力があるのかどうか。話はそれからよ」

 その頃、夫は二階の自室に入り、スマホをいじっていた。

 メールが届いていたからだ。

「明日、術後の検査をするのよ。手術はミスがあるものだから。話し合いはそれからにしましょ。あなたのかわいい子猫ちゃん」

                 (了)

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オペミス あべせい @abesei

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