播磨守江戸人情小話(三) 老舗女将の夢
戸沢 一平
第1話 一
江戸は銀幕町の夜も更けていた。
静寂が支配する街に、犬の遠吠えが響いている。
老舗の呉服屋「大松屋」の大きな屋敷も、大方灯も落ちて静まり返っている。
番頭の末吉は、床についたものの寝つかれずに、何度も寝返りを打った。昼間、たまたま聞こえて来た主人の良蔵と女将のお松の言い争いが気になっていたのだ。
言い争い自体は珍しい事ではない。これまでも、末吉は何度も耳にしてはいた。
だが、この日の二人の会話が、末吉の心に引っかかっていた。
店は呉服屋の看板を掲げているが、それ以外の品物も多く扱っている。店全体の売り上げと儲けは堅調で、その商いの規模は、江戸でも五本の指に入るほどの大きさを誇っていた。だが、帳簿の内情を見ると、呉服部門は常に赤字が続いていて、他部門がそれを補っている、というのが実態である。
大松屋における商売の仕切りは、呉服だけはお松が、それ以外は良蔵が行っている。
今日の言い争いも、いつもと同様に、呉服部門へもっと金を都合する、しない、が争点となっていた。お松が感情的に言い張り、先代からの決まりと渋る良蔵が、最後は仕方なく折れるという形で収まる。そこはいつもと同じだった。
ところが、「では今回も特別に」と言った後に、良蔵は声を落とした。
「そのかわり、新装開店については当分見合わせて、まずは、しっかりと医者に診てもらう事だ。体を直すことが優先だ、そうしてくれ、頼む・・」
「それは出来ないわよ、ほら、私はなんともないわ、この通り、大丈夫」
「だが、良庵先生が言うには・・」
「いやよ、いやっ」
大松屋は新装開店する話が進んでいた。お松のたっての望みで、店構えを一新して、呉服屋としての大松屋を前面に出す構想である。
当初は消極的だった良蔵もお松の熱意に押されて承諾していた。
その準備も着々と進められている中でのこの会話は、末吉の胸に不安を掻き立てた。
新装開店の見合わせの話も初耳だったが、お松の体が悪いことも、店の誰もが知らないことだった。自分が知らないところで何かが起きているのでは、という穏やかでない気持ちが、末吉の眠りを妨げていた。
ただ、ここ一月あまり、良蔵が深刻な顔で考え込んでいるところを何回か見かける事があったのは確かだった。
大松屋を江戸でも指折りの呉服屋にしたのは、先代の主人である松蔵だ。
松蔵は度胸があり、発想も斬新で、交渉力も抜群だったことから、大きな商談を次々と進めて行った。だが、大雑把な性格に詰めが甘いところがあり、細部のすり合わせや単調な実務は苦手だった。
そこを補ったのが、この時番頭だった良蔵である。
良蔵は、温和な性格で口数も少ないが、勘所がよく、素早く要点を見極める技量は、同じ江戸の老舗の番頭衆の中でも抜きん出ていた。周到さと粘り強さも持ち合わせている。
先頭に立って商売を牽引する主人の松蔵と、要所を抑えて実務と勘定を管理する番頭の良蔵により、大松屋は急速に業績を伸ばして行った。
松蔵の唯一の子がお松である。
豪商の一人娘として大事に、そして、何不自由なく育てられ、当然ながらわがままも許された。活発なうえに容姿端麗で、成長するにつれて父親譲りの気性の激しさも見えるようになるが、お松が姿を現すと場が輝くような華があった。
やがてお松は商売に興味を持つ。
着物の柄と帯や小物が織りなす和服の華やかさが、お松の心を捉えた。松蔵に頼み込んで、商売の真似事を始め、次第に本格的に商品を扱うようになる。
指南役となった番頭の良蔵から、微に入り細に入り商売の手解きを受けると、お松は商売人としての頭角を現していく。父親と同様に大胆さや行動力も発揮し出す。
老舗が扱うという堅実さや確かさに、お松の斬新な感性が加わった商品が店頭を賑わし、それが大松屋の新たな魅力となった。店は更に繁盛する。
年頃になると縁談話も出て来たが、老舗の大店への婿取りという難解さと、お松自身の好き嫌いもあり、容易に話は進まなかった。周囲の心配を他所に、お松は商売に熱中する。
だが、松蔵が病に倒れると、そうは言っていられなくなる。「誰でも良いから」という松蔵に対して、お松の口から出た名が番頭の良蔵だった。松蔵も了承する。
一人娘の祝言を見届けると松蔵は亡くなった。
一時は飛ぶ鳥も落とす勢いの店だったが、何事にも流行り廃れはあり、同じやり方が長く通用することは無い。売り上げは徐々に減少する。
主人となった良蔵は、この難局を打開する策として、呉服以外の部門の扱いを拡大していく。元々、紅、白粉から簪、櫛といった関連する小間物は扱っていたが、種類と量を大幅に増やして行った。更に、それだけに止まらず、染物や仕立てといった呉服に関連する分野についても、専用の職人を抱えて、自前でも行うようにした。
呉服以外の売り上げが伸びてくると、店全体の収益も持ち直して来る。だが、呉服部門だけはジリ貧の状態を脱しきれなかった。
呉服を仕切るお松は、色々と策を講じて金もかけ、何とか売り上げを伸ばそうとしたが、自分のやり方に拘って、良蔵が意見する打開策を取り入れることは無かった。
呉服以外の物を重視したり、手頃な価格の売れ筋の品物を中心にしたりする良蔵が示す策は、お松にとっての呉服商の本道から外れていた。多少高くても見栄えのする商品の販売に拘った。
それほど、若い頃に体験した、華やかな柄の反物が店先を賑わしていた呉服屋大松屋の繁盛ぶりが、お松の体に染み込んでいた。
そして、一年ほど前からお松が言い出したのが、原点回帰の新装開店である。呉服屋を全面に押し出した店構えにし、品揃えも刷新する。起死回生の打開策だった。
番頭の末吉にとっても唐突な話に感じた。
帳簿を預かる者として、店全体として売り上げは堅調であり、他の店と比べても何ら遜色は無い。お松の気持ちも判らない訳では無かったが、敢えて、今、店の体制まで変える必要性は感じられない。お松が強引に話を進めたとはいえ、良く良蔵が認めたと思ったほどだ。
その新装開店の準備も進んでいる中での、今日のお松と良蔵の言い争いだ。
店の掛かり付け医者は良庵である。隣町に診療所を構えている。十日に一度の割合で店に来て、良蔵とお松を診ていた。特に、二人のどこが悪いという訳ではない。ほとんどが話だけ聞いて、後はお茶を飲んで帰る、というほどの診察だ。
今日も良庵は来たが、淡々と話をして帰っただけだった。その様子からも、お松が深刻なほど体を悪くしているとは考えられなかった。
末吉は、明日にでも良蔵に聞こうと思った。番頭としては店の事は全て知っておくことが大事だ。良蔵とお松の双方から信頼を得ているという自負もある。
やや気持ちも落ち着いて、ちょうど、うつらうつらしかけた時だった。
「誰かー、誰か来て、旦那様がー」
静寂を切り裂いて、お松の叫び声が屋敷中に響いた。
末吉は飛び起きて、急ぎ灯りをつけ、それを持って部屋を出た。声は主人の部屋からする。廊下を急いだ。
襖を開けると、お松が血だらけの良蔵を抱えている。
「あ、末吉、賊が・・、賊が旦那様を刺したのよ、さっき裏口の方に逃げたわ」
良蔵はぐったりして息がない。良蔵を抱えるお松の着物も血で真っ赤に染まっている。
「女将さんは、大丈夫ですか、お怪我はありませんか」
「私は大丈夫よ、でも、旦那様が・・」
末吉が良蔵の手をとった。やはり、脈は無かった。
使用人達が次々と集まって来た。皆、不安そうに部屋を覗いている。
末吉が立ち上がって、使用人達に顔を向けた。
「旦那様が賊に刺された。男衆は裏口の方を確認してくれ、まだ賊が居るかも知れないから気を付けろ。そして、家の中をあたれ。何か、無くなったものや変わったことが無いか調べろ。あとは・・、あとは、奉行所だな」
使用人達が動き出すと、末吉は振り返ってお松を見た。
お松は良蔵を抱えたまま、スーッと顔を上げて末吉を見た。その感情の無い虚な目に見詰められ、末吉は思わずゾクっと身震いをした。
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