希望の在処

総角ハセギ

希望の在処

 電車は走り続けている。

 彼女が膝の上に乗せた大きなリュックの中には雑多な物が詰め込まれていた。一度しまい込んだはいいものの結局すぐに取り出してしまったスマートフォン。保存された大量の写真で重くなっている。学歴と職歴が記入された履歴書。紙切れ一枚に濃縮された二十数年分の歴史と個人情報で重い。万が一に備えて入った保険証券。将来子供が生まれたら、病気になったら、死んだら、そういう時のためにと複数の特約付き。小学校で配布された避難用給水袋にはネットでおすすめされていた避難用具一式をみっちみちになるまで詰めている。その他たくさんの物がこの中には入っている。けれども自分で選んで詰めた物はあまりないから、正確に中身を説明することはできない。

 周囲の乗客たちも皆似たような物を持っている。スマートフォンの画面を食い入るように見つめ、アルバムに収められた大量の写真を次々と見ている若者。老後資金の記事を読む若者。この車両には彼女と年が近い者しかいない。他の年代の乗客は別の車両にいる。そういうものだった。

 電車は走り続けている。その進路が変わることはない。変わったら皆が混乱してしまうと考えられているからだ。速度を緩めることも、駅のない場所で途中で止まることもない。常に同じ速度で、決められたレールを辿り、決められた駅に停車して、終点まで人々を運んでいく。乗客はそれに身を任せて、何を考えることもなくスマートフォンの画面を見ている。そういうものだった。

 だが、その日はある変化が起きた。彼女が手元の機械から目を上げて、車窓から見える景色をふと視界に入れたのだ。たったそれだけのことだった。だがそれは、彼女の心に何かを生んだ。

 彼女は急にここで下車したくなった。そうだ、次の駅で降りてしまおう。名前のない駅だから、きっと他の乗客たちは文句を言うだろうが、彼女には青い空を舞う鳥たちの声が、静かな青い海の声が、流れていく緑の木々の声が聞こえたような気がしていた。今度こそ、その衝動を抑えるべきではないという声が。だから彼女は突然、誰も知らないその駅で電車から降りた。同じ車両からも別の車両からも、次々と乗客たちが窓から首を突き出して、彼女に向かって怒鳴ったりヤジを飛ばしたり悲鳴を上げたりした。彼女のスマートフォンの通知音もけたたましく鳴り響いた。

「何を馬鹿なことをしているんだ!電車に戻りなさい」

「そんなことをしたら親御さんが悲しむわよ!」

「一度乗ったなら終点まで乗っていないとダメだよ!みんなそうしているんだから」

「自分だけ楽をしていいわけないでしょ。他の人のことも考えなさいよ!」

「いいかいそこの若い君。電車っていうのはね、レールも降りる駅も進行方向も終点も全てきちんと決まっているんだ。僕たちは一度この電車に乗ったら、それと同じように進み続けていないといけないんだよ」

 彼女はリュックサックの重量以上に肩に重みを感じた。足取りも心も重く、無人の改札に向かう足は次第に遅くなり、しまいには立ち止まって後ろを振り返りそうになった。

 そこで、優しい声がした。

「その荷物はここに置いていくといいよ」

 彼女は前に向き直った。

 白いYシャツを風になびかせた優しい瞳の青年が立っていた。

「そんなことしたら・・・」

「不安?」

「立っていられなくなる。重みがなくなってしまうから」

「本当にそうか、試したことはある?」

 彼女は口を閉じ、ゆっくりと首を振った。

「やってみようよ、一度でいいから。僕が手を握っていてあげる。だから怖がらずにそうしてごらん。さあ・・・」

 彼女は震えながらも、促されるままにリュックサックを肩からずるずると下ろしていった。リュックサックは地面にずしんと音をたてて落ちた。

 肩が突然軽くなり、重みをなくした足が地面から離れてしまう気がした。どうしよう、リュックサックを背負っていなければ地面に足をついていられない。このままふわふわと宙に浮かんでしまったら、一体何にすがりつけばいいのだろう。みんなリュックサックを背負っているのに、彼女だけがそうじゃない。みんなは何て言うだろう。

「ほら見ろ、言ったじゃないか」

「電車を降りたからだ」

「その改札を抜ければICカードには履歴が残るんだぞ。そうしたら君はもう元の電車には乗れない。乗せてもらえなくなるんだ。それでもいいのか?」

「みんなあなたのことを思って言ってあげてるのよ」

 得体のしれない恐怖が心臓から喉までせりあがってくる。彼女は恐ろしくなって、音のない悲鳴を上げた。

 ところが、リュックサックを手放しても、彼女はちゃんとそこに立っていた。

 彼女の手を柔らかく握りながら、青年は笑った。

「ほうらね。大丈夫だったでしょう。さあ、おいで」

 彼女は青年に手を引かれていき、無言で改札機にICカードをかざした。ピッという音がして、背後から盛大に嘆きの声が聞こえた。

 改札を抜けるとすぐに数段程度の石の階段があり、そこから先はもう真っ白な砂浜だった。さらにその先には海があった。果てしなく広がり、穏やかにさざめき、太陽の白い光を反射して輝く海。その頭上を滑らかに飛んでいく鳥たちの小さな黒い姿が、神が引いたかの如き水平線の彼方に消えていく。

 彼女は驚いた。

「ここは本当に日本なの?こんなに綺麗な場所があったなんて信じられない」

「ずっとあったよ。でも電車はすぐ通り過ぎてしまうからね。運良く気が付いてもそこまでで、降りてくる人はめったにいない。・・・そうだ。裸足になって砂をふんでごらん。きっと気持ちがいいよ」

 彼女は靴と靴下を脱いで、言われたとおりにした。皮膚に感じるのは細かい粒の感触だ。日に温められて若干熱を持っているそれは冷えきった足には心地良く、彼女は数歩歩いて立ち止まり、また数歩歩いて足の指で砂を掴んだ。

 青年が嬉しそうに笑う。

 彼女の口元も綻んだ。

 それから二人は共に駆けだして、笑い声を上げながら砂浜を横切った。

 全身で透明な風を切る。

 素足が砂の大地をしっかりと踏み、蹴り上げる。

 思いついた時に立ち止まって、顔を上げて空気を胸いっぱいに吸い込むと、どこか懐かしい海と風と日の匂いが彼女を満たした。

 肌を包む太陽のぬくもり。

 きらきらした海の果てをじっと見つめ、その波打ち際に近寄って透明な水をすくいあげ顔を洗うと、唇からは塩の味がした。

 一瞬一瞬の、その一つ一つの感覚を彼女ははっきりと頭でとらえることができた。

 しばらくして彼女と青年は波打ち際ぎりぎりのところに並んで腰を下ろした。

「どうして君は電車に乗っていたの?」

「それしかないと思っていたから」

「誰かがそう言ったの?」

「そうかも。・・・ううん、言われなかったかもしれない。でもそれしかなかったの。そうするしかなかったの。そうしないと、ひとりになってしまう。見捨てられてしまう」

「でもそうはならなかった。そうでしょう?」

 青年は優しく微笑んで、ふっと彼女を両腕で包み込んだ。

 あたたかくて広い。そのぬくもりはまるで太陽のようだった。

 彼女は青年をひしと抱き返して堪えきれずに泣き出した。

「怖くてもいい。また電車に戻ってもいい。どこで下りたっていい。引き返してもいい。何をしたっていいんだよ。でも、辛い時や苦しい時には必ずここを思い出して。いいかい、ここだよ。そして肌に感じるもの、目に見えるもの、耳に聞こえる音に心をすませて深く息を吸ってごらん。そうすれば君はもう大丈夫。あのリュックサックは置いていくといいよ。あの中には何一つ、ここが入っていないから」

 その後、彼女は電車に乗ることをやめて、自分の船を持った。

 船は道なき大海原をどこまでもどこまでも進んでいった。その船は何度も錨を下ろした。目的地の途中で引き返すこともあった。氷山を見つけたらそれを避け、立ち寄りたい島には迷わず立ち寄り、傷がついたら修復して、幾たびも幾たびも進路を変えた。

 彼女は船を操縦しながら、いつも空気を胸いっぱいに吸い込み、顔を空に向けて目を閉じ、聞こえてくる音に耳をすませていた。

 もう彼女には重たい荷物も、電車も必要なかった。

 彼女にはここがある。

 誰にだってここがある。

 彼女が生きている場所。誰もが生きている場所。

 その場所の名は現在という。またの名を今。そして、希望。


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