アイデアの女神に溺愛されて夜も眠れない

アイデアの女神に溺愛されて夜も眠れない

アイデアの女神に溺愛されて夜も眠れない

俺は天才作家だった。


趣味で書き溜めた下らない小説を、ほんの気まぐれで賞に応募したところ、見事大賞、書籍化決定。折角ならと一巻丸ごと加筆修正、後の話に繋がるよう伏線ばら撒き、要素詰め込み、流行りの手法をひとつまみ。瞬く間に売れ、重版出来、本屋大賞、マンガ化、アニメ化、映画化等々メディアミックス大展開。その間にも、書き溜めの分を追加出版、直ちに重版、本屋の売上にも大貢献。瞬く間に一世を風靡し、風雲児と持て囃され、あちこち取材に引っ張りだこ。書き溜めの加筆修正だけなので刊行ペースは月一で、あまりの速筆だと思われ、複数人説やAI説まで唱えられる始末。印税ライセンス料商品展開のマージンなど、寝てても金が無限に入る。最高潮まで上り詰め、人気絶頂に達した時、その時まさにこの俺は。


奈落の底に転落した。


書き溜めていた分はあっという間に底をついた。残すは最終巻だけだった。SF、ファンタジー、学園ラブコメからコズミックホラーまで、全てを集約したこの作品で。圧倒的知識量と、怒涛の展開に支えられたこの傑作で。


アイデアが枯渇した。


1ヶ月図書館に篭ってあらゆるジャンルの書籍を読んだが、ダメ。


1ヶ月ジムに通ってあらゆる運動を試したが、ダメ。


どんな映画を見てもダメ。


どこに旅行に出掛けてもダメ。


誰と会って話してもダメ。


どれだけ酒を飲んでもダメ。


ダメダメダメダメだめ駄目だ。


それでも仕事は無くならない。書籍化関連の作業から、アニメ脚本の監修から、果てはゲームのシナリオ監修まで、その作品の名の付くものなら、全て手がけた。


世間は最終巻を待ち望んでいる。待ち望まれるだけ、ハードルは上がり、プレッシャーは高まる。


その期待に、仕事量に、己への失望に、とうとう俺は押し潰された。


いや、押し潰されることさえ出来ずに、逃げたのだった。


夜逃げだ。スマホも持たず、財布も持たず、ジョギングに行くような格好で、深夜に自宅を飛び出した。とにかく走った。


ジムで養った体力は、酒で消えていた。すぐに疲れて歩き出した、それでも引き返すことはせず、ただ黙々と歩みを進めた。遠く、遠くへ。


朝日が昇る、周囲が見える、さてそこは、看板もないような、田舎道であった。


流石に疲労の限界である、寒さも相待って、下半身の感覚が全くない、足が棒になるとは、まさにこのことか。


その時、目の前に民家が現れた、今にも朽ち果てそうなボロ屋だった。こちらは気を失う寸前である、玄関に倒れ込む、鍵はかかっていない、どころか、ドアも閉まっていなかった。


空き家か…?


人気がない。また、靴や家具など、おおよそ生活に必要な調度品の一切が、少なくとも見える範囲には無かった。


家に転がり込んだ安心感からか、体力が少し回復した。靴を脱ぎ、文字通り家に転がり込む。廊下を這い進み、居間に至る。


何の変哲もない和室だった、いや、何もない和室だった、テレビも、電話も、時計さえ無かった。


床には畳、窓には障子、そして部屋の中央には、ちゃぶ台が一個。そしてその上に、原稿用紙の束とペン。


まるで、文豪のための独房のような空間だった、おおよそ人が生活できる空間とは思えない。しかし、その、極限まで突き詰めた様相に、少々、心躍った。まるで、洗練された、刀のような美しさ。


と、そこで、人の気配を感じた。廊下の反対方向だった。まだ膝が死んでいる。四つん這いのままハイハイ這い歩き、突き当たりの部屋に入る。


そこは寝室であった、それに、寝室としての機能を果たしていた。


六畳間の部屋に、敷布団が一つ、枕が一つ、掛け布団が一つと、美女が一人、眠っている。


美女が一人、である。


透き通るほどの白い肌に、周りの景色を反射しそうなほどの銀髪。は、腰の下まで長く伸びている。雪女、あるいは幽霊か、そんな得体が知れる。しかしながら、その恵体は病的とは程遠く、もっちりむっちり健康的で、豊満で、妖艶で、安産型なのである。天晴れ。万歳。ポリコレ反対。


極限の精神状態において、非日常的な空間にいて、非現実的な光景を目の当たりにして、人は動転などしないのである。そう、この疲労極まる状態において、布団を見て、幻覚を見ぬ方が頭がイカれている。それとも既に夢の中か、夢の中にいながら、起こる出来事に慌てふためく阿呆はいない。


夢の中なら何を遠慮することがあろうか、私は眠いのである。おあつらえ向きに布団がある。寝なければ失礼というもの、据え膳食わぬは男の恥だし、腹が減っては戦はできぬのである。ならば、食欲に並ぶ睡眠欲が、ついでにもう一つの欲が、満たされても文句はなかろう。


即座に布団に潜り込む、ああ、極楽だ。そこで彼女が目を覚ます。フッと微笑み、抱き寄せられる。


今分かった。これは、全て私の妄想に他ならない。心身の極限状態に至って、肉体が、本能が、根源的に欲しているものを、脳に投影し、五感を騙しているに過ぎない。いや、どころか、最初の成功体験から、実は全て妄想に過ぎず、本当の私は、狭い部屋で、おおかた強めの酒など煽って深酔しているに違いなかろう。走馬灯に足りるようなろくな記憶もなく、その代わりに妄想が実世界にまで侵食した、哀れな男の末路なのだろう。可哀想な、『俺』である。


さて、そこで私は完全に意識を失った。現実世界でも死に、同時に、脳の作り出す、虚像もシャットダウンしたのであろう。


その、はずだった。


「ようやく目を覚ましましたか? それとも、お帰りなさいませ、と、言うべきでしょうか?」


「君は?」


夢の世界、俺は布団にいた美女と向かい合っていた。こういう精神空間では創作上のお約束、二人とも全裸である。ただし、全年齢対応の謎の白い光が、きっちり急所に差し込んでいた、ちくしょう。


「こうして姿を現すのは初めてですね、私はあなたに創作上のインスピレーション、ひらめきを与える存在、言い換えるならば、アイデアの女神といったところでしょうか?」


「アイデアの…女神だって…?」


驚きがあった、戸惑いもあった、けれども、怒りが全てを上書きした。そして、心情を吐露した。


「お前が…お前が裏切ったから! 俺はアイデアが出なくなって、創作ができなくなったんじゃないか!?」


「それは違います」


彼女は、全く変わらぬトーンで、諭すように言う。


「あなたはずっとアイデアを出し続けていました、ずっと、その仕事ぶりを側で見てきました。いち作家の立場でありながら、いえ、だからこそ、その権限を使って、書籍化では絵師の選定と表紙のデザイン、帯の煽り文句に、宣伝文。アニメ化では、声優の選定と、キャラクター理解のための設定追加、アニメ向けへの脚本の書き直し、最近のゲーム化では、効果音一つに至るまで指定する徹底ぶりでした、全く異なる分野でありながらも、謙虚に、しかし貪欲に、ほんの数日でプロと議論でき、自論を通せるだけの理論を構築できた、その能力。全てに、アイデアが詰まっています」


「でも…執筆はできなかった!」


「それでもしようと努力した、それこそあらゆるアイデアを出して。読書も、運動も、旅行も、他者との交流も、飲酒も、全て、アイデアを出すためのアイデアだった。現に、その試したメソッドを、本一冊分にまで書き溜めていたじゃないですか。もっとも、効果なしと結論づけて、お蔵入りとなってしまいましたが」


「…何が言いたい? いや、じゃあ、俺はどうすれば良かったんだ?」


「ただ、書けば良かったのです。最終巻が書けないとおっしゃっていましたが、草案は、既に完成していたのでしょう? 回収すべき伏線も、最初から読み返したくなるような仕掛けも、映像映えするような演出も、それらを矛盾なく、しかも一冊にまとめ上げるだけのプロットも」


「…それは」


その通りだった、このことは、編集者も知らない、完全オフラインのドキュメントと、俺の頭のみにある情報だった。果たしてこの女神は、本物か、あるいは、俺の妄想の産物か。どちらでもいい、今はただ、現状を打開するアイデアが欲しい。


神も仏も自己も世界も、全てはアイデアのために。


「さあ、書きましょう、もう、書くための要素は、全て揃っています。真のアイデアとは、何かを足す作業でも、増やす作業でも無くて、それらの中から、これしかないという唯一を選ぶことです。そして、今のあなたに必要なのは、アイデアではない」


「ただ、書くこと」


「はい、ただ、最後に一つ、お手伝いさせて頂きます♪」


そう彼女が言うと、世界が一変した。景色が、目まぐるしく変わる! 世界中の食べ物を入れたジューサーに放り込まれたようだった。


いや、よく見れば、その極彩色の一つ一つが、物語となっていた。走馬灯、いや、過去の経験、知識、妄想、その全てだ。


俺は、こんなにも多くのものを、見て、感じて、考えて、作り出して、いたんだ。


トラックに跳ねられれてドラゴンに飛び乗ると、巨大UFOの中に突っ込み、ワームホールを通って未来の世界に行き、そこで人型アンドロイドの転校生と出会って、あっという間にハーレムとなり、荒廃した世界で機械仕掛けのゾンビたちを、呪いの力が宿った刀で切り払い、中から出てきたオーパーツを使って過去の世界に行き、全く違う結末の幕末の動乱に巻き込まれ、あわや暗殺の危機に陥った時、西洋かぶれの忍者に助けられ、日本全国駆け落ちし、添い遂げた先に、死に別れ、悲しみのあまりマッドサイエンティストになり、巨大な要塞で世界を支配し、鉢合わせた宇宙人と戦争になり、衝突時のエネルギーから世界が無数に分岐、数多のパワレルワールドの中から、ほのぼのギャグコメディ時空でのんびり過ごしたとさ、めでたしめでたし。


「ありがとう、もう、十分だ」


「そうですか? まだ1%も」


「いや、それより今は書きたくてしょうがない、それにこんなガラクタをどれだけ見ても意味がない。本当に必要なアイデアは、書いてないと出てこない」


「…ふふ、アイデアを出すために書くなんて、素晴らしいアイデアですね」


俺は布団から出た、眠気も、疲労も、全くなかった。それでいて心は穏やかで、適度な集中状態、僅かな高揚感。居間に入り、ちゃぶ台の前に座り、いざペンを取り、書き始めると、止まらなかった。一度回り始めた歯車は、止まることなく、むしろ書くほどに回転数が上がり、書いた原稿は床に飛び散り、右手が動かなくなれば左手で、それも動かなければ口でペンを咥え、見かねた女神にとうとう代筆してもらい、執筆を進めた。


時速5,000文字、20時間で、10万字。小説一冊書き上がり。


4時間寝て、いや、夢で起きて見て。起きて、全て書き直し、また20時間かけて第二版。


それをもう一セット、かくして、まる3日と2回の書き直しを経て、1冊の作品が完成したのであった。


「ありがとう、おかげで書き終えた」


「でも、少し、寂しいような気もします…」


「はは、何、まだまだアイデアは出てくるんだ、これからまた書き続ければいいさ、その時は、どうか、よろし…」


「…はい」


人間は、3日食わねば死ぬし、3日寝なければ死ぬ。


私は確かに天才作家であったが、その前に、ただの人間であった。


享年26歳。死因は餓死。遺体発見はそれから3ヶ月も後のことで、遺作の発表は3年も後のこととなる。


まあ、私の人生はこれにて終幕、その後、この世界で何が起ころうが、また、起こるまいが、私の知ったことではない。


この世界、では、の、話で、あるが。


ーー


「んで、俺は死んだはずなんだけど、どゆこと? ねえ、女神ちゃん」


「さあ? あなたならお分かりになるのでは?」


「んなこと言われてもな…」


俺は、見知らぬ世界にいた。広大な大地、舞い散る灰に、赤い月。遠くに蠢く異形の塊。右手には、ビビッドな色の液体の入った薬瓶。いつの間にか、高速で動く電車の上に立っていた。


「あ…もしかして、『荒廃した世界で薬学チート使って機械生命体を打ち滅ぼす』って、大昔にプロットだけ書いた小説の、再現…?」


「ちなみに最終的なタイトルは『マシン・トキシン』でしたよ?」


「うわっ! ハズかし!! 何そのイキリネーム、てか、設定盛りすぎて収拾つかなくなったやつじゃん。ストーリー何も覚えてねえ、ていうか、作った記憶もねえ、で? 俺にどうしろと?」


「お好きなように」


「はいはい、んじゃ、とりま、書き始めますか、そうすりゃいいアイデアも出てくるでしょ!」


「どこまでもお供しますよ♪」


俺は列車から飛び出し、背中のスラスターを展開した、そんな物はない? 今書いたのだ。異形開会生命体がいるなら、その技術を応用した武器もあるはずだ。機械生命体はこちらに気付き、触手を伸ばす、それを、急上昇により、間一髪避ける。


「あーあ、これじゃあ」


そして、手元の薬瓶の中身を、盛大にぶちまけた。


「アイデアの女神に溺愛されて夜も眠れない」

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