春雷にのって

Noza

プロローグ 飛雷

 降りしきる雨の音は、脱走者を知らせるサイレンにかき消された。

 「はぁっ、はぁっ。」

 春とはいえ夜はまだ冷える。それに加えてこの雨だ。空気は冷え切っていた。逃走によって速くなった呼吸をするたびに、冷たい空気が鼻腔と肺を突き刺してくる。どうしても逃げる足が止まってしまう。私たちのような脱走者は、天候をも敵に回すらしい。

 「ハル!まだ走れるか?」

 私の手はカオルの血まみれの手に包まれ、力強くも繊細に導かれた。冷たい空気が刀に切られた傷口を抉るのか、彼の額には汗が滲んでいた。

 どれだけ走った頃だろうか。隠れるのにちょうど良い建物に私たちは身を潜めた。動くことをやめたとて、肉体の緊張状態が解けることはなかった。周りの見えない闇夜と、鼓膜を破らんとするほどの音量の警報に、私はこの上ない恐怖を覚えていた。

 「大丈夫だ。俺がついてる。」

 カオルはいつものように優しく笑っていた。肩口と脇腹から流れ出る血液など、全く気にしていない様子だった。

 温かい液体が、私の頬を伝った。戦慄の中に覚えたいつも通りの優しさに、私は自然と涙を溢していた。

 「ほら、泣くな泣くな。」

 彼は私の背中に手を回し、抱擁しながら頭を撫でてくれた。優しく温かい言葉は、私に安息を与えた。この時間がいつまでも、せめて私の涙が止まるまでは続いてほしいと、心から思った。でも、それは多分叶わない。留まることを知らない彼の血液と、近づいてくる足音が、嫌でも現実を突きつけてくる。顔を上げずとも分かる。もう、追手はすぐそこまで・・・。

 「なぁ、ハルだけは自由にしてやってくれないか?」

 カオルはかつての相棒である追手の正体に、らしくない言葉を投げかけた。

 「それはできない相談だな。いくら君であってもね。」

 金色の目を持つ相棒は、カオルの要求を無情にも断った。私たちを追う組織のリーダーである相棒が醸し出す雰囲気は、形容し難い重さを感じさせた。

 「頼む。こいつはもう研究には必要ないじゃないか。逃がしてやってくれ。俺達の中だろ?お願いだ。」

 「こいつにはまだ使い道がある。それは君が一番分かっているはずだ。僕は君のような優秀な人材を失いたくない。早くその子を僕に渡せ。」

 カオルが逃走を諦めていたことには薄々感づいていた。この組織からの逃走がどれだけ無謀なことか、彼は十分に理解していた。

 「ハル、ごめん。」

 彼は私にだけ聞こえる声で言った。なんとか止まった涙を拭って、私は彼の顔を見る。

 「いいよ。」

 笑顔を作った私を見て、彼は少し驚いていた。彼は私が絶望に飲まれるとでも思っていたらしい。

 いいよ。ありがとう。私は十分幸せだった。覚悟はできている。これからどんな扱いを受けようと、そして殺されたとしても、カオルとの幸せな日々が消えることはない。だから、もう・・・

 「来い!」

 カオルの大声に反応し、無数のドローンが壁を破壊しながら現れた。ドローンは瞬時に相棒を取り囲み、彼の狼のような風貌を覆い隠した。カオルはまだ諦めていなかった。私の覚悟とは裏腹に、逃走を再選択したのだ。

 カオルは私を抱きかかえ、彼のドローンが飛び交う暗闇を走り出した。覚悟への裏切りのせいか、唐突な選択のせいか、声が上手く出せなかった。

 「しっかり掴まってろよ。」

 彼は息を切らしながら、一生懸命に声を発していた。私の服に、液体が染みてきている感覚を覚えた。彼の出血は進行中らしい。耐え難い激痛が走っているはずなのに、どうしてそんな声が作れるの?私をここで組織に渡したら、もう頑張る必要はないんだよ。これ以上苦しむ必要はないんだよ。

 「どうした!?どっか怪我したか!?」

 黙りこくっていた私を案じて、彼は強く言った。違う。そんなじゃない。怪我なんて、カオルに比べれば大したことない。

 「もう、いいって。」

 「え?」

 「もう、私のことはいいよ!もっと・・・もっと自分を大切にしてよ!」

 再び浮かんできた涙のせいで震えた声は、彼の笑顔を少し歪ませた。少し間を置いた後、彼は口を開いた。

 「そう、だよな。ごめんな。でもな、お前が今ここで組織に戻っちゃ駄目なんだ。あいつは絶対に俺もお前も殺す。こんなところで終わっちゃ駄目なんだ。お前にはまだ・・・

 突然、前に進んでいる感覚がなくなった。それを認識した途端、泣きじゃくる私は地面

に落下していた。幸い、固い地面に激突することはなかった。切り落とされたカオルの両腕が、私を地面から守ったのだった。

 「カオル!」

 「トワ・・・。お前はいっつもいいところで邪魔をする・・・!」

 「知ったことではありませんよ。」

 相棒の側近であるトワさんが刀の血振りをすると、まだ温かい彼の血が私の顔についた。すぐに相棒も合流し、完全に逃げ場は無くなってしまった。こんな絶体絶命な状況でも、カオルはまだ諦めていないようだった。

 『ハル、聞こえるか?』

 頭蓋骨が震える感覚と共に、カオルの声が頭の内側から聞こえてきた。逃走前に頭に埋め込んだ、彼お手製の小型トランシーバーからだ。

 『今すぐ飛べ!力を溜める時間は俺が稼ぐ。』

 実験で生まれた私は、一時的に雷となって飛び、任意の場所に落雷として落ちることができる。複数人で飛ぶこともできるが、それには莫大なエネルギーが必要。さっきまでの逃走中にこの手段を使わなかったのもこのためだ。おそらく今も、飛べるとしたら私だけだ。

 『でも!カオルはどうするの?』

 『俺はなんとかするから安心しろ。とにかく、”乾マサト”のとこに行け。追手はつきまとうだろうが、辿り着けばなんとかなるはずだ。』

 そこには本来、二人で行くはずだった。

 『いやだ!カオルを置いていけない!』

 『大丈夫。俺は簡単には死なない。お前だって分かってんだろ?後で合流だ。』

 『でも・・でも!』

 『いいから早く!お前には自由になってほしいんだ。頼むよ。』

 組織の二人を睨みつける彼の口角は、少しだけ上がっているように見えた。溢れ出る涙が視界を不明瞭にしたが、それだけは分かった。

 「万策尽きたかな?」

 「さぁ、そりゃどうかな?」『行け。ハル。』

 「まだ何かあるのかい。まったく君には感心するよ。昔から。」

 「お前の執念さにも感心だぜ。」『また後で、必ず会おう。約束だ。』

 彼はまだ私たちの未来を信じていた。私はもう一度覚悟を決めた。ただ今度の覚悟は、前に進む覚悟だ。鼻をすすり、涙に濡れた顔を拭った。目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をする。少しずつ、全身に力が流れていく感覚を覚える。髪は逆立ち、静電気が爆ぜるパチパチという音が鳴り始めた。

 「策ってのはこれかい?トワ、ハルの四肢を落とせ。」

 トワさんが抜刀の構えを作り、私を睨みつけた。それとほぼ同時、カオルが両足を

ドローンの上に乗せ、空中を滑るように移動し始めた。

 「邪魔すんな!」

 カオルが移動の勢いのままトワさんを蹴り飛ばした。

 「くっ。」「両手が無いからってなめんなよ!」

 カオルは笑っていた。勝ち誇ったような、どこか爽やかな笑顔。

 『気を付けて行って来い。ハル。』

 覚悟のおかげか、もう涙は出なかった。私も、先に進む。生きるんだ。カオルが望んだように、自由に、幸せに。

 『行ってきます。』

 私は、自由な暗闇へと飛び出した。


「何か、言い残すことはあるかい?」

 「は・・・は。キャラクター・・気取りかよ。」

 闇を彩る雷を見つめながら、男たちは言葉を交わしていた。

 「口が達者だな。最期だってのに。」

 「最期・・・ね。」

 突如地面が割れ、地下から巨大なドローンが現れた。

 「トワ、斬れ。」

 冷静に指示を飛ばしつつ、男は自分の手袋を取った。指示を受けたトワがドローンを一刀両断する。男は墜落するドローンの向こうで笑みを浮かべるカオルを視界に捉えた。その余裕綽々とした表情に、男は嫌な予感を覚えた。

 「まさか・・・!」

 「その・・まさかだよ!・・・吹き飛ばせ!」

 途切れかけていた意識を奮い立たせ、カオルは叫んだ。ハルを逃がした理由は、この自爆のためであった。ドローンは爆炎を放出しながら爆ぜた。地面は焼け焦げめくれ上がり、爆風に圧された空気はその場に存在する人間全てを吹き飛ばした。

 降りしきる雨がドローンが産んだ火炎を消した頃、瓦礫を押しのけ地上に這い出てくる人影があった。

 「ふぅ・・。」

 黄色く輝くその眼は、雷が消えた夜空を見つめていた。

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