第11話 ウェイク・アップ
夜、〈眠りの森〉の湖畔にはヴェイロンが一人で佇んでいた。
森の夜は濃い暗黒で覆われていて、開けた空から降り注ぐ星々や月の光が湖に反射すると、それはまるで宇宙のようだった。
ヴェイロンは小宇宙となった湖を眺めながら茶を啜り、幻想的な光景に浸っていた。
「こんなところで何をしているの……?」
「ぬ……?」
静けさに包まれた景色の中、ソプラノが響く。
背後から聞こえた声にヴェイロンは振り返り、そこに立っているアポロを見ると怪訝そうにした。
「貴様こそ何をしている。もう深夜だぞ」
語りかけつつヴェイロンは茶を傾け再度湖へと視線を戻す。
そんな彼の姿を見つめるアポロは静かな足取りで隣に立つと「わぁ」と感激の声を漏らし、瞳を輝かせた。
「凄く綺麗……まるで宇宙みたい……」
「……おい、先の問いに答えたらどうだ」
「あなたこそ、答えなかったくせに」
その返答にヴェイロンは面倒くさそうな顔をするが、かぶりを振ると言葉を紡いだ。
「……久しく手にした安寧に少々戸惑っているのだ」
「え……?」
予期しない台詞にアポロは驚いて彼の顔を見やる。
「果たして平和だとか平穏とやらはどう過ごせばよかったのか……忘れているのだ」
「……それ程までに、戦い通しだったの?」
「さてな。我等魔の者にとって生きる全ては闘争その物だ。血に
「けど、魔王が嫌になったから出てきたんでしょう? 飽くなき闘争を求めるなら絶好の席じゃないの?」
「如何に闘争に恋い焦がれていようとも、雑魚を相手取るのは退屈だし、下手をしたら苦痛にすらなり得る」
彼のいう雑魚というのは勇者のことで、神により選出された、文字通りに選りすぐりの猛者であっても、ヴェイロンを満足させるには足りないらしい。
「……違う立場だけど、私も出てきた身だからなんとなく分かる。自由過ぎて何をすればいいか分からなくなるのよね。私の場合は自由そのものが不自由だけど……」
「例の呪いか。しかし他者を目標として発動される呪いというのも、性質が悪いな」
「だから私は生まれた時から疎ましい存在だったのよ。特に親からすれば尚のこと」
「王家で、しかも長女だろうに。親に愛されなんだか」
「無理よ。だって私の国は……魔とは程遠い、聖の国だもの」
アポロは絞り出すようにそう呟き、それを聞いたヴェイロンは
「……ねえ、魔王」
「もう魔王ではない」
「じゃあ、ヴェイロン……?」
「なんだ、小娘」
名を呼ぶと素直に返事をするのでアポロは一瞬戸惑ったが、彼女は伏せていた顔を上げると、ヴェイロンを真っ直ぐに見つめて問う。
「どうしてそんなに強いの?」
アポロのその言葉は、
人も魔も、意思を持つ生物は他者と比較するのが本能だ。
劣等感を持ち優越感を持ち、己よりも優れる他者を妬み、嫉み、嫌悪すら抱くことがある。
最強を地で行き、それが世界に認められる覇者ヴェイロン。
彼を前にしては全ての生物は無力にも思えるが、彼女にとって彼の持つ強さとは憧れと同時に己の無力感を強く意識させるものでもあった。
「強ければ、私もあなたみたいに、理不尽な現象を叩き伏せることができたかな。誰にも迷惑を掛けず、誰にも嫌われず、受け入れられ、好かれ……必要とされたかな」
消え入るような、か細い声だった。
それを聞くヴェイロンは再び湖を見つめ沈黙のままに口を閉ざしている。
無視されたかとアポロは項垂れ、肩を落とした彼女は道を戻ろうとするが、それまで沈黙を保っていたヴェイロンが口を開き、静かな口調で語り始めた。
「受け身ばかりだな」
「え……?」
「貴様の言葉は、全て他者から受ける言葉を前提にしたものばかりだ。受け入れられたい、好かれたい、必要とされたい……全ては施しを受ける者の言葉だ。それは乞食と変わらぬ」
「乞食って……」
「違うのか?」
振り向き、ヴェイロンはアポロを真っ直ぐに見つめる。
「受け入れたらいいではないか、己の境遇を。好けばよいのだ、己自身を。必要とするのだ、己の全てを。己を己が信じずして、一体何を実現できるというのだ」
「実、現……?」
「……生きる者等の帰結する答えこそは幸福に尽きる。貴様もそのつもりで先の言葉を口にしたのだろう。幸せになるためには受け入れられ、好かれ、必要とされたいのだろう」
そういわれるとアポロは静かに頷く。
「だが世界はそう簡単ではない。個人の為に全体が容易に変化すると思うか? 答えは否だ。何せ吾輩や貴様以外にも意思を持つ生き物が億を超える数もいるのだ。その生き物達がいて世界というのは成り立つのだ」
ヴェイロンは立ち上がるとアポロへと近づいて、大きな手を差し出した。
その手には既に熱を失ったカップがあるだけだったが、そんなカップをアポロへと差し出したヴェイロンは「黙って飲め」という。
「ならば己を変え、超えねば。理想や夢があるならばそれを実現する為に己を己で変化させねばならぬ」
「……そうはいったって、難しいよ」
「だが実現せねば現実にはなり得ん。そこはいつまでたっても絶望の底でしかない」
「その絶望に屈しないために、強くなりたいよ」
カップを受け取り、それを飲み干したアポロは真っ直ぐにそういった。
それを聞いたヴェイロンは面白そうに笑うとゆっくりと頷く。
「ならば強くなればいい。吾輩は最強無敵であり常勝不敗の絶対者だ。故に弱者の考えなど理解は出来ぬ。だが絶対者であるが故に断言できることはある。強くなりたいと願ったその時、そやつはようやっと生き物らしくなれるのだ」
「生き物、らしく……?」
「そうだ。受け身でいるだけの腐れボケではない。そやつは闘争を正当化し、己の理想を実現する為の……生き物としての権利を得るのだ」
強い言葉にアポロは背が震えた。
果たして己は受け身な性分だったかと疑問を抱くが、そこに正確な答えはないようにも思える。
ただ、彼女にとって、彼のいう「生物とは己の理想を実現する生き物だ」という台詞が心に響いて、それを実感すると胸に手を当てた。
伝う心音を感じて、不思議なことではあるが、彼女はこの時に「私は生きているんだ」という実感を、新鮮な程に感じることができた。
「権利を得て、望みを自覚し、実行する為に我武者羅になる……それが生き物らしい生き様だ。ただ受動的に生きるだけならば草木や花々にだってできる。そんな程度で己の命を済ますものではない」
一度言葉を切ったヴェイロンは穏やかな口調で続きを紡ぐ。
「貴様は貴様なのだから、貴様の望むように生きてみろ」
「……いいのかな、好きに生きても。呪われてるのに」
「その呪いに屈せぬために強くなりたいのだろう。ならばそうなるのだ。なればよいのだ。貴様が望むことを貴様自身が叶えてやれ。それが生きるということだ」
魔王としての貫禄か、或いは覇者としての経験がものをいうのか、彼の言葉に並々ならぬ空気をアポロは感じていた。
〈神殺し〉――それを成し遂げた唯一の超越者、魔王ヴェイロン。
アポロはこの夜に、ヴェイロンの強さに少しだけ触れた気がした。
「……お茶、ありがとう。美味しかった」
「ふん……いいからとっとと寝ろ、バカ娘めが」
アポロは小さく笑むと礼をいうが、ヴェイロンは再び湖の方向へと目をやり、ぶっきらぼうな対応をするとそれきりだった。
(なんだ、思ったよりも分かりやすい性格なんだ……)
出会った当初は恐怖でしかなかった元魔王。
しかしまともに会話をしてみると思慮深く、哲学めいたものも持っていて、同じく森に住まう同士として抱いていたヴェイロンへの不信感や不安の気持ちはこの夜に薄らいだ。
「お休み、ヴェイロン」
その一言を残して自宅へと戻るアポロ。
ヴェイロンはやはり振り返りもせず、返事すらもしない。
空になったカップを握りしめ、彼の視線は湖から星空へと移った。
「んで……どうするつもりなのよ。いい加減に頭の中の考えを教えなさいよ」
やっと孤独を取り戻せたと思うのも束の間、湖から響く声にヴェイロンは
「千客万来か? 何故夜半に活動的になるのだ、貴様等は」
「女ってのはそういう生き物なのよ、ヴェイロン」
水の飛沫があがり、それは段々と人の形をつくると湖の上を歩き、ヴェイロンへと語り掛けた。
その姿はお馴染みの女神ウアイラで、彼女の登場にヴェイロンは厭味を口にする。
「魔王として世に君臨してから二百年……その間に数多の魔の者等を支配したあんたが、力任せの暴力だけで
「ふん……知らんな」
「あら、とぼける気? 別にいいけどさ、それにしても縁ってやつはある種の呪いよね。それこそ業の深い腐れた、ね」
「だから知らぬといっている」
にべもないな、とウアイラは呟く。
「〈神殺し〉の呪い、まさかあんたじゃなくてあっちに向かうとはね。私も予想外だったわ」
「はっ……神を名乗るくせに、まったく情けのない話だ」
「仕方ないでしょうよ、神と名のつく存在はそれこそ〈大量にいる〉んだから。私はそのうちの一柱でしかないし、専門は全知じゃないのよ」
「使えん奴だ。そんなんだから〈古い時代から苦労をする〉のだぞ」
「ええ、そうよ。そんで〈その苦労がこの時代でも発生してる〉のよ」
「それで……その苦労が何だというのだ。よもや手伝えとでもいうつもりか?」
「何せなーんも語らないからねぇ、あんた。そうであれば命令として下しますとも。そもそもあんた、暇してんでしょ?」
「暇ではない。明日からは畑をつくるのだ。それが終われば水田、次には牧場をだな……」
「あんたねぇ……まだお爺ちゃんになるのは早すぎるでしょうよ」
「早かろうが遅かろうが吾輩は自由を求めてここにきたのだ。故にそれを謳歌するのみよ」
「それで世界が滅茶苦茶になっていても? シロンちゃんに全部まかせっきりにして?」
「ああ、知ったことではない。吾輩がいない程度で滅茶苦茶になる世界なんぞはな、端から存在価値がないんだ」
「いうわねえ」
「そりゃな。そもそもだぞ、ウアイラ。よく考えてみろ」
「あん? なにさね」
うんざりした顔のヴェイロンは呆れたような口調で続きを口にする。
「もし吾輩が本当に死んだ時、そうなったら〈あとの世話を誰がみる〉というのだ?」
「あ? あー……ああ、成程ねぇ……あんたのいいたいことってのは、要するに……」
「つまりはそういうことだ。今の世だろうが後の世だろうが変わらんのだ。その時代にはその時代の問題が発生する。そうなったらその代の者等が自身等でどうにかするしか手はないのだ。故に吾輩の役割はもう、ない。〈とうに済んでいる〉」
「……とか何とかいってさ、面倒だから全部投げ出してきたんでしょ? その建前を自分で忘れてちゃお笑いにもならんわよ。そもそもあんた若造だし」
「ぬっ……誤魔化せんか……」
「誤魔化せるわけないでしょ、神を相手に」
頭を掻くヴェイロンだが、そんな彼の背後からまたもや新たな足音が生まれ、それは自然な足取りで彼へと迫っていくと適当な具合で声をかける。
「んでー、そろそろ城に戻る準備は出来たのかにゃぁ、ヴェイロン?」
「……本気で喧しいぞ貴様等。なんなのだ、夜更けに……」
「コルメウムちゃん、こいつ何が何でもここを離れるつもりはないみたいよ」
「マジで困ったボケ野郎だな手前……」
「何の問題があるというのだ……何だったらお前とシロンのペアで魔王を名乗ればよかろうがよ」
「いやだからな、お前っつー存在そのものが重要なんだよ。そもそもだぜ、今はバレてねーからいいけどよ、シロンの存在がもしも人の側に知られてみろや」
コルメウムとウアイラは渋い顔になるが、対してヴェイロンは呆れ顔のままに「別に何の問題もない」という。
「いやいや大ありだからな? 〈あれ〉を見て人の世が魔の者等をどう見るかなんて明らかだからな? 攻め入る大義名分を与えちまうからな?」
「あんたの適当っぷりだとかイかれた判断は本当に困ることばかりよ、ヴェイロン……」
「ふん、知るかよ。あいつは我がディアブロ一門が誇る〈戦姫〉だ。それ以上も以下もない。〈鏖卿〉よりも魔王という存在を熟知しているあいつだからこそ魔王足り得るのだ」
「ダメだこいつ、問題を全然理解してねえ……」
「これだからおバカは嫌なのよ……」
「そもそも〈それら〉は敵になり得ん」
「〈それら〉?」
「何を指していってんだにゃ?」
僅かに顔を伏せたヴェイロンは呟くようにこういった。
「〈人類は敵ではない〉……それだけだ」
「……ヴェイロン」
「やっぱこいつは……魔王足る存在だよにゃあ。認めたくねーけどさ」
彼の呟きから真意をくみ取った二人だが、そんな二人の言葉にヴェイロンは面倒くさそうに唸ると立ち上がり「夜の女というのは至極厄介だ」と文句すらも零した。
「まったく、どいつもこいつも騒がしいにも程がある……もう吾輩は寝るぞ」
「まーた面倒だからって逃げて……」
「寝るにしたって魔王城に戻れにゃん」
「戻らん。兎角、明日からは畑づくりだ。コルメウム、お前も手伝っていけよ」
「ざけんな糞野郎」
「いいから手伝え。命令だ。ではな」
肩を竦めつつヴェイロンは道を戻り、己のねぐらである家屋へと姿を消した。
それを見送る形となったウアイラ達は同時に溜息を吐くと「どうしようもないな」と声を揃える。
「命令、ね……素直に〈ここにいろ〉っていえばいいのに、あのバカ」
「とはいえあいつの頭の中にある画図ばかりに従ってたんじゃ、今度はヴェイルサイド大陸が大騒ぎだにゃ。それこそ根を刈るように多くの魔の者等の命が散る」
「だから無理矢理でも連れて帰るって?」
「んだんだ。キナくせえ空気も若干、本質に迫っている感じもするしにゃ」
「ん? それってのは?」
「んにゃー……それがよぉ、近頃、勇者が大量発生してんのさ」
「また虫のようにいうわねぇ……」
「けどそんだけの被害が出てんだぜ。あいつら見境なしに暴れ回ってやがる。神格を賜った存在だし、並の魔の者じゃ歯が立たねえのは事実なのさ」
「まあ、伊達に勇者じゃないしねぇ」
唸ったウアイラは腕を組む。
「そもそも勇者の選定は……唯一神とか呼ばれてる〈アレ〉がやってんだけどさ……」
「ああ、知ってるにゃん。そりゃね、よく知ってるさ。あたしもヴェイロンもにゃ」
「ヴェイロンが魔王の座を退いてから被害が相次いでるのよね?」
「んだ。タイミングがタイミングだしにゃ、怪し過ぎるだろう? 多分、今回はシャレにならねーくらいの騒ぎさ」
ウアイラは目を細めると天を仰ぎ、眉間に皺を寄せ、困ったように睨み付けた。
そこに広がるのは星空の筈だが、もしかしたら彼女の瞳に映る空は違って見えるのかもしれない。
「……恨み過ぎよ、エクセレロ。どんだけあいつが……ヴェイロンが憎いのよ」
呟きに応える声はない。
だが、流れ落ちていくように駆け抜けた流星が一粒の涙のようにも見えて、ウアイラもコルメウムも渋い顔を浮かべた。
ただ、そんな最中に、ふとしたようにコルメウムが小さく笑う。
「それでもよ、ウアイラ。そんな腐れた神の存在すら薄れる程に……あの美しさは相も変わらずだと感じるよにゃあ」
「あら、
「うっせーにゃっ。けどまぁ、長く生きるのも悪かねえもんだと思ったにゃん」
目を細め、流れ落ちる星の滴を掬うように手を空へと翳したコルメウム。
それはまるで、存在しない誰かに触れるような動作で、少しの沈黙を挟みむと彼女は語りかけるようにいった。
「やっぱり美人さんだったぜぇ、姫さんよ……あんたの血はまだ続いてる。そして〈あの時と同じように〉ヴェイロンと共にある。だから何の心配もないにゃ……ガヤルド姫」
コルメウムの言葉に応えるように、今し方、新しい星の滴が落ちて、それは湖畔に映って、コルメウムとウアイラは言葉もなく、切ない表情のまま、風に吹かれるばかりだった。
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