ゆまゆにっ!

五月七日結里

「僕」

 人間なら誰しも、産まれてから一度くらいは誰かに、何かに、「憧れ」という感情を抱くはずだ。

 両親やスポーツ選手、人気アイドルからアニメの主人公まで、憧れに値する人物は千差万別。

 憧れはやがて目標となり、子どもの自己研鑽はそれをモチベーションに行われる、というのが僕の持論だ。データはない、勝手な決めつけだがな。


 当然、僕にもそんな対象がいた。

 ずっと目標にしていた偉大なる存在。

 名前は分からない。近所の野良猫だからな。


 …おかしいと思うか?まあ、否定はしない。

 幼心特有の変わった感性なのか、他人と違うことを誇りにもった反骨心が影響したのか…

 とにかく憧れてしまったんだから仕方ないだろ?


 きっかけは、それはもう単純。あれは小学3年生の時。

 暑さから木陰に身を寄せた僕は、空を見上げた。

 茂った葉が青色を視界から消したが、代わりに一匹の猫を発見できた。

 僕の視線に気づいたのか、奴は背丈の倍以上ある木から飛び降り、何事もなかったかのように着地、そしてどこかへ消えていってしまった。


 思い返すと、たったそれだけの出来事だ。

 これ以上語ることはない、本当にちっぽけな出来事。

 絵日記の題材にすらならない。


 ただ、一連の動きは、僕を魅了するに十分だったんだ。

 猫がストン、と高所から飛び降りる。

 それだけで感動してしまった心を、自分でも理解できなかった。


 だから、同じ事をした。

 野球選手に憧れた人は素振りを、戦隊ヒーローになりたい者は戦いごっこをする。

 つまり、猫に憧れた僕は、同じように飛び降りればいい。

 さすれば、淡い感情も理解ができる。そう信じた。


 木は低過ぎたので、僕は学校の3階から。

 これから落ち行く地面に背を向け、バンジージャンプに挑むかの如く、僕は渡り廊下の柵から足を離した。

 真っ直ぐ見据えた視線の先には、遮るものはない。

 空中に身を任せる際に、綺麗な青い空を見れた。

 風が落ちる僕を止めようと必死に押し返してきたが、重力に勝てるわけがない。

 気づけば、視界には一面が地面に。

 このまま激突すれば間違いなく底を突き抜け、そのまま地獄行きになってしまうため、どうにかして制空権を得ようと躍起になり、体を動かした。


 そんな僅か数秒の出来事。

 されど、僕の人生で最もピンチな数秒。この光景を忘れることは一生ないだろう。


 ピタッと3点、両足と左手で着地した瞬間に、脳からありとあらゆる汁が湧き出た気がする。


 恐らく科学では、その汁がどういったものか定義されている。アドレナリンなりグルタミンなり、よく分からないがそのような名前がつけられているのだろう。

 でも、僕は違う解釈を持つ。あれは、僕の「幸福」。幸福が汁となって体中に広がっているんだ。


 それを知った瞬間、「僕」というアイデンティティが産まれた気がする。

 ただ惰眠を貪る日常から脱却し、「幸福」を求め猪突猛進するようになったからだ。なんでもやった気がする。スリル溢れるものから一般的なスポーツは勿論、オカルトなどにも手を出した。

 とにかく、自身が抱いた好奇心に素直になり、脳から汁をドバドバ溢れさせた。

 間違いなく幸せな日々だったと断言できる。


 ただ、幸せを享受するには、犠牲が必要だということを忘れてはいけない。

 だって、そうだろう?お金、時間、労力、精神…社会経験のない僕ですらこれくらい浮かぶんだ。幸せの裏では、こんなにも犠牲が付き纏っている。

 幸福な子どもは、それに気づいていないだけ。


 僕は過程で気づいた。

 でも、子どもの僕に犠牲させられるものなんて、たかが知れている。

 だから、僕は友達を捨てた。群れるのを、やめた。

 他人は煩わしい。共存を求め、安定を好む。生存するには大いに正しいことさ。

 長生きできそうで何よりだ。

 そんなつまらない人生、僕はまっぴらごめん被るがな。


 これが「僕」。孤独を好み、ひたすら気まぐれに、したいことだけをする一人の人間。生き方を誰からも理解されなくていい。

 死ぬ間際に自分で満足できていれば満更でもないさ。


『本当にそう思うか?』


 …ん?声がしたような…

 いや、これは僕の夢の中のはず。誰にも干渉できるわけがない。


『お前は本当に、この生き方で満足できているのか?』


 もう一度声が届く。聞き間違いではないようだ。

 この場に僕以外の人間が存在していることは、もはや明白。

 その存在に気づいた影響からか、真っ暗闇な空間に突如ぽつんと、一人の人間が現れた。


『挨拶もなしに失礼したね。私はマズロー。この名に聞き覚えはないかね?』


 マ、マズロー…だと!?


 …………………………………誰だよ!


◆◇◇◇◇◇◇◆


「はっ!………あれ?」


 眩しい。容赦なく射し込んでくる光が憎い。

 …どうやら僕は悪夢から覚めたらしい。

 起きない僕を起こそうと、スマホからは甲高い音が流れ続けている。止めるか。

 さてさて…現時刻は8時58分と。……ん?


「遅刻じゃん!」


 思わず大声を出してしまった。だが出てしまうのも仕方ない。

 なんたって今日は大学初の登校日である、ガイダンスが開催される。

 開始時刻は9時ぴったし。制限時間は残り2分。


 慌てて洗面台に行き、寝癖だけ整える。

 …いくら寝癖を整えたとて、ひどい髪色は治らないがな。

 どんな色かって?黒さ。もっとも、先端部分はすべてピンク色に染められている。

 それもファンシーな明るいピンク。全然格好良くない。


 全部あの美容院のせいだ。高校まで禁じられた髪染めという行為になんとなく興味を持った僕は、魔が差したのか面白半分で店員に「おまかせ」で頼んでしまった。

 いや、この選択は悪手ではないはず。寝ていなかったら止められたんだ。

 それに、担当員をバカ真面目に信じた僕も悪い。

 鏡を見て困惑しながらも、これがお洒落かと思い込んでそのまま帰ってしまったんだから。

 案の定、帰ったら家族に笑われた。そりゃそうだ。似合ってないからな。

 …生憎僕の貯金は尽き、染め直す時間も余裕もなく、この状態のまま入学を迎える羽目になった。

 ピンクメッシュ天パとか、個性だけは十二分に発揮している。いらんわ。


 って、そんな話をしている場合じゃない!急がねば…


 鼻にテープを貼り、ロリポップを口に含む。外出時の必需品だ。

 最後に必要そうなスマホと学生証だけポケットに入れ、部屋を飛び出す。

 幸いにも僕の部屋は2階なので、エレベーター待ちする必要もなく駆け下りる事ができる。

 さて、この寮から開催場所である講堂までは、徒歩で20分かかる。

 同じ大学の敷地内とは思えない距離だ。東京ドーム何個分なんだ。そもそも東京ドームってどれくらい広いんだ。どっちもわからん。


 とにかく、この大学の敷地は相当広いんだ。なんたって、島丸ごと引っくるめて、すべてがこの大学の領地なんだからな。

 引っ越しのために初めてフェリーに乗ったんだぞ。

 数時間波に揺られていたから、本土からは遠く離れていることが察せられる。

 この時点で、ウチの大学が規格外な特徴を持つことがわかると思う。

 立地以外にもまだまだ色々ありそうな予感がプンプンと臭うがな…


 そんな感じのことを考えていると、意外にも早く講堂が視界に映り始めた。

 走った甲斐があったぞ。

 一応、道中で誰かとすれ違わないか期待したのだが、当然孤独のランナウェイ。

 流石に初日から遅れるバカは僕以外いなかった。


 …まあガイダンス中に不良生徒を叱る暇なんてないか。堂々と遅れよう。

 既に目の前には講堂へと導く巨大な階段があるんだ。

 ここを登ればゴールまっしぐら。


 しかし、僕の足はこれ以上進まなかった。

 階段の下に、今日初めての人間を発見したからだ。

 もっとも、その人物は僕に気づいてないだろうが。


「ま、マジ?とりあえず止血しないと…!」


 仰向けになりながら倒れている少女の頭部からは、ドス黒い色をした液体がドクドクと垂れていた。

 何が起こったのかを把握したいが、先ずは人命救助をせねば…!

 僕は服を脱ぎ、肌着を破って彼女の患部に巻いた。

 脈はあったので、手当てを施すことができる場所に連れていけばなんとかなりそうだ。

 場所はわからないので、教授に委託すれば問題ないだろう。

 彼女を背負って講堂に入れば解決だ。


 道筋ができたところで油断が生まれたのか、僕は額の汗を拭い、安堵のため息を漏らしながら空を見上げた。


「………………ふぇ?」


 間違いなく、数秒前には、そこに何もなかった。断言できる。

 それが今、音も立てずに、『アレ』が現れた。


「ゆ…UFO?」


 空を飛ぶ円盤状の物体。それは人を『UFO』と呼ぶはず。

 中に宇宙人がいると、そう信じられている、アレだ。

 なら、僕が今見ているのは、間違いなく、UFOだ。まやかしでもなんでもない、正真正銘UFOだ。


「…くっ!」


 本来ならば今すぐにでも乗り込みたい。どんな手を用いてでも、あのUFOの中に入ってみたい。だが、良心の呵責がそれを許さない。

 好奇心と良心がせめぎ合い、結局僕は人命を優先することに決めた。

 どうせどちらを逃しても後悔する。

 それならせめて、後味の悪さが薄い方を選ぶのがいい。

 未練がましく、僕はUFOから目を背け、少女をおぶろうとしゃがみ込んだ。

 刹那、


 どごぉぉぉぉぉぉぉぉぉん!!!!!!!!!!


 死人すら起こしかねない轟音が鼓膜を盛大に揺らした。


「は…はぁ!?」


 流石に狼狽えた。

 …こんな轟音、引き起こした犯人など、確かめるまでもない。


 しゃがんだ際、僕の頭頂部付近に、碧色の光が差し込んだのが見えた。

 もしや…


 恐る恐る、後方を確認する。


 何もなかった。よかった。安心して首を戻す。

 …ん?

 感じた違和感。もう一度、今度は素早く後方を見る。



 …やはり何もない。


 そう、


 文字通り、先程まであった地面ですら、何も。


 ポロッと、咥えていた飴の棒が落ちる。口が閉じなかったのだ。


「え、えぇ……………」


 思わず漏れた声は、それはもう、間抜けな色をしていた。








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