〈八〉花車

 踏み入った里の中はひっそりとして、けれども暗くはない。日が暮れたら明かりを灯すのか、あちこちに赤い提灯が吊り下げられていた。


 塀で仕切られた道を歩いていていると、あまり周囲は見えなかった。空だけはどこにいても変わりなく、そのことにほっとする。

 背を向けて歩きながら花崎は言う。


「ここは遊廓といえど、吉原などとは在り方が違います。ここへ来られるお客様はもとより限られておりますが、お客様同士が鉢合わせすることなどないように、一度にひと組だけしか受け入れないようにしております。よって遊女の数も少なく、選び抜かれた上玉しかおりません」


 そんな話を聞いてしまうと、琴平ですらこの里の遊女たちに会ってみたくなる。天女のように美しい女たちを侍らせることができるのは、余程の身分と金を持つ者だけなのだろうけれど。


「あなた方は迷い込んで羽を休めに来た小鳥と同じで、我々が招いたお客様とは違います。ですから、里の遊女にお手をつけたりはなさいませんように。――まあ、お可愛らしいご新造様がおいでですので、そこは要らぬ心配かと思われますが」


 そこで花崎は一度振り返り、この時だけ琴平を見た。

 底冷えする、鼠を見遣るように冷ややかな目だ。身の程を弁えて大人しくしていろと言いたいらしい。

 もし里の遊女に悪さをしようものなら生きて出られると思うなとばかりに。琴平にはそんなつもりもないので、黙ってやり過ごした。


「私共は休ませて頂く身ですから、もちろんそのようなことは致しません」


 虎之助が答えると、花崎は満足そうにうなずいた。


「ええ、妓楼にもお入りになりませんように。それから、外界に戻ってもこの里のことはご内密に願います」


 幕府公認でありながらも、やはり隠されている。おかしな話ではあるが、人に知られていないからこそ値打ちがあるのだろうか。

 そこになんの意味があるのか琴平にはわからないが、口外できないのなら忘れた方がいい。


「お約束致しましょう」

「ありがとうございます」


 不意に花崎が立ち止まった。

 そこは何もなく、中央に盛り土がされただけの場所だった。中心が紙垂しでのついた注連縄しめなわで囲われている。見るからに神聖な場所らしいが、注連縄の中は家が建つほどの広さはなく、精々が社が建つくらいだろう。


 ただ、ここへ来た途端に里は景色を変えた。

 前方に聳え立つ赤い妓楼が見えたのだ。まるで唐の国に迷い込んだような気になる、鮮やかな色をしていた。


 けれど、それだけではない。右を向いても左を向いても妓楼があった。ざっと見ただけで三つはあった。色や造りはそれぞれに違う。

 吉原でいうところの大見世おおみせというやつで、他にも小さな見世がいくつかあるのかもしれない。


「では、ご入用のものはどうぞこの花車にお申しつけください」


 それから花車に向けてぼそぼそと何かを告げ、花崎は去っていった。

 その途端に花車は口を開く。顔と同様に特徴のない平坦な声だった。


「当分の間、こちらの家屋をお使いくださって結構です」


 花車の白い手が差した方に何軒かの家があった。長屋というよりは御家人が住む家といった風情で、木戸がある。

 こんなにちゃんとした家で休ませてもらえるとは思っていなかった。嬉しい誤算だ。


 花車は木戸を開け、誰に断ることもなく中へ入る。この家は誰も使っていないのだろうか。それでもちゃんと風を通し、手入れはされていたように思う。

 玄関の戸を開けた後、花車はにこりともせずに言った。


「後で食事を持たせます。暫しお待ちください」

「あ、ありがとうございます」


 松枝が深々と頭を下げたが、花車はやはり気にも留めない。

 足音もほとんど立てずに離れていった。


 ここは静かだった。三人だけになってやっと息がつけたのも本当だ。

 虎之助も気が張っていたのか、倒れ込むように上がり框に座り込んだ。


「虎之助様、お怪我の方は――」

「ああ、心配するな。すぐによくなる」


 本当にそうであってほしい。

 ここは安住の地ではないのだから、また旅立たねばならない。


 ――けれどもし、ここに置いてもらえたとしたら。


 ここは隠れ里だ。もし追手が来てもそう簡単には見つからない。あの大門が守ってくれる。

 ここは二人にとって最適な土地ではないだろうか。

 住むとなると、花崎もそう簡単に許してはくれないのかもしれないが。

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