桜ノ奇

五十鈴りく

〈一〉四畳半の悪夢

 母は桜の花が好きだったのだと思う。

 毎年春になると首が痛くなるほど桜を眺めていた。


 着物の襟から伸びる白首に、黒い後れ毛が少し。琴平きんぺいが知る母は若く、美しかった。子を持つ母であるのに、まだ男を知らぬ清らかな娘のようにさえ見える。


 桜を眺める母を琴平が見上げた。

 雪のように白い花が青空を背にちらちらと降ってくる。

 その花吹雪が母を一層綺麗に見せた。擦りきれてつぎの当たった着物を着ていてさえ。


 母の白い顔に花びらが近づくと、その花がほんのりと薄紅色であることがわかる。なんとも淡い、儚げな花だった。

 母も儚げだった。線が細く、たおやかで声を荒らげることはない。


 琴平の顔立ちは、それほど母に似ていなかった。母のようなくっきりとした目元ではなく奥二重で、目立った容姿はしていない。


 父なし子の琴平を、母は大切に慈しんでくれている。

 琴平が生まれた時から父はいなかった。母は住まいを転々としながら日雇いの仕事をこなし、どうにか琴平を育ててくれていた。

 それが容易ではないことくらい、物心ついた頃には知っていた。


 掛け替えのない母だった。

 大きくなったら、琴平が代わって母を守るのだと当たり前のように思っていた。


「かあさん、かあさん」


 父もいない、兄弟も友もいない、そんな琴平にとっては母がこの世のすべてだった。いつも母の後をついて回った。


「琴平、あんたはあたしの大事な子。それから――」


 ぎゅっと琴平を抱き締めて、いつも同じことを言う。それなのに、言葉の最後はいつも声にならない。

 それでも、気にしたことなどなかった。何もかも、母がいればどうでもよかった。




 そんなふうに、たった一人に依存する在り方は脆いものだ。

 あれは琴平が六歳になるかならないかという頃――。


 春の、うららかな日。

 琴平は桜の木に登っていた。小柄な琴平は身軽で、自分の背丈よりも高いところへでも楽に登ってしまえた。桜好きな母のため、枝を少しだけもらおうとしたのだ。


 浅はかな物知らずの子だから、折った桜の枝が枯れるものだとも知らなかった。ずっと美しいまま狭い裏長屋の中で咲いてくれるのだと思っていた。


 手折った枝は、青臭い臭いがした。茶色の枝の芯は思いのほか白い。

 これを見せたら、きっと母は喜んでくれると信じていた。


 しかし、長屋へ戻った時、戸を開ける前から胸の辺りがぞわりとした。

 それが何故なのか、上手く言葉にはできない。

 それでも、中に母がいる。琴平は戸に手をかけて力を込めた。


 その途端、部屋の中がぬるく感じられた。言いようのない生臭さが漂う。まるで部屋の中で魚をさばいたような。

 頭を落とし、腸を抜き取り、血が、まな板にこびりついている――。

 楽しく談笑しながら担いできた桶の上で魚を捌く、鯔背いなせな魚売り。しかし、その手元は生臭い魚の血に濡れて。


 そう、あれと同じだ。人も生臭いのだとこの時に初めて知った。

 赤い血を撒いて果てている母。美しかった母でも、魚のような血の臭いがした。




「――――っ!」


 琴平は叫んで飛び起きた。

 心の臓が荒々しく悲鳴を上げるように脈打っている。

 十年近くも前のことでも、こうして繰り返し夢に見る。ただし、今日の夢は今までで一番生々しかった。あの頃に、まるで子供に戻ったかのように思えた。


 薄暗がりの中、震える指先をもう片方の手できつく握る。汗が頬を伝った。起こしてしまったのか、隣の部屋から悪態が聞こえる。足軽長屋の壁は薄い。


 琴平は夜具に潜ると震えながら夜明けを待った。




 母をうしなった身寄りのない琴平は、ただ泣くことしかできなかった。

 血を塗りたくったような母の遺骸に取りすがる幼子にさえ、世間は厳しい。


「なんて厄介な死に方をしてくれたんだ。これじゃあ次の店子たなこが入りたがらないよ」


 大家の、袖で隠した顔の半分が醜く歪んでいる。そんなものは見なくてもわかった。

 老人のくせに、店賃を差し出した琴平の母の手を摩って言い寄っていた。死んだ途端に無価値なちりのような扱いを受ける。


間夫まぶに刺されたんだね。それとも、悋気りんきの強い他所の女房にかしら?」


 あばた面のいかず後家は、美しい母を妬んでいた。通りかかるとわざとぶつかったり、足を踏んだり、子供じみた嫌がらせをした。


「大人しそうな顔して、裏では何をやってたんだかねぇ。怖いねぇ」


 太った隣の女房は、にやけた顔を隠しもしなかった。

 宿六やどろくが琴平の母をいやらしい目で見るたび、包丁を振り回したいと思っているような、それを必死で抑えているのがわかる指先の引き攣りを知っている。


 世間は優しくない。

 慎ましく生きていただけの琴平たち親子を、あたたかく片隅に置いてはくれない。さあ苦しめとばかりに地べたに叩きつける。


「この子はどうするんだい?」


 皆の目が琴平に向く。両手を母の血で赤く濡らした子供に。

 誰もが忌むばかりだった。

 琴平は、たまらずにその場から逃げ出した。


 川原まで駆け、桜の木の根元にうずくまって泣いた。それこそ獣のように声を上げて。

 早く戻って、母を守らないとと思うのに、動かない母といるのが怖かった。人々の嫌悪が吐き気をもよおす。


 誰も、琴平を救ってはくれないのだ。自分の身は自分で守るしかない。

 それでも、まだ子供の琴平にはそれが難しかった。泣いて、涙を木の下に全部捨てていけば、涙は枯れて強い自分になれるだろうか。


 おいおいと泣いていると、いきなり横っ腹を蹴り上げられた。あまりのことに、琴平は身動きもできずに吹き飛んだ。軽い体は高く上がり、強かに地面に打ちつけられた。


 背中を強く打ち、息が詰まった。泣いていたせいもあり、むせ返って涎と涙を垂れ流す。

 そんな琴平に無情な声が飛ぶ。


「うるせぇ上に汚ねぇ餓鬼がきだな」

「目障りだ。川に投げてやろうぜ」

「町が綺麗にならぁ。さ、掃除掃除」


 ぎゃはは、と下卑た笑い声が上がる。

 無宿人らしき三人の男だった。だらしなくはだけた着物の下に黄ばんださらしが見える。


 川は嫌だ。母のところに戻って、一緒にいなくては。一人だけ川を流れて母から遠ざかっていくなんて、嫌だ。


 この時、琴平は襟をつかんで吊るし上げられたが、足をばたつかせて抗った。そうしたら、平手で頬を張られた。


「このくずがっ」


 それでも、琴平は男たちを睨んだ。怖くなかったわけではないのに、怒りがそれを勝る。

 優しくない世で、獣のような者を相手に、うらみを持たずにいられるわけがなかった。もし川に投げ入れられたら、蛇になってこの男たちや長屋の連中の首を締めに行こう。必ずだ。


 琴平の柔らかな心は、母が作り上げた。だから、母がいなくなった途端に変わってしまったのだ。

 こうして、琴平もまたこの男たちのように世間を拗ねて生きるのか。

 だとしても、自分と母に優しくなかった世間ならば傷つけてもいいのではないのか。


 ギッと歯を食いしばった。

 ――この時、琴平を吊るし上げていた男の腕が強張る。


「子供相手に無体を致すな」


 凛と涼やかな声が割って入る。琴平はハッとして声の主を見遣った。


 まだ若く、少年と言って差し支えないが、腰には大小の刀を差している。

 艶やかな肌に精悍な顔立ち、何より意志の強そうな揺らぎのない目。無法者の淀んだ目とはまるで違った。蜻蛉玉とんぼだまのように煌めいている。


 そんな若侍が自分よりも逞しい男の手首をつかみ、手を下げさせた。


「なっ、なんだぁ」


 突然の闖入者に男たちは焦ったようだ。

 刀に恐れをなしたのか、この若侍の背景に怯んだのかはわからない。いかにも名のある家の子息だとわかる、薄青い絹の小袖に袴。もし怪我をさせて首が飛ぶのはどちらかと。


「若様っ」


 後ろから供侍が小走りでやってくる。男たちは琴平を放り出し、裾をからげて逃げた。

 放り出された琴平を若侍がとっさに受け止めてくれた。美しい着物が汚れるのも厭わず。魚のような血の臭いが、衣に焚き染めた香の匂いに紛れる。あたたかな腕の中だった。


「ひどい目に遭ったな。立てるか?」


 この世は悲惨なばかりと思い定めたその矢先、信じられないようなことが起こった。

 若侍は、受け止めた琴平を気遣いながらゆっくりと地面に下ろす。涙の跡が残る琴平の顔に手を当て、そっと微笑んだ。


「せっかく男として生まれついたからには、涙を拭いたら強くなれ」


 言われて嫌な心地はしなかった。そう思うことで強くなれるような気がした。

 だから、琴平は大きくうなずいた。


「よし、いい子だ」


 若侍はそう言ってくれた。こんな人がいるのだと、琴平は驚くばかりだ。

 この人に比べたら、長屋の連中なんて身なりも心も薄汚い。

 もう怖くない。帰れると思った。


「ありが、とう」


 礼を言うと、若侍は小さくうなずいた。


「よし、家まで送っていこう。母さんが待っているな」


 母さん。

 その言葉に、また涙が滲みそうになる。それを呑み込み、言った。


「かあさんは、もう……」


 その先を言えなかった。それだけで若侍は何かを察したようで、柳眉をひそめた。


「共に参ろう。私は市原いちはら虎之助とらのすけと申す。おぬしの名は?」

「琴平」

「では、琴平。行くぞ」


 ――この時、虎之助に出会わなければ、琴平の生き様は随分と違ったものになっていたのではないだろうか。

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