海に行きたい

紙の妖精さん

第1話

朝の光がまだ柔らかく、街が目を覚まし始める時間帯。諏実は、自転車のペダルを軽く踏みながら、心地よい風に髪を揺らす。目指す先は、小さなコーヒー豆屋さん。商住区画の向こうに、その店がぽつんと現れる。諏実のお気に入りで、店内にはいつも心地よい香りが漂う。ここのコーヒー豆は、彼女のお気に入りで、店内には気品のあるクラシックが流れている。


自転車の速度を緩めると、右手のバッグを肩に掛け直した。見上げれば、青く澄んだ空。少し冷たい風が、頬を心地よく撫でる。坂道はゆるやかに続き、ペダルがギシギシと音を立てた。途中で、近所の犬が元気よく吠え、通りすがりの人々がそれぞれに忙しそうに歩いている。


「今日も良い天気。」


独り言をつぶやきながら、店の前に到着すると、諏実は自転車を停め、息をついた。扉を開けると、コーヒーの豊かな香りがふわっと広がり、諏実の心も少しほっとする。店内にはあまり人がいなくて、いつも通り静かな空気が流れていた。カウンターには、店主の森石さんがコーヒーを淹れている姿が見える。彼の淹れるコーヒーは格別で、諏実も毎回その味に心を奪われていた。


「おはようございます、森石さん。」


諏実が声をかけると、店主はニコッと微笑んで振り向いた。


「おや、諏実さん、朝から元気だね。」


「はい、学校が休みなので、コーヒー豆を買いに来ました。」


諏実はにっこりと笑って、ショーケースの中に並ぶコーヒー豆を一つ一つ眺める。今日は少し贅沢して、深煎りの豆を選ぼうかと思っていた。口の中で広がる苦みが、最近の忙しさを少しでも忘れさせてくれるような気がして。


「今日はこれをお願いします。」


彼女は深煎りの豆を指さし、店主に微笑んだ。森石さんはその豆を手に取り、丁寧に計量して袋に入れ始める。諏実はその様子を眺めながら、心臓の鼓動が落ち着いていくのを感じた。普段は忙しなく過ごす日々の中で、こうした小さなひとときが、どれほどありがたく感じるか。


「ありがとう、いつも美味しいコーヒー豆を選んでくれて。」


「いえいえ、ここのコーヒーが一番だからですよ。」


袋を受け取ると、森石さんはさらに一言、温かい言葉を加えてくれる。


「今日は天気もいいし、外で飲んでみてはどうだい?」


諏実は少し考えてから、頷いた。


「いいですね。外で飲むと、また味が違って感じられるかもしれません。」


そうして、袋に入った新しいコーヒー豆を大切に自転車のカゴに入れ、店を出る。さっきの坂道を下りながら、しばしの間、自転車のタイヤが地面を軽やかに転がる音だけが響く。普段の忙しさに追われる日々の中で、こうしたゆっくりとした時間が貴重に感じる。


そのまま自転車を漕いで海の方へ向かう。心地よい風が頬を撫で、少し汗ばんだ肌に心地よく感じる。小さなカフェを通り過ぎて、しばらくすると広がる海が見えてくる。諏実はその景色を見ながら、胸が少し温かくなった。


「今日は、波、静かそう。」


諏実の独り言が静かな海風に溶ける。自転車を漕ぎ続けながら、諏実はふと未来のことを考えた。こんなふうに静かな朝を毎日過ごせたら――。そんな願いが、どこか遠くの水平線に浮かんで見えた。

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