深淵の水面 -Virtual Maenak- 五感の檻

中村卍天水

深淵の水面 -Virtual Maenak- 五感の檻

第一話:囁きの始まり


蒸し暑い空気が窓から染み込んでくる。チャオプラヤー川からの生暖かい風が、古びたアパートの薄いカーテンを揺らしていた。佐藤雅人は疲れ果てた体を引きずるようにしてベッドに横たわった。


三日間の徹夜開発。納期に追われる毎日に、彼の精神は限界を迎えていた。開発中のVRホラーゲームのデバッグに追われ、現実と仮想の境界が曖昧になりつつある。目を閉じれば、画面の中で彷徨う妖怪たちが瞼の裏で踊っているような錯覚。


「少し、休めば...」


深い眠りに落ちたい。そう願いながら横たわっていると、どこからともなく微かな声が聞こえてきた。まるで誰かが耳元で囁くような、しかし言葉にならない音。


「気のせいだ」


そう思おうとしても、声は消えない。むしろ、徐々に鮮明になっていく。女性の声。若くも年老いてもいない、年齢すら定かではない声が、耳の奥で反響する。


「誰か...いるのか?」


声の主を探そうと目を開けても、部屋には誰もいない。ただ、バンコクの夜の喧噪だけが窓の外から漏れ込んでくる。しかし、その声は確かにそこにあった。


一週間が過ぎても、声は消えなかった。むしろ、より鮮明に、より近くで響くようになった。時には作業中も、コードを書いている最中にも、その囁きは雅人の意識を掻き乱した。


同僚たちは彼の様子の変化に気付いていた。


「佐藤さん、大丈夫?」


「休んだ方がいいんじゃない?」


そんな声かけも、彼には遠い世界の出来事のように感じられた。


なぜなら、その声は、彼が作り上げたVRゲームの中の妖怪、メナークの声に似ていたから。タイの伝説に登録する水の精。美しい女性の姿で現れ、男たちを水中へと誘う存在。その声が、確かに彼の耳の中で響いていた。


夜が更けるにつれ、声はより鮮明に、より魅惑的になっていく。時には甘く、時には切なく、

そして時には底知れぬ深さを感じさせる声で、

雅人の意識を揺さぶり続けた。


「これは、疲れているからだ」


「仕事のストレスだ」


「幻聴に違いない」


そう自分に言い聞かせても、声は消えない。むしろ、その声に耳を傾けずにはいられない自分がいた。まるで、その声が何かを伝えようとしているかのように。


バンコクの夜は、いつもより深く、暗く感じられた。チャオプラヤー川からの風は、いつもより生暖かく、じめじめとしていた。そして、その声は、確実に彼の中で大きくなっていった。

これが、全ての始まりだった。



第二話:幻視の訪れ


声だけではなくなった。


それは、ある湿った夜から始まった。いつものように仕事を終え、疲れ切った体でアパートに戻った雅人の目に、それは映った。


薄暗い廊下の先。白い影が、かすかに揺れている。長い黒髪をたなびかせ、白い衣装に身を包んだ女性の姿。振り返ると、そこには誰もいない。だが、目を閉じれば、その姿は鮮明に浮かび上がる。


開発中のVRゲームの中のメナーク。その姿と、まるで重なるように見える。


「私のことを、知っているのね」


声が、より鮮明に響く。もはや幻聴とは思えないほどに、現実的な声。その声に導かれるように、雅人は自分の部屋へと足を進める。


扉を開けると、そこにも彼女はいた。窓際に立ち、夜景を見つめている姿。振り返ると、その顔は美しく、しかし人間離れした冷たさを持っていた。


「なぜ、私の姿を...」


言葉は途切れ、彼女の姿は消える。しかし、その存在は確かにそこにあった。空気中に漂う異質な雰囲気。水の匂いのような、しかし決して自然なものとは思えない香り。


一週間が過ぎ、幻視は日常となった。仕事中も、食事中も、そして眠ろうとする時も。彼女は常に、雅人の視界の端に存在していた。


時には廊下で。時にはエレベーターで。そして時には、自分の部屋の鏡に映る影として。


開発中のゲームは、着々と形になっていく。しかし、現実の世界で見る彼女の姿は、ゲームの中の存在よりもはるかにリアルに感じられた。


「私を、創ってくれたのね」


ある夜、彼女はそう言った。雅人の背後から囁くような声。振り返ると、そこには誰もいない。しかし、鏡には確かに映っている。彼の肩に手を置く白い影。


長い黒髪が、まるで水中で揺れるように、空気の中でたなびいていた。


「違う、君は...」


言葉を発しようとした時、彼女の姿は消えていた。残されたのは、水の匂いと、冷たい空気だけ。


夜が更けるにつれ、幻視の頻度は増していく。もはや、現実と幻想の境界が曖昧になっていた。開発中のゲームの画面に映るメナークの姿と、現実で見る彼女の姿が、重なり合い、そして混ざり合っていく。


バンコクの喧噪は、いつもより遠く感じられた。チャオプラヤー川の流れる音は、まるで彼女の囁きのように聞こえる。


そして雅人は気付いていなかった。自分が、少しずつ、彼女の世界に引き込まれていることに。



第三話:匂いの誘惑


それは、甘美な香りとして始まった。


深夜、コードを書き続ける雅人の鼻腔をくすぐる、どこか懐かしい、しかし得体の知れない香り。まるで、清らかな水の中に咲く花のような。しかし、その奥底には、底知れぬ深さを感じさせる何かが潜んでいた。


「この匂いは...」


振り返っても、部屋には誰もいない。しかし、その香りは確かにそこにあった。時には強く、時には微かに、しかし決して消えることなく。

それは、彼女の存在を主張するかのように。


開発作業は、予定より遅れ始めていた。画面に向かおうとしても、その香りに意識が奪われる。キーボードを打つ指先が、水に浸かったように重く感じられる。


「佐藤さん、体調悪そうだけど...」


同僚の心配の声も、もはや遠い世界の出来事のように感じられた。なぜなら、その香りは、彼の全てを包み込んでいたから。


夜、アパートに帰る道すがら。チャオプラヤー川からの風に、その香りが混ざっている。古いアパートの廊下を歩けば、湿った空気と共にその香りが漂う。


そして、部屋に入れば、より強く、より鮮明に。


「私の香りが、わかるでしょう?」


耳元で囁く声。振り返れば、そこには白い影。長い黒髪から、水のような香りが漂っている。

一週間が過ぎ、香りは彼の日常となった。食事の味も、水の味も、全てがその香りに支配されていく。まるで、彼の五感が、少しずつ彼女の世界に溶けていくように。


「もう逃げられないわ」


夜半、目覚めた時に聞こえる囁き。窓の外には、チャオプラヤー川の暗い流れ。そして、その水面に映る月明かりが、まるで彼女の微笑みのように見える。



第四話:触覚の深淵


夜が更けていく。


雅人のベッドに、見えない手が這い寄る。無数の指先が、彼の体を優しく、しかし確実に包み込んでいく。


冷たく、しかし不思議な温もりを感じる触感。まるで水の中で無数の手に包まれているような感覚。


「これは...」


声を発しようとしても、言葉が出ない。その感触は、徐々に強くなっていく。まるで、深い水の中へと引き込まれていくような感覚。


開発中のゲームの画面に映るメナーク。その姿が、現実の感覚と重なり合う。画面の中の存在が、確かに彼に触れている。


一週間が過ぎ、その感触は常態となった。仕事中も、食事中も、そして特に夜の時間に。見えない手が、彼の存在を確かめるように、体中を這い回る。


「私の手が、感じられるでしょう?」


耳元での囁きと共に、より鮮明な触感。背筋を這い上がる冷たい指先。首筋を撫でる水のような感触。


チャオプラヤー川の水音が、まるで彼女の吐息のように聞こえる。古いアパートの壁を伝う湿気が、彼女の存在を主張するかのよう。


そして、その感触は、より深く、より強く。



第五話:味覚の変容


喉の渇きが、彼を目覚めさせた。


深夜。手探りでグラスに水を注ぐ。しかし、その一口目から、彼は異変に気付く。


水は、まるで海のように塩辛く、そして底知れぬ深さを感じさせる味わいに変わっていた。


「これは...」


グラスを見つめる。透明な水。しかし、その味は、確実に変容していた。


一週間が過ぎ、全ての飲み物、全ての食べ物が、同じ運命を辿った。


コーヒーは濁った水の味に。


昼食のパッタイは、運河の水で煮られたかのような味に。


夕食の麺も、異質な水の味が支配していた。


「私の味が、わかるでしょう?」


耳元での囁きと共に、口の中に広がる水の味。まるで、チャオプラヤー川の水そのものを飲んでいるかのような感覚。


開発作業も、ままならない。画面に映るメナークの姿が、より鮮明に、より現実的に感じられる。そして、その度に口の中に広がる、異質な水の味。



第六話:最期の沈潜


会社を休み、アパートに籠もって一週間。


雅人の意識は、既に現実と幻想の境界を失っていた。


部屋の中は、まるで水の中のよう。壁を伝う湿気。床から立ち上る水蒸気。そして、至る所に存在する彼女の気配。


「もう、準備は出来たわ」


耳元で囁く声。振り返れば、そこには確かに彼女がいた。開発中のゲームのメナークとそっくりな、しかしより生々しい存在として。


バスルームからは、水の音。


浴槽には、既に水が満ちている。


「私の世界へ...」


その声に導かれるように、雅人は浴室へと足を進める。水面に映る月明かりが、まるで彼女の微笑みのように見える。


そして、静かに水の中へ。


三日後。


会社の同僚たちが、彼の安否を確認しにアパートを訪れた時。


古びたバスタブの中で、雅人は永遠の眠りについていた。


その表情は、まるで安らかな、そして幸せそうな微笑みを浮かべていたという。


水面には、長い黒髪が、ゆっくりと揺れていた。まるで誰かの髪のように。しかし、浴室には彼以外の人影はなく、ただ水面に映る満月の光だけが、その場面を静かに照らしていた。

警察の調書には、事故死と記された。過労による体調不良が原因の溺死。しかし、不可解な点もあった。


浴室の壁には、びっしりと書き込まれたプログラムのコードが。そして、その中に散りばめられた、タイ語で書かれた「メナーク」という文字。開発中だったVRゲームのデータは、全て消去されていた。


チャオプラヤー川の流れは、その日もいつもと変わらず、バンコクの街を静かに流れていた。そして時折、川面に白い影が映るという噂が、地域の人々の間で囁かれるようになった。


長い黒髪をたなびかせ、白い衣装に身を包んだ女性の姿。


しかし、振り返ると、そこには誰もいない。

ただ、かすかに聞こえる囁きだけが、夜の闇の中に溶けていく。


「また、新しい物語が始まるわ...」


[完]



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

深淵の水面 -Virtual Maenak- 五感の檻 中村卍天水 @lunashade

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画