『108と108』を読んで
ヨーダ=レイ
第1話
心底ガッカリした、というのが正直な感想である。
まず内容的には『ゴジラファイナルウォーズ』のプロットそのままで、作者の好みに合わない部分を大した創意工夫もないまま変えただけである。ファンによる二次創作なんてそんなものでもいいのだが、これはオマージュや換骨奪胎というのもおこがましい丸パクリでしかない。
FWをコケにする……もとい批判しようというのなら、劣化コピーでなくてFWを超えるものを作るくらいの気概を見せてほしいところである。しかし、『108と108』についてはそういった作家としての矜持というものは微塵も見受けられない。強い弱いとか情けないとか潔いとか、そういうマッチョな感覚にはやたらこだわるわりにご当人にはその手の潔さは欠片も無いようだ。
それから、『シン・ゴジラ』を愚鈍呼ばわりして細かなご都合主義を揶揄するわりには、かくいう自分は神だの観音だのの「奇跡」による強引かつ低レベルなご都合主義超展開(観音によるテレポート!久高島の香炉によるテレパシー、超能力で監視カメラを停止!科学で説明がつかない巨神の超パワー!そして邪念!!)をひたすら連発してゆくのはいったいどういうことなのだろう。
「神は奇跡を起こせるからこそ神なのであり、そこに理屈は不要である」というのも使いどころによっては展開に説得力を与える重要な演出テクニックではあるが、ここまで「奇跡」を連発してゆくと単にまともなストーリーを作れないだけじゃあないのかと思わずにいられない。
「そもそも何もかも科学で解明出来るほど世の中単純では無い。全てを科学で解明など結局科学の力で万物を支配したいという文明人の傲慢さに過ぎんのだよ」などという知ったような台詞が出てくるが、私に言わせれば科学というものをまるで理解していない世間知らずの世迷言である。たしかに何もかも科学で解明できるわけではないが、それは飽く迄も「現時点では」という前置きがつく話だ。わからないことを解明しようとする「姿勢」こそが科学の本質なのであり、現時点で解明できないからといって科学の不完全性を立証したことにはならない。その観点で言えば、科学の本質をはき違えた作者の主張は「諦め」であり、世界と向き合うことからの「逃げ」の姿勢と言わざるを得ないだろう。
気に食わないものを貶める描写には相変わらず力が入っているが、描写としてはケツの穴を舐めたり小便をかけたり裸にしたり権力に執着するバカ扱いしたり、上っ面を貶めるだけで中身がない。どういった意図でそういう内容にしているのか、現状読む限りだと「単に愚弄したいだけ」でしかなく、そこに政治や世相に対する真摯な批判精神は見当たらない。単にマヌケに書いて、バカにして、それでウケをとろうとしているだけにしか見えないのである。
まあそういうので「喜んでくれる」ような人たちに媚びることしか考えていないのだから当然なのだろうが、そういうウケ狙いノリ重視のヘタクソな道化みたいなスタンスで他の作品までどうこう抜かしたがるのはなんなのだろう。笑ってほしいんだろうか、鼻で。
またジャニーズの性暴力や自衛隊内の暴力事件に着想を得たと思われる性暴力描写を盛り込んでいるものの、楠木武のキャラクター性にはあまり合っていないのでまさに「取ってつけた」としか感じられなかった。
自衛隊の暴力事件はともかく、同性愛に絡んだ性暴力に関しては何の脈絡もない。「楠木武は歪んだマッチョイズムで弱い者いじめが好きだから、弱い者いじめの一環として性暴力を行なっているのだ」とこじつけることは可能ではあるものの、それは作者が嫌うオタクのロリコンとチャイルドマレスターを区別する理屈と同じである。
ちなみに今回は一ノ瀬由衣もレズビアンの同性愛者として描かれているが、男同士のゲイセクシャルやサディズム、マゾヒズムなら笑いものにしていいのだろうか。いずれも(ともすると消費の仕方が整っていて受け容れられやすいレズビアンよりも遥かに市民権の無い)性的マイノリティのはずだが。ゲイだのホモだのでウケがとれると思ってる中学生レベルの感性、まさに「配慮に欠けた」描写と言わざるを得ない。
しかもXで周りに吹聴しているところから推測すると、どうやらFWの尾崎を悪役にしたのは元ジャニーズの松岡昌宏さん起用を揶揄する意図があったようだ。ジャニーズの性暴力を言うなら、松岡さんもまた性暴力の被害者であったかもしれない可能性にはきっと微塵も思い至っていないのだろう。
そういえば『巨神聖戦記』との大きな違いとして『108と108』にはレズセックス、つまり「エロ描写」が存在する。
正直に言って、見るに堪えない。作者はどうせエロ用途じゃないからなどと見え透いた言い訳をするだろうが、それなら心情描写なり関係性なりいくらでも書きようがあろう。それをせずに陰毛だのティッシュだの、むしろ即物的で肉体的なエロ描写に突っ走ってるのは、その手の抽象的な描写を書く能力がないからに過ぎない。ここだけの話『巨神聖戦記』と『108と108』の作者が政治思想にかぶれてるのは、作家としての力量不足を誤魔化すためのものなんじゃないかとさえ思う。どうせエロ書くならちゃんと抜ける、実用性のあるエロを書けよ。
……と、まあ思うところを書こうとするほど酷評せざるを得ない『108と108』であるが、一番ガッカリしたのはそこではない。この程度にも満たない、それこそ読む価値すら無ければ記憶にも残らないようなつまらない作品なんていくらでもあるし、たかだかこの程度の小説ごときでわざわざ幻滅もしない。
『108と108』を読んだときガッカリしたのは、「この作者、ゴジラシリーズに飽きているんだろうな」と感じずにいられなかったことである。
たとえば『108と108』がFWの剽窃に成り下がったのも、おそらくはその根幹が前作『巨神聖戦記』の縮小再生産だからだろう。『巨神聖戦記』はFWやKOMをベースに、気に食わない作品へのヘイトを数珠つなぎにしてゆく構成だったが、その観点で見れば今回の『108と108』についてはFWの丸ごと焼き直し劣化コピーである。
そうなってしまったのはもしかして、「作者がゴジラシリーズに飽きた」ためではないだろうか。作者がゴジラシリーズに「飽きた」ためにそれらのゴジラ要素が『巨神聖戦記』から削ぎ落とされ、期せずして原型であるFWに回帰してしまったのではないか。以前にも増してご都合主義を連発しているのも「やる気が無いから」であり、ひいてはやはりゴジラシリーズへの思い入れが薄れてしまったからではないのか。
方向性はともかくゴジラシリーズへの思い入れや創意工夫がそれなりに見受けられた『巨神聖戦記』に対し、この『108と108』にはそういったものが微塵も感じられない。「同じことをくりかえすくらいなら死んでしまえ」とは芸術家の岡本太郎の言葉であるが、前と同じことを、それもより劣化した縮小再生産を延々と繰り返していて楽しいのだろうか。
いや、楽しいのだろう、きっと。
ゴジラシリーズへの思い入れも薄れているくせにこんなものを書いているのは、「それでちやほや持て囃してもらえるから」であろう。先鋭化して世の中から相手にされなくなり蛸壺カルト化した、狭い政治界隈の「お仲間」からチヤホヤされればそれで満足、そういうスタンスに変わってしまったのだろうな。
その謙虚さはある意味見習わなければならないものがあると思うし、それで次々と作品を産み出せる創作の好循環に入っているのだから作家としても羨ましい限りであるが、その結果生まれたのが『108と108』だと言うのなら一ファンとして悲しいと言わざるを得ない。
そう、ここだけの話、私は『巨神聖戦記』の作者のファンであった。かの『巨神聖戦記』を創り上げた作者にはある種の才能すら感じていたし、方向性はどうあれゴジラシリーズをこよなく愛し、彼なりの愛情でもって思索を深めているからこそ書いているのだと思っていた。
そんな作者の姿に私はあこがれを抱き、ファンですらあった。『巨神聖戦記』の完全版公開から早数年、レジェンダリーの新作は勿論のこと、マイナス・ワンやちびゴジラ、ゴジばん、レジェンダリーの連続ドラマなど多種多様なゴジラ作品が世に出てきている。それらを経てきたうえでこの作者が書く新作長編が果たしてどうなるのか、具体的にはどれだけ和製ゴジラをボロクソに貶す代物を出してくれるのか、心の底から楽しみにしていたのだ。
だから、そんな自分の素晴らしい才能に気づかないまま腐らせてしまった『巨神聖戦記』の作者にはもちろん、作者をそんなふうに堕落させてしまった政治界隈の連中に対し、私は心の底からガッカリするのである。
『108と108』を読んで ヨーダ=レイ @Yoda-Ray
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