氷魚の閑話休題
氷魚
友達以上恋人未満
友達以上恋人未満の定義とは何なのだろうか。よく議論されているテーマだと思う。ここから先は実話を踏まえて、友達以上恋人未満の定義について考えてみようと思う。
高校の時、私には友達以上恋人未満のような人がいた。大人になった今でも、あの時の思い出が煌めいて見える。あの思い出があったからこそ、今の私がいる。私を支えてくれるのだ。
彼は私の一つ上の先輩だった。部活も委員会も別だったが、不思議と波長が合って、彼と仲良くなった。彼、吉川大輔(ヨシカワ ダイスケ)とでもしよう。大輔は優しい人だった。友達が大事!という考えを持つ人だった。
優しくて頭もよく、スポーツ万能だったので、彼を好きな女の子は大勢いた。けれど、恋愛よりも友情を優先してしまう癖があったため、付き合ってもすぐに振られていた。
彼が振られるたびに、私は「友達優先な先輩が好きになる女の子が現れますよ」と慰めていた。
モテるけど、どこか残念な人。それが大輔という一人の人間だった。
大輔を纏う空気感が私は好きで、一緒にいると落ち着く。そんな人は二度と巡り会えないんじゃないかって思うくらい、大切で、心の底から尊敬していた。
大輔のことを、友達以上恋人未満だと認識した出来事があった。
確かに他の友達よりも長い間共に過ごしている。けれど、まだ友達の枠からは出ていなくて。
今だから話せるけれど、高校の時、痴漢されたことがあった。あまりにも忌まわしい体験だった。今でも、あの時のことを思い出してしまい、震えてしまう。登校中、痴漢されて、その場から逃げるように、私はいつものように大輔がいる待ち合わせ場所へ向かった。私を助けて!という気持ちの中で、彼はそこにいた。彼は高身長だったので、凛然とした佇まいで私を待っていた。
彼の姿を見た瞬間、張り詰めていた緊張と恐怖の糸がプツンと切れて、声をあげて泣いた。人前で泣くことのない私が、大輔の姿が見えた瞬間、安心して泣いたのだ。他の人なら、絶対泣かないと確信した。
大泣きする私を見て、困ったように眉を下げて、オロオロとする大輔の頼りなさも実は救われていたのだ。
大輔は何も言わず、何も聞かずに、ただ、震える私の肩を抱いてくれた。それがどれだけの救いになったか言葉にできない。
ああ。
この人は、友達以上で恋人未満なんだ、とふと思ったのを鮮明に覚えている。
「ありがとうございます、先輩」
「お、おお」
私が泣き止むのを見た大輔はいつもの調子で「今日、ラーメン食いに行くか」と言った。
「警察に行く?」
「先生に報告する?」
そんな心配の言葉よりも、何倍も何十倍も嬉しかった。いつもの態度で接することは簡単そうで、実は難しい。その難しいことをごく当たり前のようにやってのけるのが、大輔だった。
「はい!先輩の奢りですよね?」
涙を拭い、笑った。
「図々しいな!まぁ、いいけど(笑)」
髪の毛をぐしゃぐしゃにされた。彼の大きな手で、髪の毛をぐしゃぐしゃにされるのが何気に好きだった。
それから。
何かあるたびに、私はすぐに彼のところへ行き、愚痴や話を聞いてもらっていた。
友達と喧嘩して落ち込んでいた時。
大好きな人に振られて落ち込んでいた時。
大輔は余計な一言を言うこともなく、面倒くさそうな顔をすることもなく、じっと私の目をしっかり見据えてくれていた。
私という一人の人間として向き合ってくれた。
そう、いつだって、大輔は私のそばにいてくれた。そっと、泣く胸を貸してくれた。
「オレがいて良かったでしょ?」
ふざけて笑う彼の笑顔が大好きだった。
休みの日、インドアで家から出たくない私をいつも家まで来て、「美味いもの食べに行こうぜ」と外の世界に連れ出してくれたのも彼だった。
私の青春は大輔そのものだったかもしれない。
周りからは「絶対付き合ってたでしょ」と言われていたが、私たちは決してそんな関係ではなかった。一瞬たりとも、「好きだ」と繋がったことはなかった。
いつだったか、大輔にこう尋ねたことがあった。
「先輩」
「うん?」
「先輩にとって、私はどんな存在ですか?」
私の質問に大輔は「うーん、そうだな」としばらく考え込んだ後、なんか面白いことでも思いついたかのように口角を上げて、私を見た。
その眼差しは優しくて、くすぐったいと当時は感じていた。
「酸素、みたいなやつかな」
彼は理系だった。いかにも理系らしい答え。
一緒にいるのが当たり前で、何も特別なことじゃない。そんな意味が込められているのだと、彼は言った。
その言葉を噛み締めるかのように、何度も頷いていたのを覚えている。
嬉しかったのだ。私のことを“酸素”だと言ってくれて。
確かに他の人からしたら、私たちの関係は恋人関係に映るだろう。けれど、そんなことは決してなくて。
ただ、他の人には共有できない“何か”を共有できる唯一の人だった。今、見ている景色。時間。空気。その全てが混ざり合うみたいな関係だった。そう、お互いが「酸素」のようだった。
人間は「酸素」がないと生きていけない。そんな感覚を当時は強く感じていた。――今思えば、共依存に近かったのかもしれない。けれど、確かに彼は私の人生において、必要不可欠な人だったのだ。
彼と会わなくなったのは、彼が卒業して3年経った頃だった。
卒業式の日、私は泣いた。ひどい顔で泣いた。周りの視線とか全く気にせず、みっともなく泣いた。それくらい、大輔の存在が大きくなっていたのだ。彼は大泣きする私を見て、困ったように笑った。
「何だよー、そんなにオレが好きかー。氷魚」
いつものふざけた口調をこれからは身近で聞くことができないのかと思うと無性に寂しくなった。
「当たり前じゃないですか…」
「…嬉しいこと言ってくれるね。オレを慕う後輩ができるなんて思わなかったよ」
彼の逞しい腕に抱かれ、抱きしめてもらった。大輔の匂い、温もりを忘れてしまわぬように私も抱きしめ返した。
そして、私から体を離し、大輔は卒業証書を空に掲げ、大きく笑ったのだ。
「じゃ!氷魚!元気でな!」
「――はい。先輩もお元気で」
彼は私の元から去っていったのだ。最後まで太陽のような人だった。
最初は時々、食事に誘ってもらったり、買い物に誘ってもらったりしていたが、彼の仕事が忙しくなったのをきっかけに会わなくなった。
会わなくなって、3年が過ぎた。
そういうものだと、私は割り切ることができた。親友の真奈美には「冷たくない?そういうところも氷魚らしいけど」と言われたが、そういうものなのだ。
大人になった今、時々彼を思い出す。
彼は今、新境地で頑張っているという風の噂で聞いた。「今どうしてますか?」と連絡を取ることはしていない。
わざわざ連絡取らなくたって、彼は元気にしているって何となくわかるから。
気が向いた時に「美味いものでも食べに行こうぜ」って言ってくれればいい。
私と彼はそういう関係なのだ。
そして、そんな関係が何気に貴重で、大切なのだと社会人になって改めて思った。
ふと、通勤中、空を見上げた。雲一つないすがすがしい青空が広がっていた。つうっと、頬に何かが伝っていくのが分かった。
あの青空に自分の学生時代を見出した私は心の中で呟いたのだった。
――さようなら。
私の愛した二年間の青春。
さて、改めて友達以上恋人未満の定義とは何なのだろうか。これについては人それぞれの定義があるはずだ。
私の定義はこうだ。
“相手が自分の一部になってしまうほど、混ざり合った存在”
ではないだろうか。
まぁ、友達以上恋人未満は案外、呆気ない関係なものなんだと思う。
長い、長い人生の中で一瞬だけの青春。その青春を象徴しているかのような関係。大人になれば、他の人と出会い、学生時代の関係など薄れてしまうのだろう。
現に私は大輔と会わなくなった。彼には新しい場所で新しい人間関係ができているだろう。私もそうだ。寂しさを感じないと言えば、嘘になるけれど、嫌な寂しさではない。
それでいいじゃないか。
呆気なく関係が終わるから、あの思い出が煌めいていて、愛おしく思えるのだ。
友達以上恋人未満。
あなたにはそんな存在がいますか?
もしいたら、
その人を大切にしてください。
二度と巡り会えないかもしれない、そういう人は特に大切にしてください。
そして、
自分がされて嬉しかったことをしてあげてください。
一緒に過ごした時間はきっと、その人にとっても支えになっているはずだから。もう二度と会えなくなることになったとしても、確実にその人にとっては最高の思い出になるはずだから。
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