未練の幽霊

氷魚

未練の幽霊


「ねぇ、知ってる?図書室の噂」

「あー、うちの七不思議ってやつでしょ」

「そう!比較的新しくできたやつらしいんだけど、なんか他の七不思議とは違うんだって!」

「他と違う?」

「ふふ。なんと、恋のキューピッドになってくれる幽霊がいるんだってさ!!」

「まさか。幽霊がキューピッド?ないない」

「いや、ちゃんと最後まで聞いてよ!ある決まった本を発行順に取り出して、最後の7冊になった時、その7冊目のラストページに載っている文を唱えると幽霊が出てくるんだって」

「うわぁ、めんどくさいな」

「そこがいいんじゃん!」

「で、その決まった本は何か分かってるの?」

「いやぁ、それが誰も知らないんだよねぇ。やり方は知られているんだけど、それがどの本かは誰も知らないんだって」

「じゃ、無理ゲーじゃん」

「そうなんだよねぇ笑」


女子生徒の会話を聞きながら、「青春だなぁ」と微笑む教師、日日。

しかし、下校時間なのでさりげなく注意をした。「そろそろ帰りなさい」「はーい!」

カァカァと遠くから烏の鳴き声が聞こえてくる。先程の噂が気になり、日日は図書室へ入った。紙の匂いがふわっと鼻をかすった。誰もいない図書室の椅子に腰掛けた。


「…懐かしいな」


そう呟いた日日の顔はどこか悲しそうだった。青くて苦い思い出を巡るかのように、彼は目を閉じた。


『僕ね、図書室が好きなんだ。もっとみんなに利用してもらいたいから、こんなこと思いついたんだよ』


穏やかな口調でそう話す男の姿が目の裏に浮かんだ。彼は、本が大好きで時間さえあれば図書室に寄っては本を読んでいた。本を読む彼の横顔をそっと眺めるのが日日の日課だった。


『あのね、――――』


彼が言った言葉が思い出せない。重要なことを言われたような気がするが、そこだけ靄がかかって思い出せない。

日日は目を開けた。いつのまにか、夜になっていた。

ふと、窓から外を眺めると懐かしい人物がいた。目頭が熱くなり、日日は慌てて図書室から出る。玄関に向かうと既にその人物はいなくなっていた。

頭を振り、「ありえない」と思考をかき消した。だって、彼は18年前の今日、亡くなったのだから。日日に何も告げることなく、彼はたった15歳でこの世から去った。





図書室は1人で勉強するのにもってこいの場所だ。桃青は今日の授業のことを復習、予習するために何冊かの教科書を机の上に置く


そういえば、ここは幽霊が出る噂があったな。


廊下でそんな噂話をする女子生徒のことを思い出し、桃青は周りを見渡してみた。

ここの図書室は校舎の奥の方にあるので、やってくる生徒は少ない。やってきたとしてもおしゃべりするかサボるかのどっちかだ。

誰も近寄らない場所だからそんな噂が生まれたのだろう。

桃青は気を取り直して、復習をし始める。その時だった。本が捲られる音がしたのは。パラパラと穏やかな音が向こうから聞こえてきた。桃青の他にも生徒がいたのだろうか。それにしては気配がなかった。まぁ、勉強の邪魔をしないんならいいか。


「真面目だね、君は」


向こうの本棚から妙に色素が薄い少年が現れた。


「図書室で勉強する人なんて久しぶりに見たよ」


同い年だろうか。

桃青と同じ色のネクタイをしていた。


「久しぶりって、昔からいるみたいだな」


そう返事すると、少年はびっくりしたような顔でこちらを見てきた。

あ、嫌な予感がする。


「君、僕が見えるの?」


しまった。

この人、幽霊だったのか。


「初めてだよ!僕が見える人と会ったのは!」


随分とテンションが高い幽霊だな。

桃青は無視を決め込む。勉強したいんだ。幽霊とかどうでもいい。


「え、無視?」


幽霊らしくない言動が可笑しくて、桃青は思わず笑ってしまった。


「あの噂が本当だったとはな」


勉強していた手を止め、幽霊の方を見た。


「噂?」

「知らないのかよ」


そう言うと、幽霊は悲しそうだった。


「僕、ここから離れられないんだ」


地縛霊か。

桃青は頭を抱えた。関わりたくないけど、幽霊の悲しそうな顔を見たらなんとかしたくなった。


「地縛霊というのは、その場に何らかの未練があるから離れられないんだ。つまり、君はここ、図書室に何らかの未練を残したまま死んだってことだ」

「未練…」

「これ以上は巻き込まれたくないから、未練ってなんですかなんて聞かねえよ」


桃青は再び視線を教科書に向けた。パラパラと教科書をめぐる音だけが静閑な図書館に響く。誰いないはずの図書館には、色素の薄い幽霊がいた。それがこの学校の七不思議の正体なのかはまだ不明である。


「未練、か」


幽霊は小さな声でそう呟く。ちらり、と幽霊の方を見やる。彼は困ったように笑っていた。


「…まさか」


悪い予感がする。面倒くさそうに顔を歪めた桃青を見て、幽霊は申し訳なさそうに手を頭に置いた。


「未練、思い出せないんだよね」


このパターンかよ!!!


桃青は心の中でそう叫ぶ。これは巻き込まれ確定だな。


「じゃ、君は永遠にここから離れられないな」

「えっ、それじゃ悪霊になるんじゃ…」

「なんだ、それは知っているのか。ちっ」


「知ってるよ!もう!」と頬を膨らませて怒る幽霊に、桃青は椅子をより深く腰掛けた。うむ、どうしたものかと考える。


「まずは未練の前に、自分のことを思い出そう。このパターンじゃ、自分の名前は覚えてないんだろ」

「え、すごいな。なんで分かったの?」

「小説の世界ならこういう設定が多いからだ」


「小説…」とその言葉を繰り返す幽霊。大きな瞳がゆらゆらと揺れていた。桃青は「小説」がキーワードか、とその反応を見逃さなかった。


「ま、俺はめんどくさいからあとは自分で考えるんだな」


桃青はそう言い、再び勉強を始めた。沈黙に包まれた図書室はなんて心地よいのだろう。時刻はもう18時。部活動も終わり、大勢の生徒たちが帰る時間である。腕時計を見た桃青は欠伸をした。

いつの間にか隣に座っていた幽霊にびっくりする桃青は「何してんだよ!」と言った。

幽霊は「だって、未練が分からないんだもん」と可愛い子ぶっていた。


「知らん」


帰る支度を始める桃青の腰に縋る幽霊。ぞわっと鳥肌が立つ。幽霊に触れられるとこういう反応が出てしまうのも霊感がある所以である。


「やめろやめろ」

「お願い!!!僕の未練を一緒に探そうよ」

「嫌だって」


扉の開く音がした。扉を開けたのは、


「お、梵じゃないか」


現代文の教師、日日だった。彼は桃青のクラスも担当しており、生徒から「ひびちゃん」と呼ばれる人気のある先生である。本当は「ひび」と書いて「たちごり」と読むのだが。


「日日先生」

「今日も勉強か。偉いなー」


戸締まり確認をしながらそう言ってくる日日。彼ならあの噂を知っているかもしれない。


「あの先生」

「うん?」

「図書室の噂、知ってます?」

「あー、さっきもそこで女子生徒がそんな話してたよ」

「噂って昔からあったんですか?」

「いや、最近なんじゃないかな。俺がここに赴任してからだから、2.3年くらい前から噂が流れ始めたような気がするな」


噂が流行し始めたのは意外と最近のことだった。それも幽霊の正体を明かす重要な鍵になりそうだ。


「そうなんですね」

「そうそう。梵がそんな噂気にするなんて、珍しいな」


ちらりと幽霊がいた方に目を向けると、いつのまにか幽霊はいなくなっていた。


「…いや、純粋な疑問ですよ」

「そうか。でもさ、この噂なんかリアルだし、どこかで聞いたことがあるような気がするんだよな…」

「え、そうなんですか?」

「まぁ…」


言いづらそうにする日日に首を傾げながらも、「まぁ、俺はどうでもいいんですけどね」と答えた。


「梵らしいな。時間だから帰らないとダメだぞ」

「はは、分かりました」


帰る準備をする。しかし、どこに消えたんだ。幽霊。キョロキョロと周りを見渡してみるが、気配はない。ってなんで、俺がそんなこと気にしないといけないんだよ。

帰る準備を終えた桃青は戸締まり確認を終えた日日と一緒に図書室を後にした。

誰もいなくなったはずの図書室には本を捲る音がただ、響いていた。







桃青は今日も教室の隅っこで勉強していた。クラスメイトに彼の印象を聞けば、きっと10人中10人が「優等生」「影が薄い」と答えるだろう。あるいは「不気味」だとも。そんな桃青は昨日の出来事を思い出していた。

変わり者の幽霊。自分がなぜ死んだのか。なぜ図書室に留まるのか。名前も思い出せない。記憶喪失の幽霊。たまに見せる寂しげな表情が不思議と忘れられなかった。

そうしている間にホームルームのチャイムが鳴り、日日が入ってきた。どうやら担当の先生が風邪をひいてしまい、代わりに今日と明日の二日間は日日が代理としてこのクラスの 担当になるとのことだ。

クラスメイトの女子生徒は嬉しそうな顔を浮かべていた。優しくてイケメンだからそりゃ喜ぶだろう。

桃青はいつも通り真面目に授業を受ける。今日も何も変わらない日々、のはずだった。


「…今日は流石にいないよな?」


目の前の扉を開けるのを躊躇う桃青。


「今日こそは勉強したいからな…」


変わり者の幽霊がいないことを祈る。


勇気を出して、扉を開ける。


「おっ、昨日ぶりー!」


色素の薄い少年が手をヒラヒラさせてこちらをみていた。反射で思わず扉を閉めてしまった桃青は扉に額をぶつける。


…いた。

普通にいたな。


扉の向こうから「なんで閉めるの!?」と叫ぶ声が聞こえた。

再び扉を開ける。やはり変わり者の幽霊はいた。


「ええ、成仏してないのかよ」

「昨日の今日で、できるわけないじゃん!?」

「へーへー。俺としては早く成仏してくれる方が助かるんですがねぇ」


決まった席に腰をかけ、教科書を開く。


「協力してくれないの?」

「まずは自力で思い出す努力でもしろよ」

「そうだよね…」


そういって幽霊は図書室を冒険し始めた。

よし、やっと落ち着いて勉強できる。

沈黙が続く。この沈黙が心地よい。シャープペンの音、時計の音、本を捲る音。その全てが心地よかった。

しばらくして、彼が桃青のところに戻ってきた。


「…なんか見つけたか?」

「何も」


しょんぼりする幽霊を見て桃青はため息を吐いた。


「君、」

「君って言うのやめてくれないかな?」

「だって名前知らねーもん。……未練って呼ぶわ」

「ええ、なんか嫌だけど君って言われるよりはマシかなぁ」

「俺が思うには未練が死んだのは結構昔だと思う」

「なんで?」

「まず未練の制服が俺の制服と違うだろう」

「あ、たしかに」

「ネクタイの色で学年を分けるのは変わってないけど、ズボンが絶妙に違う。調べてみたら、未練の着ているデザインは15年前のものだ」

「え、そんな昔?」


未練はショックを受けていた。


「だから15年前後のアルバムを探してみたら行けるんじゃないか」

「頭いいね、君!」

「早く探せよ」


はいはい、とアルバムが収納されている棚へ向かう未練。

勉強もいいところまで終わったので仕方なく付き合うか、と桃青は立ち上がり未練の元へ向かう。


「一緒に探してくれるの?」

「気分転換に、だ」

「なんだかんだで優しいね、君は」

「無駄口はやめて探せよ」

「はいはい」


桃青はふとあることを思い出す。未練は昨日、日日が入ってきた途端にいなくなった。そこから推察して、日日と未練は同じ時期に在籍していたのではないのだろうか。

日日は今年で33歳だ。そう思い、18年前の卒業アルバムを探す。


「ビンゴ」


そこには若かりし頃の日日がいた。ページを捲る。


「…見つけた」


文化祭のページで“彼”を見つけた。昔からよく笑う人だったらしい。楽しそうに笑う未練がいた。


「名前は…」


未練の名前を探していく。


「“皇海莉”」


その名前に反応した未練が桃青の顔を見た。ひどく驚いていて、どこか悲しそうな顔をする未練に桃青はアルバムを見せた。


「見つけたぞ。これで未練の名前は判明したな」


アルバムをじっと見つめる彼。


「皇、海莉…。確かにそんな名前だったね、僕」

「とりあえず一歩前進だな」


桃青は再び席に戻り、教科書を読み始めた。じっとアルバムを見る未練。しばらくはそっとしておいた方がよさそうだな。


「ありがとね」

「あー、うん」

「名前を思い出せたのはいいけど、それ以外は何も」

「アルバム全部を見てもか?」

「うん。なんか、封印されているみたい」

「それは多分未練の気持ち次第なんじゃないか」

「気持ち?って名前で呼んでくれないんだ」


桃青は彼を見て、「俺にとって未練は“皇海莉”じゃなくて、未練の幽霊だからな」と答えた。


「ふふ。そっか。まぁ、いいけどね」

「気持ちが変わったら多分全て思い出せるはずだ。まぁ、急いでもいいことはないから焦らずにやっていけばいいんじゃねーの」


そう話す桃青の耳は赤くなっていた。それを見た未練は嬉しそうに微笑んだ。


「うん、ありがとう」


戸締まりの時間になり、桃青は帰りの準備をしていた。未練は窓から外を眺めている。


――そういえばこいつはここから離れられないんだった。誰もいない図書室にただ一人だけ残されるのはどんなに寂しくて辛いことだろうか。


「じゃ、帰るから」

「あ、うん。気をつけてね。また明日ね」


“また明日”


その言葉がひどく儚く聞こえたのは、彼がいつ消えるかも分からない未練の幽霊だからだろうか。


「あぁ。またな」


小さな声で返事すると、彼は嬉しそうにはにかんだ。







未練の名前が判明してから1週間がすぎた。まだ彼は記憶を取り戻せていない。

桃青はいつものように図書室で勉強に励む。


「なんかさ、頭の中に靄がかかっているみたいなんだよね」


「気持ち次第とは言ったけど、なんかきっかけがないとダメかもな」


日日をここに呼ぶか?いや、それはなんか嫌な予感がする。やめとくか。

勉強に励みながらも、どうするかと頭を悩ませる桃青。


「あ、誰か来る」


未練はそう言い、図書室準備室の中へと隠れていった。その直後に大きな音を立てて扉を開ける男がやってきた。その男を見た桃青は眉間に皺を寄せた。


「お、いた。桃青!」

「うるさい、伊月。この図書室」


桃青の幼馴染である伊月が現れた。柔道をやっており、体つきがでかい彼は何をするにも大きな音を出してしまう癖があった。

大雑把に椅子を引き、桃青の目の前に座る。


「さては課題忘れたな?」

「さすが。課題忘れてその倍の課題食らった!ってわけで教えて」


かかかっと豪快に笑う伊月にやれやれと言いながらも、彼の課題を見てあげた。


「っていうか放課後になると姿を消すなとは思っていたけど、ここにいたとはなー」

「誰も来ないから勉強するにはもってこいの場所だからな」

「本当に真面目だよな、お前」

「違う、勉強が好きなだけだ。集中しろ」

「へーへー」


そんな二人を物陰から見守っていた未練はこの光景を懐かしいと感じた。自分自身も誰かに勉強を教えていたような気がしたからだ。

面倒くさそうに勉強を教える桃青とそんな桃青を見て嬉しそうに笑う伊月。


「僕も誰かに勉強を教えていたのかな。こんな風に」


その呟きは図書室の沈黙に呑まれて消えた。


「っていうわけ」


一通り教え終えた桃青は体を伸ばした。ノートを手に取り、「おお!全部解けた!」と目を煌めかせた伊月。


「ありがとな!さすがは持つべき親友だな!」

「やかましい」

「怒られる前に退散するわ!」


伊月は図書室から出ていった。ようやく嵐が去った。


「うるさくして悪かったな」


物陰に隠れていた未練が姿を現した。なんとも言えない表情をする彼に、桃青は「どうした?」と尋ねる。


「なんかね、君たち二人を見てたら懐かしい気持ちになったんだよね」

「懐かしい?」

「うん。あぁ、僕もこんな風に勉強教えていたなって」


そう話す未練の横顔はどこか哀しそうで。


「僕はちゃんとここに存在していたんだって思い出せた」

「それはよかったな」


素っ気ない返事をする桃青に未練は笑う。ぶっきらぼうだけれど、優しい桃青を可愛く思う。


「うん」


今日も未練は自分のことを思い出すためにアルバムを眺めている。そんな彼をじっと見ている桃青。

未練の幽霊は18年ももの間ここに留まり続けた。誰も彼を見つけなかった。


「桃青くん」

「うん?」

「僕を見つけてくれてありがとね」


色素の薄い双眸を細めてお礼を告げる彼。好きで見つけたわけじゃない。偶然だ。たまたま俺に霊感あるだけで、未練を見つけたのは他の誰かだったのかもしれない。


それでも、


「どういたしまして」


こう答えるのが正解だと思った。


「さっきの子、幼馴染なんだ?」

「そうだな。家が隣同士で親も仲良いんだ」

「なんかいいね」

「そうか?あいつ、うるさいぞ」

「ははは」


未練と普通の会話をしているこの時間は何気に嫌いじゃない。彼は確かに桃青と同じ年齢でこの世を去ったかもしれない。けれど、たまに年上だと思わせる仕草や話し方に落ち着く時がある。

もし、未練が大人で教師だったら仲良くなれていたような気がする。――そんな一つの未来を想像していた自分に嘲笑した。

どうやら、俺は未練に絆されつつあるようだ。


「桃青くんはさ、良くも悪くも人に興味ないよね」


急にそんなことを言われ、桃青は顔を上げた。


「は?」

「普通さ、僕のこと聞くじゃん?」

「記憶ないのに?」

「いや、なんとなくさ対話してたら記憶取り戻せそうじゃない」

「確かに、そうかもしれない」


頬杖つく桃青。


「現に俺は未練のことは興味ない。なぜ幽霊になって、ここに留まり続けているか、その理由もどうでもいい。でもな、こうして関わった以上、協力はしないとダメだろ。だから、少し協力してるだけだ。それに前も言ったけど、自分のことは自力で思い出さないとダメだと俺は思う。そこにはきっと、他者にはわからない事情があるだろうから他者が干渉するのは良くないんだと俺は思ってるからな」


未練の方を見向きもしないで、淡々とそう話す桃青に未練は笑う。

あぁ、きっと僕はこの子に記憶を思い出すお手伝いをしてほしかったんだ。だから、あの日、たった一人で勉強をする君に声をかけた。

初めて僕を認識した君の顔は普段大人びている姿からは想像できないくらい間抜けな顔をしていた。それがとても可愛くて笑ってしまったのは、ここだけの話。


「そっか。一理あるね」


そう言い、未練は勉強を再開した桃青の前に座り、彼を見守る。やがて、彼の手が止まった。なんだろうと、彼の手元に覗き込むと、懐かしいものを見つけた。


「…作文?」

「あぁ、課題」

「なんか嫌そうな顔してるね」


桃青は唇を尖らせた。初めて見せた表情に未練は目を見開く。


「苦手なんだよ…」






消え入りそうな声でそう呟いた桃青の顔は赤くなっていた。


「…何驚いてるんだよ」

「あ、いや、桃青くんにも苦手なものがあったんだなーって」

「なんだそりゃ。言っとくけどね、完璧な人間なんているわけないだろ」

「それもそうだね」


くすくすと笑う未練。恥ずかしくなった桃青は、作文を隠そうとする。しかし、未練の手によって阻まされた。

二人の間に気まずい空気が漂う。


 「僕、多分だけど力になれるよ」

 「は?」

 「僕、作文得意なんだ」

赤いボールペンをヒラヒラさせながら、ニコッと未練は笑った。ニコッという音が聞こえたような気がした。


「お手伝いしようか?」

「ちっ」

「舌打ちしない」


桃青は渋々と自分の書いた作文を未練に渡す。彼は不機嫌そうに窓から外を眺めている。


「…なるほど。人との関わりをテーマにして書いてるんだね」

「まぁな」

「確かに人との関わりほどめんどくさいことはないよね笑他人に干渉しない君だからこそ、客観的に書かれてる。でも、もう少しここ工夫した方がいいと思うよ」


未練のしっかりとしたコメントに桃青は彼が、文系であり書くことに長けていたのではないかと推察した。


「じゃぁ、俺に作文の書き方を教えてくれるか?」


未練は大きく頷き、「僕でよければ」と笑った。

的の得たアドバイスをする未練。彼の口から紡がされる言葉はどれも美しいものだった。そこから、もしかしたら彼は小説家だったのかもしれない。

ふと図書室の噂を思い出す。


『ある決まった本を発行順に取り出して、最後の7冊になった時、その7冊目のラストページに載っている文を唱えると幽霊が出てくる』


この噂に桃青はある三つの疑問を抱いていた。まず、この噂は誰が流したのか。なぜ、7冊なのか。――そして、その本の筆者は誰なのか。


「なぁ」

「うん?」


桃青の作文を添削しながら返事をする未練。未練の綺麗な字がそこにはあった。


「ここの噂、知ってるか?」


未練の手が止まる。その反応からしてどうやら知っているらしい。初めて会った時は知らないような素振りを見せていたのに。やはり記憶を取り戻しつつあるらしい。


時刻はもう夜の18時。部活を終えた生徒たちが次から次へと帰っていく。


「…噂?」

「俺は信じてないんだけど、まぁ気になることがあって」

「何が気になるの?」

「うーん。この噂は決まった本を7冊借りると幽霊が現れるっていうやつなんだけど、なんで7冊なんだ?」


未練は何も言わない。


「そもそも誰がこの噂流したのか。ある人によると、噂が流れ出したのは3年前らしい。誰がなんのためにこの噂を流したのか」


カリカリと添削する音だけが響く。


「その本は誰が書いたものなのか」


桃青の凛々しい眼差しに見つめられ、未練は手を止めた。


「…本当は少し、自分のこと思い出してるんだろ?」


彼は何も言わない。


「まぁいいや。…俺の作文、めっちゃ真っ赤じゃん」


桃青はおかしそうに笑った。初めて見る年相応の笑顔に、未練は胸が苦しくなった。この子は僕のことを干渉してこないから、甘えていた。君は清廉だ。誰も汚すことのできない清廉な魂。そう言えば、君は「何言ってるんだ?気持ち悪いな」とドン引きするだろう。


「あまりにも酷いから厳しく添削させてもらったよ」

「作文は本当に苦手なんだよ」

「君は自分の思いを言葉にするのが苦手なだけだよ。きっと」


君に出会ってから、少しずつ記憶を取り戻しつつあった。僕が何者で、なぜ、ここに留まっているのか。


「言葉って難しいよな」

「そうだね」

「だからこそ、言葉を自由自在に操る小説家とかすごいと思うし尊敬している」


桃青の言葉に未練は泣きそうになった。もう話そう。この子とは秘密を作りたくない。


「あのね、僕ね」

「うん?」


桃青にじっと見つめられ、あることに気がつく。なぜ桃青に全てを見透かされているような気がするのは、きっと桃青の瞳の色が透き通るような青色をした瞳だからだろう。


「小説書いてたんだよ」


未練の口から秘密が溢れた。彼は生前、小説を書いていたという。しかもそれを業としていた。


「そうか」

「さっき、君が言ってた疑問、答えるね」


未練は深く息をして、ゆっくりと息を吐いた。


「僕は小説家だった」








未練の口から溢れた真実に、桃青は「うん」と頷いた。大袈裟な反応をすることなく、静かに真実を受け入れた桃青。


「ここの噂、僕が書いた本のことだよ」


すとん、と胸に落ちたのが分かった。2.3年前から流行り出した図書室の噂。その噂が生まれた背景には、きっと、


「僕の想いを伝えたかった人がいたんだ」


そう話す未練の顔は、ひどく淋しそうで。今にも消えてしまいそうな、そんな表情をしていた。


「僕は18年前に死んだ。…病気だったんだ」


未練の声は震えていた。


「どうせ死ぬなら、今まで隠してきた想いを本に乗せて伝えようって思った」


そうか。

未練はただ、恋をしていたんだ。


「あの人は僕が小説家だと知る唯一の人だった。あの人だけが分かる方法で伝えたかった。それが、本だった」


噂が生まれた背景には、ただ、好きな人に愛の告白をしたいという純粋な想いが存在していた。


「僕は6冊の小説を執筆した。そして、死ぬ直前までに書いていた7冊目がある。その本をあの人に読んでもらいたかった。ただ、それだけだった」


噂は他の誰でもない、未練自身が流したのだ。好きな人に気づいてもらうために。


「でも、待つのに18年は長すぎた。いつの間にか、僕の記憶は失われていって」


彼は18年間も待ち続けていた。想い人が再び、目の前に現れるのを。待ち続けて、やがて、なぜ自分がここにいるのかも見失ってしまった。


「そんな時、君が現れた」


未練は桃青の頬にそっと触れた。ひんやりと冷たい感覚が頬に伝わってくる。


「君は僕を見つけてくれた。僕の記憶を取り戻してくれた」


俺は何もしていない。放課後、ここで何気ない会話をしていただけに過ぎない。それでも彼は感謝していると言った。


「僕は小説家だからさ、“運命”だなんて言葉を使うんだけれど、まさにそうだと思ったんだよ。君との出会いは“運命”だ」


直球な物言いをする未練に、桃青は照れくさそうに髪をかいた。


「でも、もう想いを伝えるのは無理かなぁ」

「え」


思わず声を出してしまった。


「なんで?」

「あの人は噂の真意に気づいていないようだし、もしも、噂に気付いたとしてもあの人と話すことはできないでしょ」


だから、諦めるという彼に桃青は胸が痛くなった。やっと記憶を取り戻したのに、想いを告げることをしないなんて、それは悲しいことなんじゃないかと心の底から思ったから。


「成仏、できなくなるぞ」


この時の俺はどんな顔をしていたのだろう。俺を見る未練の顔は、困ったような顔をしていた。まるで、わがままを言う我が子を見ているみたいな、そんな顔をしていた。


「あはは。そうだね。君の守護霊になるのも悪くはないかもね」

「…それはなんか嫌だ」

「ひどいなぁ」



目を細めて笑う未練の瞳に涙が浮かべているのを、桃青は然りと見た。

その日の夜、桃青は眠れなかった。神経が尖っているみたいで目が冴え渡っていた。

未練から聞かされた真実を頭の中で反芻させる。彼は18年間も待ち続けていた。自分の想いが好きな人に伝わるのを。


その手段が小説だった。想い人にしかわからないメッセージを彼は込めたつもりだったのだろう。しかし、その噂は時間が経つにつれて婉曲され、やがては「恋のキューピッド」という恋愛成就の全く別のものになってしまった。

このままだと未練は成仏できないし、俺自身も納得が行かなかった。巻き込まれた上、未練の行く末を見届ける義務があると感じていたのだ。


桃青は布団から起き上がり、窓を開けた。隣に暮らしている伊月の窓をそっと叩く。明かりがつき、伊月は桃青のノックに応えた。


「どうした、眠れないのか?」


夜中に起こされたというのに、決して嫌な顔を見せない伊月に胸がぎゅとした。


「起こしてごめん。あの、お願いしたいことがあるんだ」

「桃青がオレにお願い事するなんて、久しぶりだな。嬉しいよ。オレはお前のためならなんでもやるよ」


優しく笑う伊月。


「あのね―――」



めったにお願い事をしない桃青から変わったお願い事を聞いた伊月は目を大きく見開いた。目の前にいる綺麗な顔をした幼馴染は顔を赤くしながら、こちらを見ていた。懇願するような眼差しで見つめられると、断れない。

生まれつき、透き通るような青い瞳をした桃青はその瞳のせいで、辛い想いをしてきたのを伊月は知っている。全てを見透かしているような眼差しで周りを観察する桃青を周りは不気味だと蔑んだ。きっと、当時の大人たちは桃青に対して畏怖の感情を抱えていたんだと思う。


『ばけものだ』


時にはそんなふうに虐げられた。それがきっかけなのか、桃青は人と関わることをやめた。必要最低限にしか人とコミュニケーションを取らなくなった。幼馴染である伊月でさえも。

そんな桃青が人と関わり、その人を助けたいと願った。ならオレが断る理由はない。


「分かった」


力強く頷く伊月に桃青は安堵の息を漏らした。


「理由は聞かないんだな」

「聞かなくてもわかるよ。誰かを助けたいんだろ?」


なんでも分かっている幼馴染に敵わないな、と桃青は小さく、小さく笑った。


「頼んだよ」

「まかせろ」


自信満々にそう答えた伊月に桃青は嬉しそうにはにかむ。その笑顔が見たくて、色々馬鹿やっていたことは伊月だけの秘密である。




今日の校内見回り担当は日日である。時刻は放課後の16時。部活に入部していない生徒が残っていないか、見回りをしていた。彼は旧校舎の図書室にて、珍しい人物を見つける。


「珍しいな、津雲」

「たまには本を読んでみようかなと」

「部活はお休みか?」

「はい。久しぶりの休みなので」

「そうかそうか」


伊月は桃青からの頼み事を思い出す。


『明日、“KAIRI”っていうペンネームの小説を探して欲しい。全部で7冊あるはず。俺もやることが終わったら、そっちに行く』


その名前を探すために一冊ずつ本を見ていく。


「何を探してるんだ?」


日日の問いかけに伊月は「うーん、簡単にいうと18年前の忘れ物、っすかね」と笑って答えた。


『18年前にその本が生まれたんだ。詳しいことは言えないけど、絶対に見つけてあげたいんだ』


桃青が力強くそう言うものだから、伊月はその通りにするしかない。


「18年前…の忘れ物?」


伊月の言葉を繰り返す日日。何か心当たりでもあるのだろうか。


「え、どうしたんすか?」

「いや、実は俺はここの卒業生なんだよ」

「そうなんすか」

「そう。15年前に卒業したから、思わず反応しちゃったな」


それは初耳だな、と伊月は「ふーん」と相槌をうった。

ガラッとドアが開く音がした。


「伊月と日日先生」


桃青であった。


「お、梵か」

「お疲れ様です」


桃青が日日のところに行っている間、伊月は引き続き本探しを進める。


「日日先生」

「うん?」


桃青は真っ直ぐな、力強い眼差しで日日を見つめている。


「なんで教師になったんですか?」


その問いかけに日日は一瞬だけ、肩を揺らした。まるで、教師になった理由を桃青が知っているように思えたからだ。


「探してるんだ。宝物を」


日日の口から溢れた答えは桃青を納得させた。


「そうですか」


桃青はそっと微笑んだ。


「宝物…きっと見つかりますよ」


優しく笑う桃青に伊月は、“KAIRI”が日日の宝物なのだと察した。桃青はその宝物を日日に見せてやりたいのだ。


ならば、オレがやることはただ一つ。


“KAIRI”の本を見つけ出すことだ。


「ありがとうな。俺はそろそろ他の見回りに行くから、君たちも早めに帰りなね」

「はい」


日日が図書室から出ていった後も、二人は懸命に本を探していた。

しばらくして、伊月が大きな声を上げた。


「見つけた!」


声がするところへ向かうと、埃まみれになっている伊月がいい笑顔で7冊の本を持っていた。表紙を確認すると、『KAIRI』と書かれてあった。


ようやく見つけた。


「ありがとう、伊月」

「ん?どういたしまして!」


桃青は笑った。心の底から笑っている桃青を見て、伊月も嬉しそうに笑った。

机の上に本を並べていく。確か、発行順で取り出すんだったな。

伊月と一緒に本を並べ替えると、ある真実が見えてくる。その真実に桃青は涙が出そうになったが、必死にこらえる。


「よし、次はこの本を探しやすい棚にしまうんだ」

「え、せっかく見つけたのにまたしまうのか?」

「うん。この本はある人だけが読むべきだからだ」

「そうか。桃青がそう言うなら」


桃青のいう場所に本をしまっていく伊月。


「全部しまったぞ」

「ありがとう。これで俺たちの仕事は終わりだ」


椅子に腰かけ、一息ついて桃青は決意の眼差しをした。

俺ができるのはここまでだ。後はあの二人次第だ。





「うん?」


日日が見回りから戻ると、机の上に置かれた一枚の手紙を目にした。名前は書かれていない。一体、誰がこの手紙を書いたのだろう。

手紙を読むと、驚くべき内容がそこには書かれてあった。


『噂の真実を教えます。明日の16時、旧校舎の図書室に来てください。あなたなら、何をすべきか分かっているはずです』


パソコンで印刷されたものなので、誰が買いたのかはわからなかった。ただ、この手紙を書き残した人物はきっと、日日の過去を知っているに違いない。

日日は椅子に腰かけ、目を閉じた。


自分がこの学校に赴任してきたのは運命だと思った。15年前に卒業した高校に教師として戻ってくるとは思わなかった。…いや、それは嘘だ。俺は何かに導かれるように、この学校に戻ってきたのだ。


「お前が呼んだのか?」


今は亡き友人を思い出す。

あいつは俺にとって、大事な人だった。あいつは俺と一緒に卒業すると思っていた。卒業後も隣にいると、信じて疑わなかった。でも…。


スマホの画面が光った。目を向けると、明日の予定が通知されていた。その通知内容を見て、「そうか」と呟いた。


「明日は命日だったな」


タイミングが良すぎる。本当に呼ばれたかのように思ってしまった。


「…そんなわけないか」


日日は微笑した後、手紙をそっと引き出しにしまったのだった。





図書室のドア前に立っている桃青は一つ深呼吸をした。ドアの向こうにいるであろう彼にあることを告げるために―――。


ドアを開ける。


「あ、桃青くん」


いつものように柔らかい微笑みを浮かべる未練の幽霊がそこにはいた。

胸がぎゅ、と苦しくなった。


「どうしたの?いつもに増して険しい顔して」


未練は桃青の眉間の皺を指した。


「そろそろお別れだ」

「…え」


今日は未練の命日だ。周りに知られている命日とは違い、未練の幽霊が生まれた日でもある。未練は今日、未練の幽霊となったのだ。だからこそ、成仏しなければならない。しなければ、悪霊となり、この世に留まり続けるだろう。


「どういう意味?」

「未練は記憶を取り戻した。だから、この世に留まる理由もないはず」

「あ、そうだね…」

「お前が最後に執筆した本も見つけた」


未練は驚愕の色を見せた。


「でも、読んでいない。あの本はある人が読むべき本だからだ」

「……」

「俺は今日、お前に別れを告げなければならない」

「―――桃青くん」


桃青は未練と向き合うようにして立つ。


「…お前の未練はなんだ?」


桃青がそう尋ねると、彼は一筋の涙を流した。―――なんて綺麗な涙を流すのだろうと思った。


「生きたかった…。生きて、あの人にこの思いを伝えたかった」

「あの人というのは日日先生のことだよね」


彼はゆっくり頷いた。そして、桃青の頬にそっと手を触れた。


「気づいていたんだ」

「まぁな」

「さすが、桃青くんだなぁ」


目の前で幽霊が泣いている。


「でも日日くんは僕の姿が見えない…」


だんだんと声が小さくなってゆく幽霊。


「日日先生って、未練が書いた本を知ってるんだよな?」

「うん」

「先生にさ、噂通りの手順で本を探して貰えば、未練は姿を見せることができるかもしれない」

「え、そうなの?」

「あくまでも可能性の一つだ。…幽霊がこの世に留まる理由は大きく分けて3つある」

「3つ?」

「1つは未練があって、あの世に行けないから。2つは死んでいることに気がつかないまま、ここに留まっているから」


真っ直ぐと未練の眼差しをじっと見つめている。凛々しく、力強い目だった。


「3つは愛する者がこの世にいるから。そして、愛する者に呼ばれたから」


その言葉に未練の大きな眼差しから涙が零れ落ちる。その涙は誰のために流しているのか。それは言うまでもない。


「それって…僕は春人くんに呼ばれたってこと?」

「お前がそう思うんならそうなんだろう」


未練ははにかんだ。


「うん。君はいつも正しい。だから、そうなんだろうね」

「―――先生に別れを告げるか?」


桃青の真っ直ぐな青い瞳で見つめられ、未練は静かに頷いた。


「そうだね。そろそろお別れしなくちゃね」


未練は図書室を見渡した。好きな場所。好きな本の匂い。静寂な世界が広がっている。窓から部活動に勤しむ生徒たちの掛け声が聞こえてくる。


未練の小さな背中を見つめる桃青。


「昨日、先生の机に書き残しを置いといた」

「え?」


先ほど桃青が述べた仮説に自信があったのか、すでに準備はしていた。用意周到な桃青に思わず笑ってしまった。

そうだったね。君は根拠があったから、こうして僕が春人くんと会えるための準備をしてくれていたんだね。


「あともう少しで先生が来るはずだ」

「そっか」

「俺ができるのはここまでだ。あとは未練次第だ」


この物語の主人公は俺じゃない。未練だ。


「――桃青くん」


穏やかな声で名前を呼ばれ、桃青は「うん?」と頷いた。


「僕ね、新しい夢を見つけたんだ」

「新しい夢?」

「僕は小説家のくせに、夢は見ないし、ロマンチストでもないんだよ」

「へぇ、それは知らなかったな」

「ふふ。でもね、君と出会って、願ってしまったんだよ。君の物語を書きたいって」


桃青は目を大きく見開いた。未練はそんな彼を優しい眼差しで見つめている。


「君のことだから、主人公は僕だって思ってるんでしょ」

「…ははっ」


眉間にシワを寄せて、苦しそうに笑う桃青を見て、未練は言葉を続けた。


「『真実の瞳』って言うタイトルで君の物語を書きたい。君の瞳はいつだって真実だけを見つめている。君はこれからもその瞳で、みんなが隠してる悲しみや辛さを見つけ出し、救うんだよ。僕を救ってくれたみたいに」

「お前はイレギュラーだった。今後はこういうことはもうしないからな」

「ううん。君は絶対人を助けるよ」


確信めいた瞳で桃青を見つめる未練。


「君のそばで君の活躍を見守って、小説を書く。それが、僕の新しい夢だ」

「――そうか」


桃青は力強く頷いてから、こう告げた。


「なら、来世でもまた会おう。その時はかっこいい俺の姿をお前の文字で紡ぎ出してくれよ」

「うん。任せて」


時計を見ると、時刻はもう16時前になっていた。そろそろ、日日が来る時間だ。振り返った桃青は未練に最後の挨拶をした。


「じゃあな、”未練の幽霊”」

「うん。じゃあね、桃青くん」






桃青は図書室から出ていった。1人残された未練は、深呼吸をした。

ガラッとドアが開く音がした。その音がした方に振り返る。

日日が入ってきた。歳はとったが、あの頃の面影が見える。未練は泣きそうになった。

日日はあの噂の手順通りに、未練の本を発行順の順番で取り出していく。

最後の7冊目を取り出した日日はタイトルを見て、目を見開く。

これが未練の遺作であるとわかったからだ。


『未練の幽霊』


パラリとページをめくった。1ページずつ、丁寧にめくっていく。海莉の美しい文体が綴られていた。懐かしさと愛おしさで、日日は目頭が熱くなった。

静かに物語を読み進める日日の背中を見守る未練。図書室には2人しかいない。まるで、世界にたった2人だけが取り残されたみたいに。

日日は読み進め、ようやく物語は終盤へとさしかかった。日日はラストページをめくった。そして、そこに書かれている告白の言葉を目にして、日日は涙を溢した。溢しながらもその言葉をそっと口にした。会えるかもしれない、という願いを込めて。


「未練の幽霊は涙を流しながら、声を絞り出すかのようにして笑った。愛してる、と…。」


日日からその言葉を聞き届けた未練は、涙が溢れ出した。15年間待ち続けた。春人くんを。


ようやく、僕の想いを告げることができる。そして、お別れだね。


未練は声を絞り出すかのようにして笑った。


日日はその時、確かに聞いたのだ。


海莉の穏やかで優しい声を。


図書室全体を包み込んで、


「やっと届いた。―――愛してる」


やがて、その声は図書室の奥に吸い込まれて消えていった。あれから、二度と彼の声を聞くことはなかった。


「俺も愛してるよ。海莉」


日日はそう言って、愛おしそうに目を細めた。いつの間にか本は元の棚に片付けられていた。






数日後。


「そういえば、図書室の噂聞かなくなったよね」

「あー、たしかに!なんでだろう?」

「うーん。次の学校に行ったんじゃない?恋のキューピッド」

「気分屋かよ(笑)」


そんな生徒の会話を聞きながら、日日は微笑んだ。その噂の真実を知っているからである。


「日日先生」


桃青に話しかけられ、日日は振り返る。


「ん?」

「彼は…未練の幽霊は先生に思いを伝えましたか?」


その問いかけに日日は目を大きく見開いたが、すぐに「あぁ」と笑って答えた。

「なぜ未練の幽霊知っているのか?」と問いはしなかった。なぜなら桃青の顔そのものが答えだったからだ。


「――そうですか」


桃青は目を細め、口角を上げ、満足したかのような表情を浮かべた後、礼儀正しくお辞儀をした。すれ違う時、日日からかすかな本の匂いがした。桃青はその匂いを“未練”に見出すと、微笑した。


あの匂いと同じだ。


『僕ね、君といる時間が何気に楽しかったんだよね』


楽しそうに笑う幽霊の彼。


数ヶ月、彼と過ごした時間が桃青にとってどれほど幸せなものであったか、言葉で表すことはできない。

普段から俯き気味であった桃青は日日とすれ違った後、顔を上げた。凛々しい眼差しはじっと前だけを見つめている。黒色のカラコンをつけていたはずの双眸は海のようにキラキラと煌めいていた。


――未練の幽霊はもういない。


桃青はそう心の中で呟いた。


これで未練の幽霊が書いた物語はおしまい。めでだし、めでたし。

 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

未練の幽霊 氷魚 @Koorisakana

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ