禍津百怪
ラルト
全ての始まり
「お~い!ミトちんっ!カッちゃんっ!」
つい先日両親が百均で買ってくれた真新しい虫取り網を今は虚空に向けて振りながら一緒に虫取りに来たはずの友達の名を呼ぶ。アイツ等まさかオレを置いて帰っちゃったのかよ。
頭上は青々と繁った木々の葉に覆われて空の様子は伺いづらいが、僅かに差し込む陽光の明るさと向きからしてもうすぐ夕方だろう。そういえばさっきまではミンミンゼミの鳴き声がよく聴こえていたのがいつの間にかヒグラシのそれに変わってしまっている。
友達とはぐれてしまったのは明白だが小学三年生になった
折角夏休みは仲良しの三人で遊びまくろうと約束したのに、これじゃ台無しだ。
ムシャクシャしながら乱暴に虫取り網を振り回したら何かに当たり、プラスチック製の虫取り網は半ばでくの字に折れてしまった。
こういうのを泣きっ面に蜂って言うんだっけな、と適当にめくった国語の教科書の内容を思い出しながら虫取り網が当たった方向へ目を向ける。どうせそこらに生えてる木の一本にでも当たったのだろうと、それなら憂さ晴らしに一発蹴りでも入れてやろうと、そう思いながら目を向けた先で……
オレはソレが何なのか一瞬分からなかった。
まず目についたのはとても大きくて薄っすらと産毛に覆われた真っ黒い
よくよく見れば関節の数や位置もチグハグなそれらの脚をグググググ…と重く低く軋ませながら振り向くことでソレの
しかし、人間と決定的に違う部分もある。それは眼窩に収まる眼が一切の感情を映し出さない昆虫特有の漆黒の複眼であることと、額からその巨体の半分まで届く長くて太い触角が生えていること。
ようやく判明したその全容をやや無理やり自分の常識や記憶に当てはめるならば、ソレは所々歪なれど全体的には
「ヒッ………ッ!」
首を擡げこちらを見下ろす巨大な異形の蟲と目が在った瞬間、オレは喉奥から一瞬、音にならない小さな悲鳴を上げた。
僅かな風と共に吐き出された、小さくて無様な音は山の空気に一瞬で溶け消えて、両者の時が少しの間止まった。頭の中を鈴の鳴るような音が響き渡る。
そもそもコイツはなんなんだ…?!一体いつからここにいたんだ?!いくら木々が生い繁る山の中でもこんなバカでかい化け物が居たら簡単に気付けるだろうに!コイツはいつの間にかここに居た!
様々な疑問があちらからこちらへ乱反射する智弥の脳内に反して周囲の空間は余りにも静かだった、さっきまで今の季節を主張するヒグラシの鳴き声すらしなかった、まだ日も落ちてすらいないのに。
言わばここは智弥が先程までいた山の中ではない、巨大な異形が元々住まう異界に智弥はいつの間にか足を踏み入れてしまっていたのだ。
しかしまだ
異形は静かに、音を立てず触角だけを動かしながら幼い童を睥睨していたが、その触角が智弥の頬に触れた瞬間……
ソレは人間の口から露出した昆虫特有の横に開閉する大顎をカチカチと打ち鳴らし、漆黒の複眼に初めて感情めいたものを映し出す……
それは上位者の酷薄な気まぐれだった…!
「ウ、ウワァァァァァァァァァァァァッ!!」
脳内に響く鈴の音が激しくなると同時に智弥の緊張感も限界を迎え遂に生存本能が理性を手放した!
くの字に折れた虫取り網を投げつけながら異形の蟲に背を向けて一目散に駆け出す。だが巨大といえども全部で九本も脚があり、オマケにその内の後肢は蝗のそれ。僅か数秒で異形の脚の先端が智弥の背に触れ、尚も足を止めようとしない智弥の服の背を切り裂いた。
「ヒッ…ッ!ヤ、ヤダ!イヤだぁぁぁッ!」
最早骨肉に掛かる負荷も省みず全力で逃げる為より力強く足を踏み出そうとしたその時、一瞬頭上が暗くなったかと思えば激しい振動と着地音と共に巨大な蟲の腹部の先端が姿を現した。咄嗟に急制動をかけ止まろうとするも勢い余って少し尖った腹部の先端に鼻をぶつけてしまう。鼻の奥からツンと鉄臭い臭いがした。
異形の巨蟲は体の関節を軋ませ再びコチラに向き直る。
顔の表情こそ変わっていないが、先刻より忙しなく動く触角や大顎の動き、より激しく脳内を支配する鈴の音から目の前の巨蟲から無邪気な悪意という名の感情がひしひしと伝わってくる。
智弥はその場から覚束ない足取りで後ずさるも、泥濘んだ腐葉土とその下に隠された木の根に躓き尻餅をついてしまった。そこに大顎をカチカチと凶々しく打ち鳴らしながら巨蟲が迫りくる。
頭痛すら伴うほど激しさを増す鈴の音の中、智弥は我武者羅に首から下げていた虫籠を振り回す。それはたまたま頭部の側を揺らめいていた触角の一本ごと巨蟲の複眼を捉え巨蟲が大きく身悶えた。
その機を逃さず智弥は立ち上がり巨蟲の脚の隙間を縫って最短で逃げ出す。
正真正銘最後の抵抗だった。もう打つ手は残されていない。
巨蟲の背後を通り過ぎそのまま全力疾走した時だった。
「…ッ?!ギャァァァッ!」
熱いっ!熱い…っ!まるで背中が溶けるようだ…!
背中に何かが吹き付けられたと、そう認識した瞬間焼け付くような痛みが背中に走り、耐え切れず智弥はその場に倒れ込む。
やがて全ての色と形が霞んでいき、智弥の意識は鈴の音と共に闇に沈んだ。
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