4、Let It Go
その日、わたしは休暇を取った。
「ミオちゃん、この時期に休んじゃって大丈夫なの? いつもこの時期になると『デスマーチだ~』ってヒーヒー言いながらゾンビみたいになってるじゃない」
気遣わしげなアリシアに、わたしは紅茶を淹れながら完璧な笑顔で答えた。
「平気よ。今年はプロジェクトも一区切りついたところだったし。そんなことよりケーキ、買ってきたわよ。ほら、あなたの好きなイチゴのショートケーキ。一緒に食べましょ」
「わーい、ケーキ!」
……実のところ、この日を休むことは一ヶ月前から決めていた。正直に言えばプロジェクトなんてむしろ佳境に入ったところだ。ITのプロジェクトマネージャーともなると、この時期に休みを取るのはなかなかキツいものが無くもなかった。
だが、この日ばかりは上司に無理を言って休ませてもらった。だってそうでしょう?
なにしろ今日は、アリシアの夢を無残に潰した実写版『ポリコレ姫』の公開初日なのだから。
テレビでは華々しい宣伝が流れ、雑誌には派手な特集が組まれ、SNSでは新作を待ち望む声で溢れかえっている。本来なら監督として、その中心にいたはずのアリシア=ブラックが、今は蚊帳の外に追いやられている。
そんな日に、アリシアを一人にはできなかった。
「紅茶とケーキ美味しいね、ミオちゃん!」
……ええ、そうね。
まるで何事もないかのようにケーキをもぐもぐ食べながら、いつもどおりの無邪気な笑顔を浮かべるアリシア。
でもわたしには、アリシアの指先が原作の童話本を無意識に撫でているのが見えた。この数ヶ月、アリシアはこの本を肌身離さず持ち歩いている。今日だって、車椅子の肘掛けにちゃんと置いてあるのだ。
……それだけアリシアにとって重い出来事だったのだ、という事実をわたしは感じずにいられなかった。
朝からずっと降り続いていた雨が、ようやく上がった夕方。
いつもなら仕事で留守にしているこの時間、わたしはアリシアと一緒に居間でケーキを食べていた。『ポリコレ姫』の宣伝が流れそうなチャンネルを避けて、さりげなくバラエティ番組に切り替えたり。映画の話題が出そうになると、他愛もない世間話に逸らしたり。
そんな一日を過ごしていると、突然、アリシアが不意に口を開いた。
「……よし、決めた」
決めた、ってなにが。そう聞き返す間もなく、アリシアは真っ直ぐにわたしを見据えて言った。
「ミオちゃん、映画を観に行こう」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。映画、映画ってなによ。まさか……?
動揺を隠しながら訊ねるわたしに、アリシアは平然と答えた。
「うん、『ポリコレ姫』」
車椅子に座ったアリシアは、いつもの子供のような笑顔ではなく、真剣な表情でこちらを見つめていた。その視線には迷いがない。冗談めいた様子もない。
「ダメよ、そんなの! そんなの観たらあなた……!」
思わず立ち上がって叫んでいた。今日のために休暇を取って、好きなケーキを買って、この日を乗り越える準備を全部整えていたのに。なのに、なんでアリシアは。
けれど、この日はアリシアもまた『覚悟』を決めていた。
「……あのね、ミオちゃん」
感情的になるわたしの声も意に介さず、アリシアは静かに、でもきっぱりと言った。その褐色の頬が、窓から差し込む夕暮れの光に照らされている。
「わたし、観たいの。たとえ自分の手から離れてしまった作品でも、それでもやっぱり『ポリコレ姫』だから。ちゃんと最後までこの目で確かめたいんだ。じゃなきゃあ、ちゃんと前に進めない気がする」
車椅子の肘掛けの上の原作本。そのページには、いつか実写映画で描きたかったアイデアを記したメモ用紙が無数に挟まれている。
監督降板から、いや監督就任が決まってからずっと、アリシアはこの本を手放さなかった。挟まれている付箋やメモの一つ一つが、アリシアの夢の痕跡。きっとそれだけ真剣に『ポリコレ姫』の映画制作に取り組んでいたんだろう。
そして今、その本を抱くアリシアの瞳が、決意の光に輝いていた。
「でも……」
もう何も言えなかった。
……そうよね。アリシアにとって『ポリコレ姫』は、ただの作品じゃない。監督を降ろされようと、差別的な理由で起用されていたことが暴露されようと、この作品への想いは変わらないのだ。むしろ、だからこそちゃんと向き合わなければならない、そう思っているのかもしれない。
「…………。」
それなのに、わたしときたら。
休暇を取って、ケーキを買って、テレビのチャンネルを変えて、映画の話題を避けて。アリシアの気持ちを察したつもりで、実は目を背けさせようとしていただけ。アリシアがこの作品に寄せる想いの深さを、まるで理解していなかった。
「……わかったわよ」
観念したように溜息をつく。まだ切り分けていないケーキが、テーブルの上で寂しそうに光っている。
「でも、具合が悪くなったりしたら、すぐに帰るわよ? いい?」
「うん! ありがとう、ミオちゃん!」
晴れやかな笑顔で頷くアリシア。車椅子のタイヤが床を軋ませる音が、静かな居間に響いた。窓の外では雨上がりの街並みが、夕陽を浴びて輝いている。
わたしは黙って車椅子の後ろに回り込み、アリシアを手伝って外出の準備を進める。
「それになにより、大好きな『ポリコレ姫』だしね。監督や制作としてじゃなくて、ファンとして観なきゃ、と思うじゃない」
「……そうね」
楽しげに語るアリシアの笑顔を見ながら、わたしは今更ながら気づく。今日一日、アリシアの方がずっと強かったのだと。
家を出て映画館へ向かう道すがら、アリシアは『ポリコレ姫』の話を楽しそうに続けていた。
「でね、それでね、原作に出てくる黒人の従者が『シン・ポリコレ姫』だと実は……なんだけど、実写版だとどうなってるのか凄く楽しみなんだよ~。このキャラクターは映像化するたびに監督ごとに再解釈されてアレンジされるのが御約束でね……」
これから見る実写版がどんな出来になるのか、まだ見ぬ作品への期待を隠せないらしい。その横顔は、映画監督としてではなく、一人の『ポリコレ姫』ファンとしての、純粋な輝きに満ちていた。
「ついたね、映画館!」
そうこうしているうちにいつも行っている映画館へ、そして予約していた車椅子席へ着く。
……関係ないけど映画館の車椅子席って、どの映画館もすごい最前列よね。まあアリシアは「大迫力で観れる!」っていつも喜んでるけど、あんなふうにずっと見上げてて首が痛くならないのかしら。
そんなことを考えながら上映前の宣伝を眺めていると、隣でアリシアが小声で微笑んだ。
「……楽しみだね、ミオちゃん!」
「ええ、そうね」
やがて館内が暗くなり、上映が始まる。上映時間は2時間弱、アリシア=ブラックの“夢の跡”と向き合う時間が始まった。
そして2時間後。
「とんだクソ映画だったわ」
実写版の『ポリコレ姫』は、拍子抜けするほどに退屈な映画だった。
わたしもアリシアに付き合わされてたまに映画を観ることがあるのだけれど、本当のクソ映画って本当に時間を無駄にしてストレス溜めるだけだから滅茶苦茶腹立つのよね。
特に今回の『ポリコレ姫』なんかまさに肩透かし、本当にガッカリな出来だ。こんなどうしようもないクソ映画のために大切な人の夢が潰されてしまったのだと思うと、本当にはらわたが煮えくり返りそうになる。
憤懣やるかたないわたしは、レストランで夕食を摂りながら文句たらたらだった。
「あれだけ宣伝していたわりには、全ッ然大したことなかった。最低映画賞、ラジーだっけ? 今年のアレはこの実写版『ポリコレ姫』で決まりじゃない?」
「そ、そこまで言わなくても……手堅くまとめた内容だったし、わたしは嫌いじゃないけどなあ」
その夢を潰された当人であるはずのアリシアは、却ってわたしを宥めすかそうとしてくるのだった。なによアリシア、あなたこそ怒りなさいよ。そんなふうに不満に思いつつ、わたしは言い返した。
「『嫌いじゃない』って言い回し、それってつまり『それほど好きでもない』ってことよね? あなたのポリコレ姫はそんなのに取って代わられたのよ? 悔しいと思わないわけ?」
「それは、まあ、その……」
わたしの返しに、アリシアは咄嗟に目を逸らしていた。図星か。
ぎこちなく目線を泳がせつつ、アリシアはおずおずと答えた。
「たしかに、ちょっと脚本が練り込み不足かなとか、編集が甘くてキャラの動きやストーリー展開が細かなレベルで破綻してるところは気になったけど……だけど、少なくとも『ポリコレ姫』シリーズをちゃんとわかってる人が真剣に取り組んで作った映画だとは思うし、実際CGはすごくよく出来てる部分も多かったよ」
「そりゃあ、そうかもしれないけど……」
「それに、わたしが降板したあとの無茶な制作スケジュールだったことを考えれば、むしろ相当頑張った部類だよね。大ヒットとはいかないまでも制作費はちゃんと回収できるんじゃないかな。そういえば監督のクレジットはアラン=スミシー*になってたけど、いったい誰なんだろう?」
「……ホント、甘いわね」
不服な声を上げながら、わたしはアリシアの言葉を噛みしめた。
こんな中途半端な出来の映画なのに、アリシアはまるでプロの映画監督のような視点で冷静に分析してみせていた。こんな形で夢を奪われたのに、それでも作品そのものを真摯に受け止めようとしている。
「……アリシア、本当に強くなった」
「え?」
「いいえ、なんでもない」
素知らぬ顔で、わたしはグラスに口をつけた。
今夜のアリシアは子供っぽい笑顔の下に、確かな芯を感じさせた。それは単なる諦めではなく、作品と真摯に向き合おうとする覚悟のようなものな気がする。
アリシアは笑いながら言った。
「……ミオちゃんにはちょっと分かりにくいかもしれないけどね」
アリシアは手にしたポリコレ姫のぬいぐるみを優しく撫でながら、静かに微笑んだ。
「わたしはまだまだ、『ポリコレ姫』が好きだよ。それを確かめられたし、やっぱり観てよかったよ、今回の実写版」
「……そっか」
夜風に吹かれながら帰路につく頃、わたしは少し恥ずかしくなっていた。
今日一日、アリシアを守ろうとしていたつもりが、実は守る必要なんてまったくなかったのかもしれない。むしろ、映画に対して感情的になっていたのはわたしの方だったような気がする。
そんな中、わたしに車椅子を押されたアリシアが空を見上げながら言った。
「空、綺麗だね、ミオちゃん」
そう言われたわたしも、その場に立ち止まって顔を上げる。雨上がりの夜空はすっかり晴れ渡っていて、澄みきった果てには小さな星が一つ、静かに瞬いていた。
それを見上げながら、わたしも微笑む。
「……ええ、そうね」
◆
それから数日後。
時刻は午前2時前。モニターに映る資料の文字が、疲れた目の前でぼやける。
「……くそう、終わらない」
欠伸交じりで、思わず呻き声が漏れる。
強引に休暇を取りまくった代償は予想以上に重かった。スマートフォンには次々と届くクライアントからの催促メール。普段ならこんな夜遅くになるまで持ち帰らないのだけれど、今度という今度ばかりは断れなかった。
……いけない、気を抜くと頭がぼうっとしてくる。カフェインでも淹れないとこのままじゃ倒れそうだ。
「コーヒー……」
眠気に抗うように目を擦りながら、椅子から立ち上がる。この案件、明日の朝イチのミーティングまでには終わらせなきゃいけないのだ。この時期に一日でも休暇を取れば、こうして尻拭いに追われることくらい、分かっていたはずなのに。
ふらふらの身体を引きずりながらなんとか自室から這い出すと、眠たい目を擦りながらキッチンのインスタントコーヒーを探す。夜の静寂の中、引き出しを開ける音だけが響く。
そしてお湯を注ごうとして、ふと気がついた。
「……あれ?」
廊下の突き当たり、アリシアの自室から青白い光が漏れているのに気づいた。いつもなら決まって10時には寝るアリシアが、こんな時間まで。
……また実写版『ポリコレ姫』のことを考えて眠れないのだろうか。あるいは、新しい企画のアイデアでも思いついたのかもしれない。まあこうして徹夜してる時点で
「まったく、体調管理もできないんだから……」
ぶつくさ零しつつもう一つカップを取り出し、ホットミルクを作る。我ながら甘いと思うが、まあそれが性分だから仕方ない。こんな夜更けに一人で物思いに耽らせたくはないしね。
……それにしてもこんな時間まで起きて、いったい何をしてるのかしら。暗い廊下を、温かいカップを両手に抱えて歩く。足音を立てないようにそっと近づいた途端、部屋の中から声が聞こえた。
《i》「はーい、皆さんこんにちこんばんわ~♪」《/i》
ノックの返事を待たずにドアを開けた瞬間、わたしは言葉を失った。
車椅子に座るアリシアの前には、マルチモニターに繋がったノートPC。普段使っている作業用のパソコンではない、プライベートの端末だ。
そしてその前でヘッドセットをつけたアリシアは、画面に向かって何かを話すのに夢中で、こちらに気づいていない。
「さてさて! 今日は『ポリコレ姫』の実写版を観てきましたので、その感想をお話ししたいと思いまーす!」
その言葉で、手に持ったカップが危うく床に落ちそうになる。
画面に映るのは、見慣れないVtuber風のアバター。可愛らしいお姫様のキャラクターだ。けれど、その声は間違いなくアリシアのものだ。チャット欄では「乙」「お、生配信きたー!」「待ってました!」「実写版の感想、楽しみ!」「みんな静かに!解説が始まるよ!」といった歓迎のコメントが踊っている。
それに対するアリシアの反応はというと。
「ええ。以前の配信でも『絶対に初日に観に行く』って約束してましたからね~♪ さあ、今回も徹底的に分析していきましょう!」
普段の引っ込み思案な様子は微塵もなかった。むしろ、プロの配信者のように滑らかな話術で、アリシアはテンポよく言葉を紡いでいく。
「えー、まずは作品の総評から。ずばり結論から言うとですね、よくある原作モノの及第点といったところでしょうか。ただしこれは、制作スケジュール的にかなり厳しい状況下での話です。監督が途中で交代になったこともあり……」
アリシアの語り口に合わせて、チャット欄が怒涛のように流れていく。「さすがポリコレ姫の人!」「この視点、すごい!」「毎回勉強になります!」
……ポリコレ姫の、人? スーパーチャットの通知が鳴り響き、画面の片隅には信じられない数字。現在の視聴者数が鰻登りに増えてゆく。
「特に注目したいのは、演出面での『シン・ポリコレ姫』との違いです。原作に忠実にしつつもカントクの作家性がバリバリ出ていた『シン・ポリコレ姫』に対し、今作は現代的なアレンジを施しているんですが、ここで重要なのは原作第一章で描かれた『希望』のモチーフがどう解釈されているか……」
……これが、あの引っ込み思案のアリシア=ブラックだなんて。好きなものの話になると饒舌になるのは理解していたつもりだけれど、こんなにも。
そして、配信の内容自体もよく出来ていた。細を穿つ作品分析、演出へのディープな考察、原作や過去シリーズとの比較。素人のわたしにもよくわかる、平易で丁寧な語り口。チャット欄では「神回です!」「これぞポリコレ姫の人!」と称賛するコメントが溢れかえっている。
「それからラストシーンですが、あれはですね――あ」
ついに、アリシアがこちらに気づいた。
ヘッドセットをつけたまま、ゆっくりと振り向く。ぽかんと口を開けたその表情には、まるで秘密の趣味を見つかった子供のような困惑が入り混じっている。
やがて我に返り、アリシアが何かを言おうとする。
「え、えーと、これは……その……」
言い訳らしき言葉を探すアリシア。でも、その声は配信を通じて画面の向こうへと届いている。チャット欄には「おや?」「急に固まった?」「ポリコレ姫の人、どうしたの?」といったコメントが次々と流れ始めた。
そんな中、わたしはゆっくりと、口を開いた。
「……アリシア、説明してもらえるかしら?」
わたしの声も、マイクに入ってしまったらしい。チャット欄には「えっ」「おま」「声きた」「誰?」「あっ」「まさか」「アリシア?」「アリシアって、ポリコレ姫の人の名前?」「この声ってひょっとして、前の配信で言ってた家族の人?」「おおっと身内バレか?w」「リアル身内キター!!」などなど、当惑するような文字列が並んでいる。
だが知ったことか。今ここで全部、ちゃんと説明してもらわないと気が済まない。
「あ、あの、皆さん、ちょっと配信をストッ「勝手に動くな」ひぃっ!?」
真夜中の静寂を切り裂くような、冷たい声。
アリシアは慌ててノートPCを操作しようとしたが、わたしがキッと睨みつけてやった途端に、アリシアの手がびくんっと止まった。画面のチャット欄は「おっと」「リアル修羅場?」「ママ怖い」「これは家庭内アウト」「待って待って待って」「これガチでは」「●REC」「録画開始っと」などと勝手に盛り上がっている。
コーヒーカップを静かに置いてから、わたしは努めて平静に訊ねた。
「いいから説明して。まず『ポリコレ姫の人』って、なんのこと?」
「え、えっと、その……」
ゆっくり近づきながらわたしが問い質すと、アリシアはまるで追い詰められた小動物のように身を縮こませていた。
……そんなアリシアの姿に、わたしは見覚えがあった。失敗が見つかったときなど、『やらかした』ときのアリシアはいつもこうやって小さくなるのだ。
蚊の鳴くような声で、アリシアはおずおずと口を開く。
「えっと、その……5年くらい前から、『ポリコレ姫』シリーズのレビュー動画とか配信とかやってて……」
「……それで?」
「週一回の定期配信とか、アニメの考察とか……いつの間にか結構な人が見てくれるようになって……」
今にも消え入りそうなアリシアの声を聞きながら、わたしは画面へと目線を映した。普段のアリシアからは想像もつかない、プロの配信者のような画面構成。スパチャが次々と飛び交い、チャット欄は楽しげなファンのコメントで溢れかえっている。
そして視聴者数は――5万人。
それらを眺めているうちにじわじわ込み上げてきて、ついにカッと抑えきれなくなった。
「……あなた、バカじゃないの!?」
わたしが怒りを爆発させると同時に、机の上のコーヒーカップが揺れる。チャット欄は「あんた、バカァ?」「ガチ切れキタ―――(゚∀゚)―――!!」「ポリコレ姫の人、死亡確認」など面白半分のコメントで埋め尽くされてゆく。
だけど構うものか、わたしは思いの丈をぶちまける。
「監督降板騒動のときだって、さんざん叩かれて! 『新人が自己投影して調子に乗った』だの『ポリコレ採用』だの! あのときこの『ポリコレ姫の人』としての影響力を使えば、結果は全然違ったんじゃあないのっ!?」
「だって……」
アリシアは顔を真っ赤にして震えながら、こう答えた。
「恥ずかしかったんだもん……」
……は?
思わず間の抜けた声が出たが、アリシアは目線を泳がせながらぶつくさ答えていた。
「毎週決まった時間に配信して、アニメの話ばっかりして、みんなと盛り上がって……わたしがそんなことしてるの知られたら、監督としても脚本家としても、プロとして見てもらえないんじゃないかって……」
「は、はア!? オタクっぽくて恥ずかしいって、そんな子供みたいな理由で……!?」
「それに……それに!」
わたしの言葉に反論しようと、アリシアの口調が強くなる。いつもの引っ込み思案な様子は消え、むしろ力強く、でも子供のように素直な調子で言葉を重ねる。
「みんな、すっごく真剣にコメントしてくれるんだよ! ストーリーのこと、演出のこと、原作解釈のこと……わたしみたいな素人配信者の意見に、こんなに真摯に向き合ってくれて……だから、プロの立場になったら、その気持ちに応えなきゃいけないって思ったの!」
だから、だから!
アリシアの声に力がこもり、車椅子のタイヤが軋む。
「『ポリコレ姫の人』じゃなくて、映画監督のアリシア=ブラックとして認められたかったの!」
……はぁ。
深いため息とともに、わたしは冷めかけたコーヒーを一口飲んだ。
「……ほんっとに、手のかかる人ね」
「ご、ごめんなさい、ミオちゃん……」
「謝るくらいなら、今度は全部話してよ。わたしは、あなたのその、なんていうか……」
……気恥ずかしくて咄嗟に言い淀んでしまったが、もうこの際だ。思い切って言ってしまおう。
躊躇しつつも、わたしは告げた。
「……あなたの恋人なんだから」
さんざん叱りつけた後の深夜2時。気持ちが落ち着いてきたところで、ふとPC画面に目をやった。可愛らしいアバターと、まだ賑やかなチャット欄と、そして―――。
「……あれ?」
ふと画面の片隅が目に入る。心なしか、コメントの勢いが増しているような。画面右上の視聴者数を見ると、なんと7万人に跳ね上がっていた。そしてチャット欄では。
「アリシア=ブラック!?」「降板させられた監督!?」「マジかよ」「ちょっと待って」「ポリコレ姫の人の正体、まさかのアレ」「これマジ?」「ミオちゃんw」「歴史的瞬間に立ち会えた」「エモすぎる」「泣ける」「私の推しが監督で百合とかマジ?」「伝説の放送すぎる」「これ全部生だよな?」「切り抜き待ったなし」「保存した」「切り抜き職人さんガチ案件きた」「歴史的瞬間」
……ちょ、ちょっと待って。
わたしの背筋が凍る。全身の血の気が引いていく。まさか、まさかね? ゆっくりとアリシアを振り返る。
そんなわたしに、アリシアは真っ青な顔で答えた。
「あの……配信、まだ続いてて……」
わたしは問い詰めたがもはや後の祭りだ。今の顛末、何から何まで何もかもすべてが全世界に発信されてしまった。
愕然とするあまり、思わず大きな声を上げてしまう。
「な、なんで言わないのよおッ!?」
「だってぇ、怖い声で怒鳴るんだもん……」
「いつまで続いてたの!?」
「え、えっと……全部……」
「全部、全部って……まさか!」
こうしてわたしとアリシアが慌てふためく姿も、いまや全世界に生中継されていた。チャット欄は「かわいい」「ミオちゃんテンパってるwww」「助けてあげたい」「これが配信者の最期か」などと面白半分に賑わっている。
「~~~~~~~~~ッ!?!?」
声にならないわたしの悲鳴とともに、アリシアが慌ててマウスに手を伸ばす。でも、その指先は震えて、なかなかクリックできない。
「どうすれば、どうすれば配信を止められるのッ!?」
「えっと、えっと……こ、この停止ボタンを……」
「はやく停めなさい、はやくぅーッ!!」
「ひ、ひぃ~っ……!」
深夜の静寂を切り裂くわたしたちの悲鳴と、必死の操作音。でもそれらすらも、全世界に生中継され続けていた。
*アラン=スミシー…映画制作中に映画監督が何らかの理由で降板してポストが空席になったり、自らの監督作品として責任を負いたくない場合にクレジットされる偽名。実際には2000年代を最後に使われていない。
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