勇者召喚の片隅で ~無能とバレたらあっけなく追放されたんだが、この異世界でどう生き残ればいい?~

Shig

第1話 少年との出会い

 夜の10時を過ぎた頃、大学での長い一日を終えて、津山蓮斗つやまれんとは公園のベンチに腰を下ろしていた。


 疲労と睡眠不足で身体は重く、頭もどこかぼんやりしている。それでも、すぐに帰る気にはなれなかった。何かから逃れるように、この寒空の下に身を置いていたかった。


「……ぷはぁ」


 手に持っていた缶コーヒーを喉に流し込むと、意思とは無関係に深いため息が漏れた。


 今日の研究も成果ゼロ。何時間もかけて実験をするも、何ひとつとして形にならない。霧の中を手探りで進むようで、ただただ時間だけが過ぎていった。


 周りの人たちは着実に成果を上げているというのに、自分だけが足踏みをして、もがき苦しんでいる。


 ――このままじゃ、ダメだ。


 そんなことは、誰よりもわかっている。わかっているのに、打開策がまるで見いだせない。


「マジでこの先、どうすりゃいいんだよ……」


 額に手を当て、そのままぐしゃりと顔を覆った。声にならない呻きが、白い息となって夜空に吸い込まれていく。


 手の中にあった缶コーヒーは、いつの間にかすっかり冷め切っていた。


「あの、大丈夫ですか? 」


 すると突然、声をかけられた。凛とした、少し高めの男の声だった。


 顔を上げると、近隣の高校の制服を着た少年が、心配そうにこちらを覗き込んで立っていた。


 短めのブロンドヘアに整った顔立ち。そして、スラリとした長身が目を引く。絵に描いたような美しい容姿で、瞳は宝石のように輝いていた。


 しかし、どうやらぼんやりしすぎていたみたいだ。彼がすぐそばに来ていたことに、全く気がつかなかった。


「えっと、君は……?」


「お兄さん、最近よくこの公園にいますよね? なんだか辛そうだったので、声をかけようかずっと迷ってたんです」


「ああ、確かに毎日いたかもしれないな」


 ここ数日、研究室を飛び出しては、この公園で時間を潰すことが習慣化していた。


 少年はその返事を聞き、照れくさそうに笑みを浮かべる。その笑顔は、張り詰めていた蓮斗の心を微かに和らげた。


「その、もしよかったら少し話をしませんか?俺もちょうど、誰かと話したい気分だったんです」


 その真剣な表情に蓮斗は戸惑いながらも、どこか断れない空気を感じる。


「……まあ、なんだ。とりあえず座ってくれよ」


 仕方なく隣を促すと、少年は素直に腰を下ろした。どうしようかと呆然と顔を見合せていると、「ほら、早く話してくださいよ」と顔を頷かせる。


 その純粋な笑顔に、蓮斗は自然と心を開く気になっていた。普段は人に悩みを打ち明けることなどなかったが、この少年の前では、つい抱える不安を話し始めていた。


「悩み……というか、ただ情けない話なんだけど。ここ最近、何一つとして上手くいってなくてさ。自分はこの道に向いていないんじゃないかって、そう思い始めてるんだ」


 自嘲気味な笑みが漏れ、目の前に広がる夜の街並みへと視線を移した。


「っていうのも、大学での研究が思うように進まないんだ。毎日論文を読んで、実験をして、データを解析して……。でも、思うような結果が出ない。繰り返し挑戦しても、結局壁にぶつかってばかりでさ。締切は容赦なく迫ってくるし、周りの連中はどんどん成果を出していく。な、嫌になるだろ?」


 蓮斗はふっと乾いた笑いを漏らし、力なく両手を広げた。


「なるほど、そういうことだったんすね……」


 少年は蓮斗の言葉を遮ることなく、じっと耳を傾けていた。そして、考え込むように視線を落とし、やがてゆっくりと口を開いた。


「俺もこう見えて今、受験生なんすよ。さっきまで自習室に籠ってて、その帰り道だったんです」


 改めて少年の姿を見ると、確かに肩には膨らんだリュックサックが見える。それでこんな時間に制服姿の高校生が一人でいたのか、と合点がいった。


「俺、元々スポーツばかりやってたんで、勉強は苦手で。でも行きたい大学があって、そのために今はそれなりに頑張ってるんすけど、なかなか上手くいってなくて……」


 少年は軽く肩をすくめ、それから改めて蓮斗の目をまっすぐに見つめた。


「でも、結局のところ、失敗とか成功って、最後までやってみないと分からないじゃないですか」


「……どういう意味だ?」


「いや、上手くは言えないんですけど……。やっぱ人生って、結局は『運』だと思うんすよ。どんな才能を持ってて、どんな環境で育って、そして、どんな選択をしていくか。結局は全部、運の連続なんじゃないかって」


「へぇ、人生は運次第か。面白いこと言うな、君は」


 少年の意外な言葉に、思わず聞き返す。高校生にしては、随分と達観した考え方だ。


「だから、何か上手くいかなかったとしても、それは仕方ないって思うようにしてるんです。もちろん、頑張ることは大前提ですけど、過去の失敗なんてあまり気にしない方がいいかなって。だって、今できることを積み重ねていくのが、一番大事じゃないですか」


「今できることを頑張る、か」


「はい! その方が、運も味方してくれるような気がしません……?」


 そう言って、少年は少し照れたように笑った。


「なんてすみません。高校生の俺が偉そうなこと言っちゃって。何の解決にもなってないですよね……」


「いや、そんなことはない」


 蓮斗は静かに首を振った。確かに具体的な解決策が見つかったわけでも、目の前の問題が消え去ったわけでもない。しかし、少年の言葉には不思議な説得力と、人の気持ちを軽くする何かがあった。凝り固まっていた思考がほぐれ、心が安らぐような、そんな気分にさせてくれた。


 しばらくの間、二人の間に沈黙が流れる。蓮斗は、少年の言葉を胸の中で反芻していた。


「運を味方につけるために、今できる努力をする、か……。うん、悪くない。俺は色々と考えすぎていたのかもしれないな」


 蓮斗はしみじみと呟いた。心の中で重くのしかかっていたもやが、少しずつ晴れていくような感覚があった。少年はその言葉を真剣な表情で受け止め、静かに頷いていた。


「ありがとう。なんだか、少し楽になったよ」


 蓮斗がそう言うと、少年は目を見開き、やがて恥ずかしそうに笑った。


「そんな俺、別に大したことは……」


「いや、十分さ。そういう素直な言葉って、案外、大人になると聞けなくなるんだよ」


 少年はきょとんとした顔をしたあと、少しうつむいた。蓮斗はそんな様子を微笑ましく思いながら、ふっと目線を空へと向ける。


「それにしても、君は受験生か……。懐かしいな。俺もそんな時期があったっけ」


 蓮斗は遠くを眺めながら、自身の受験時代を思い出していた。受験のプレッシャーに押しつぶされそうになりながらも、ひたすら勉強に打ち込んだ日々。そして、努力が実を結んだあの瞬間。思い返すと、思わずふっと笑みがこぼれた。


「お兄さん、頭良さそうですもんね。いいなぁ、俺も早く大学生になりたいっすよ」


「はは、もう少しの辛抱だって。なんなら、俺の受験の話でも聞くか? ちょっとは気分転換になるかもしれないぞ」


 冗談交じりにそう提案すると、少年は顔を輝かせ、「ぜひお願いします!」と身を乗り出すようにして答えた。


 普段、会話の相手もいなかった蓮斗にとって、この瞬間は少しだけ貴重に感じられた。


 ♢ ♢ ♢


 深夜だというのに、二人の会話は尽きなかった。受験の話に始まり、大学生活の話や高校生の流行りなど、話題は次から次へと移り変わった。お互いに抱えている悩みや不安はあったはずだが、この瞬間だけはそれを忘れ、ただ純粋に会話を楽しんでいた。


「よし、じゃあそろそろお開きにするか。お互い、明日も早いだろうしな」


 名残惜しさを感じながらもベンチから立ち上がると、少年もそれに続いた。時計を見れば、もうすぐ日付が変わろうとしていた。


「そうっすね。あの、今日は本当にありがとうございました! なんだか、すごく元気が出ました!」


「いや、俺もだよ。また話そうな」


「はい、ぜひお願いします! 夜なら、だいたいこの辺うろついてるんで!」


「おう、じゃあな。受験頑張れよ」


 そう軽く手を挙げて別れを告げようとした、その瞬間だった。


 ──ゾクッ


 突然、肌を刺すような強烈な悪寒が蓮斗を襲った。静かに吹いていた夜風はピタリと止まり、虫の音や遠くの喧騒が完全に消え失せる。世界から音が奪われたような、そんな不気味な静寂だった。


「ん、なんだ……?」


 蓮斗は眉をひそめ、反射的に周囲を見回した。公園を照らすナトリウムランプが、ジジ、と不吉な音を立てて明滅する。少年も同じく異変に気づいたのか、不安そうな顔で立ち尽くしていた。


 そして、蓮斗の視線が、足元へと落ちた瞬間──彼は息を呑んだ。


「なっ……!?」


 そこには見たこともない紋様が、淡い光を放ちながら浮かび上がってきていたのだ。しかも、ただの光のように思われたそれは、生きているかのようにうごめいて複雑に絡み合い、あっという間に巨大な円環を形成していく。


「な、なんだこれ!? おい、見ろよ足元!」


「えっ?」


 蓮斗の声に、少年は視線を落とす。彼の目が見開かれ、驚愕に染まっていくのが分かった。


 突如として現れた輝く円環。その内側に刻まれていくのは、緻密で不可解な幾何学模様……。


 現実とは思えないほど神秘的で、不気味な光景が目の前に広がっていたのだ。


 これが一体何なのか。

 知識としてではなく、本能がこう叫んでいた。


 ──間違いなく、これは『魔法陣』だ、と。


「お兄さん! こ、これって一体……!?」


 少年は震えた声で、蓮斗に問いかける。その表情は驚きと恐怖で歪み、美しい顔立ちは蒼白になっていた。何が起こっているのか、理解できていないのは二人とも同じであった。


「さ、さあ。俺に聞かれても、何が何だか……。おい、とりあえずこっちへ来い!」


 咄嗟に少年の腕を掴もうと一歩踏み出したが、それよりも早く、魔法陣は膨張を開始した。そして、網膜を焼き尽くさんばかりの光を、一気に放ち始めた。


「うっ、眩しいっ……!」


 蓮斗は腕で顔を庇うが、光はそんな抵抗を許さなかった。瞬く間に周囲を飲み込み、視界の全てが真っ白に染め上げられる。


 その直後、身体がふわりと重力から解き放たれるような、そんな奇妙な感覚に襲われた。


「え、嘘だろ。身体が浮いてる……!?」


 水面へと引き上げられるような、抗いがたい浮遊感。足は地面から離れ、身体はゆっくりと宙に持ち上げられていく。周囲の音が急速に遠のき、自分の心臓の音だけがやけに大きく聞こえた。


「お兄さん!これ、どうしたらっ!」


 パニックに陥った少年の声が聞こえる。蓮斗も必死に何かを叫ぼうとしたが、声が出ない。


 これは、夢か?

 こんなことが現実に起こるはずがない。


 あまりに現実離れした感覚に思考は麻痺し、混乱で満たされていく。


 しかし、何か言葉を発する間もなく、光はさらに強さを増していった。そして、ついには目を開けていられないほど眩しくなり──


 その瞬間、蓮斗たちの意識は途切れた。

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