「諦め」への認識が変化した

三角海域

「諦め」への認識が変化した

それなりの時を生きている。

平均寿命という視点でみればまだまだであるし、長く生きているとは言えない程度ではあるが、「それなり」という言葉をあてはめられるくらいには生きている。

そんな風に、それなりに生きていると、時々興味深い話を聞くことができる。

彼との出会いは、そんな中でも特に大きな出来事だ。

今でも、時々思い出す。


昼休み。休憩室で飲み物を飲みながら、アルバイトの彼と話をしていた。

仕事ができて、愛嬌があって、しっかりとした言葉を話す彼。

読書という共通の趣味があったからか、顔を合わせると話すことが当たり前になっていた。


彼には恋人がいる。時々、その話をしてくれるし、相談をされることもある。恋愛経験のない僕に? とは思うけれど、アドバイスが欲しいというより、もう少し哲学的な意味での相談をされていた。

真面目だった。仕事も、恋愛も、まっすぐ。いい男だなと心から思う。


アルバイトは季節がめぐるころにはやめていくことが多い。

半年くらいでも「長く働いている」という印象だ。業種によって違うのだろうか。

ともかく、そんな中で、彼はだいぶ長く働いてくれた。


ずっといるのかななんて思っていた。

だから、「数か月後にやめます」と彼に告げられた時、心がちくりと痛んだ。

就職が決まったのだという。めでたい。


最後に夕食を共にしないかと誘われた。

駅前のモール内にあるレストランで待ち合わせをし、会う。


「結婚するんです」


彼はそう言った。


「彼女、夢を追ってて。でも、そろそろ潮時だよねって。一緒に就活してたんです。で、俺と同じくらいに彼女も職が決まって」


彼はテーブルに届いた定食に手をつけず、静かに語り続けている。


「いいタイミングだよねって。それで、結婚しようって」


よかったね。そう言おうと思った。けれど、彼はさらに続けた。


「俺はやりたいことなかったんです。でも、彼女にはあって。もっと応援したいなって思って。正社員になれば、もっと支えられるかなって」


彼は、少し悲し気に笑った。


「もう少し早くちゃんとしようと思ったら、彼女、夢諦めないですんだんですかね」


問いなのだろうか。それとも、彼自身へと向けた言葉だろうか。

僕は、諦めるということをそれほど深く考えてこなかった。

ただ目の前にこなさなければならない現実があり、その現実が求めてくることをただこなしていく。生きるということは、ただ死に向かう道中であるから、その中で少しばかりの楽しみがあればいいと。

だから、彼が悲し気に、苦しそうに諦めについて語ってくれたというのに、言葉を返してあげることができなかった。いまでも、それは苦い思い出として残っている。


「すいません。食べましょうか」


彼はそう言い、ようやく定食に手をつけた。それに合わせ、僕も食べ始める。

10分ほど置かれた定食は、少し冷めていた。


食事を終え、外に出る。彼は何度もお礼を言ってくれた。

何か、なんでもいいから僕も言葉を届けたいと思った。


「あの時こっちを選んでよかったねって笑いあえる日が絶対くるよ」


そんな言葉が出てきた。正直、いい言葉ではない。ただ、「幸せにね」とでも言えばよかったのだ。

やってしまったなと思った。

少し間を置き、彼は僕の手をとる。


「ありがとうございます」


そう言って笑う彼の表情は、先ほどよりも明るかった。


夢。


難しいと思う。夢を追うことは誰にでも許されている。けれど、それは片道切符であって、途中で進めなくなったら帰るのは自分の負担になる。

そういうもの。そう、そういうものだということはわかる。

けれど、なんだかそれは切ないなと感じる。

思いの大きさが願いを叶える力になればいいのに。

そう思った。これはきっと、彼と出会い、話を聞かなくては芽生えなかった感情だろうと思う。


それからしばらくして、彼は辞めていった。

いま、彼はどんな風に生活をしているのだろう。

彼女と二人、楽しく暮らしていてほしいと思う。


それなりの時を生きてきた。

これからも、それなりの生き方を続けていくのだろう。

けれど、彼と出会い、自分の中に芽生えた「誰かの心から願いが叶ってほしいし、できる応援はしたい」という気持ちは、ただそれなりに生きてきた僕に起きた変化なのだろうと思う。

彼らが、幸福でありますように。

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