第10話
俺には、
高校三年の四月から五月までのおよそ一ヶ月間の記憶がない。
思い出そうとしても、頭の中に空白地帯があるようで、
どう足掻いてもその片鱗すら顕にならない中ただ嘆くべきはー
『リョウ。私たち、もう別れよう』
高校三年の六月
俺がシズクに別れを切り出されるまでの
タイムリミットは残り数ヶ月にもみたない現状にも関わらず、
今の所過去が好転しているのかいないのかは完全に不明。
ならば出来るだけ彼女の好感度を上げる事に尽力しようと、
淡い期待を賭けていた新入生歓迎合宿が残り一日に差し迫る中ーー
ゴホッ
今日は今朝から身体がだるく、
体温を測ったら39度もの高熱を出していたため
近くのかかりつけ医に受診したところ、
季節外れのインフルエンザに感染していた事が判明。
五日間の休養を余儀なくされ、明日の合宿には行けそうに無い。
「最悪だ..。終わった....」
やり場のない気持ちを必死で堪えながら、
自室のベッドで横になった俺は、目眩がしつつも天井を眺めた。
天井のシミでも数えてみるか?
いや、そんな事したら余計に辛くなるしやっぱやめよう。
病気の時はまとまった時間の睡眠を取るのが得策だ。
無理を押してでも業務に邁進すべきだと言って、生前は余程の
熱でも出さない限り微熱程度じゃ休ませてもらえなかった手前ーー
当時身につけた昭和の根性論が抜けないのは未だに尾を引く悪癖だ。
♢
身体に熱がこもっていた割に、
冬場も暖房いらずで布団にくるまっていたせいか案外すぐに寝付け、
次に目を覚ました時、夕方の空は雲一つない青空に変容していた。
コンコン
そんな中、部屋の扉をノックする音が響いた。
入ってくるのは大方、父か母だろう。
「リョウ。ご飯持ってきたわよ」
「....。分かった..。じゃあ勉強机の上に置いといて..」
「昨日ね、シズクさんに
木綿豆腐と絹豆腐をいくつか頂いたのよ
看病させてくれってしばらく玄関先でお願いしてたけど
うつすのも悪いから帰ってもらったわ」
「それが良い..。で、シズクはいつ来たの?」
「4時くらい」
「なら、どのみち俺は寝てたよ..」
「そう。あまり無理しないようにね」
「分かった」
母が持ってきてくれた朝食は、東條家の絹豆腐を使った湯豆腐だった。
朝の冷たく乾燥した室内の空気に充てられ湯気が真上へと昇っており、
出汁の昆布や鰹節の香りが、かろうじて機能しているらしき
俺の食欲を刺激してくる。
「..。鍋には木綿の方が合うけど、湯豆腐は断然絹のが美味しいな」
俺は昔から、豆腐は絹より木綿の方が好きだった。
出汁の味が染み込みやすいし、木綿を食べる時の
舌触りと感触が絹よりも数段心地が良かったけどーー
シズクに勧められて、絹も案外悪くないと思った。
大豆本来の風味が感じられるからーー
豆腐を主役にしたい時は、木綿より絹を食べるのが美味しい事を知った。
豆腐は中々強欲な奴らしい。
人間にそれぞれ別の側面を
魅せるための二つの形態を、律儀に用意していたようだ。
「合宿が終わったら、シズクにお礼を言わないと」
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