25 二人のマスター
すでにすっかり夜も更けて。
月明かりの眩しい、穏やかな景色。
「もうすぐね」
「はい。見覚えのある景色になってきました」
言う通り、険しかった川沿いの道はずいぶんと緩やかになって、馴染みのある風景に入っています。
山岳方向には来たことがありませんでしたが、自分の住む森に入ったことくらいは、案外わかるものですね。
「その子の調子はどうですか?」
「ぐっすりよ。見た目通り、相当疲れてたみたいね」
例の男の子は、師匠の背中に身を預けて、静かに寝息を立てています。
あの戦闘のあと、少しだけ休憩を取ったタイミングで、力尽きてしまったのです。
そりゃ、いきなり全身で寄りかかられたときは焦りもしましたが、それはそれ。
私の身体では、担ぐこともままならないので、師匠の背中を借りました。
いや、身長的には全然私でもいけたんですけどね?
ちょっと、体力がですね……うん。
「それで、どうするの?」
「えっ?」
「この子のことよ。まさか、ずっと家に泊めてあげるわけにもいかないでしょう?」
「え、えーっと」
困りました。実を言うと、そのつもりだったので。
そうでした。普通、同年代の男女が一つ屋根の下に、何の理由もなく暮らすことなんて、一定の例外を除いては、有り得ないことなのでした。
「まさかとは思うけれど」
「えーっと……とりあえず、宿が見つかるまでは?」
「……はぁ。あのね、カヤちゃん。あなたのそういうところは、美徳だと思うけれど……」
明らかに呆れたようなため息。
師匠も、薄々察してはくれていたのでしょう。
我ながら、甘い考えをしているとは思います。
でも、放っておくなんて、できないじゃないですか。
「まあいいわ。ひとまず、一週間だけよ」
「えっ?」
「一週間なら、私もエイビルムにいられるから、一緒に彼の宿を探しましょう」
それはつまり、しばらく師匠といられるということ。
いや、そういう申し出でないのはわかっています。
わかっているのですが。
「師匠も師匠ですね」
「言ってなさい」
「ふふっ」
そうでした。
普通であれば、わざわざ踏み込まないような場所にまで踏み込んで、世話を焼きにきてくれる。
私は師匠の、そういうところに惚れ込んで、ここまでやってきたのでした。
「全く、誰に似たんだか……」
私は耳がいいので、師匠のそんなつぶやきも聞こえています。
あるいは、ちゃんと聞こえるように、言ってくれたのかもしれませんけどね。
***
眩しいほどの月明かりが差し込む窓際で。
ローテーブルのコースターに氷の入ったカップを置きながら、カーテンに手をかける。
右手の中指にはまった青い宝石の指輪が、音も立てずに煌めいた。
「来たか」
一人用のソファから立ち上がって、窓を開けてやる。
そのまま、少し後ずさって腕を組む。
三つほど数えてやれば、やつも姿を現すだろう。
「お待たせ。待った?」
思った通り、そいつは窓枠に足をかけて、まるで行きつけの酒場に顔を出す時のような抑揚の挨拶で現れた。
路地の方に空き瓶の入った木箱を積んであったこともあるだろうが、いともたやすく二階建ての窓枠に足をかけるとは、身のこなしは鈍っていないようでなによりだ。
しかも、窓枠を踏むブーツに、土は付いていない。几帳面な奴め。
「そりゃな。こんな時間まで待たされたんだ。いい知らせがあるんだろうな?」
緑色のフード付きローブから覗く金髪が月明かりを反射して、そいつの表情が明らかになる。
整った顔に浮かんでいるのは、緊張感のない、はにかむような笑み。
窓枠を乗り越え、ひらひらと音の付きそうな足取りで歩を進めながら、そいつは遠慮なくソファに座った。
そいつは俺の席だ……なんて言うだけ無駄だろうな。
彼女は肘掛けに頬杖をついて、グラスをカラカラと揺らし始めてしまっているのだから。
「彼女。お仲間候補を見つけたわ」
「そうか……」
「あんまり嬉しそうじゃなさそうね?」
一切の遠慮なくグラスをあおる女にむけて、当たり前だろうと鼻を鳴らす。
何度も言っていることだが、ヤツは冒険者に向いていない。
大人しくパン屋に身を落ち着かせればいいものを、どうしてあそこまで使命感に駆られているのか。
「そんなに過保護だと、カヤちゃんに嫌われるわよ」
「用が済んだなら、帰ってくれて構わないが」
わざとらしく首を傾げて、嫌味を言ってくるような奴に付き合っていられるほど、俺は暇な身分ではないんだが。
「はいはい、それじゃいつも通り。ツノイシのツノ十五匹分、換金しておいてくださいな」
「明日には出発するんだったか?」
「いいえ。一週間後までに用意してくれれば、それでいいわ」
右手で探ったローブの中から、丸テーブルの上にツノが並べられていく。
血や肉片は付いていない。清潔に加工済みで、ひび割れもない。
これだけあれば、それなりの路銀には、変えられるだろうな。
「英雄にならないのも大変だな。
「そっちこそ。エイビルムの
気づけば、緑色のローブは窓枠の向こうへと消えていた。
グラスはコースターの上に戻されて、氷を溶かし続けている。
「過保護ねぇ」
月明かりを遮るように、カーテンを閉めてソファにつく。
グラスを口に運びそうになって、さっきのことを思い出し、やめた。
今更ヤツのことを気にすることもないだろうが、これはこいつは俺のプライドだ。
「全く、誰に似たんだか……」
ともあれ、少なくとも今日に関しては、ぐっすり眠ることができそうだ。
明日からまた、忙しくなる。
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