どうせなら:Season1

仁矢田美弥

第1話 出会い

【夏樹】side


 待ち合わせの一時間半も前に店に着いた。それは気が急いて早く来すぎたというわけではない。俺は西武新宿線沿線に住んでいる。新宿での待ち合わせにそんなに時間の狂いが生じるわけはないのだ。何せ電車一本で来られるんだからな。そう、今日は意識的に早めに来た。今朝四時に目が覚めてしまった俺は、自宅の一室で一人じっと時を待つ勇気がなかったのだ。どうせなら、周囲が騒がしい店のなかで、気持ちの余裕を持って彼女を待ちたい。そういう思いで早出した。準急は最初は各駅に停まる。もどかしい思いでずっと耐えてここまで来た。いつもは下車する高田馬場駅を通過し、ようやく空いた座席にどっかと腰を下ろし、俺は窓から見える水色の空を見やった。初冬の空は薄寒い。最近押し入れの奥からひっぱりだしたオーバーコートの襟ぐりをつかんで首筋に流れ込むすき間風を防ぐ。暖房の効かない西武新宿線の中もまた、薄寒いのだ。

 夏樹。新庄夏樹。つまり俺は、今日人生の分岐点に直面するのだ。

 彼女は来るか? これは賭けだ。


 南口の洒落たレストラン。メニュー表は当然のように数千円のセットメニューが並ぶ。これは一か八かの賭けだ。もし彼女が来てヨリを戻せたら、俺はこんなはした金、惜しいとも思わないだろう。

 そんなことを目まぐるしく考えていた俺は、ふと自分の斜め前、窓際の四人掛けの席にいる男に目が留まった。見覚えがある。認識するより先に直感が告げた。

 あれは、あいつだ。何ていう名前だったか、確か俺とは正反対の──冬彦、朝霞冬彦だ。パンキョウの授業がいくつか被っているあいつだ。

 俺が話したこともないそいつのことを覚えていたのは、朝霞冬彦が俺とは正反対のタイプのなかなかのイケメンだったからだった。

 朝霞冬彦は、広い磨かれたガラス越しに見える植栽の施された屋上庭園を静かに見つめていた。植栽は繊細に風に揺れている。それを見つめるあいつの横顔も。四人掛けの席に一人だけ。俺と同じだ。まさか、彼女を待っているというシチュエーションまで同じだろうか? その可能性は高い。大体男一人でこんなこじゃれたランク上のレストランなんかに来るか? それは大概──女相手に見栄を張るときだ。これだけのイケメンだ。彼女の一人や二人いてもおかしくない……いや、それはまずいか。ともかく彼女を待っている状態だと見た。日曜の朝から、こんなところで一人、それ以外ありえないじゃないか。

 俺の席は少し奥まっていて、鏡のついた壁際だ。俺は気を逸らすようにその鏡に映った自分の顔を見た。俺が秘かに落ち着きたいときにする癖。自覚はあるが、やめられない。何せ、このビジュは俺の最大の武器なのだから。

 髪は明るい茶色にしている。軽くワックスで整えた。あくまでナチュラル路線。目鼻立ちがはっきりしているから、あえて髪型や服やアクセサリーに主張は持たせたくない。ダークブラウンのシンプルなオーバーコートがかえって俺の気品を際立たせているはずだ。気品などと言っても、たまたま容姿がそうなだけで、実家は田舎の貧乏家。奨学金ももらっているし、バイトもしている。ただ、遊ぶ金欲しさだから、言うほど貧乏なわけではない。家賃と生活費についてはしっかりと仕送りしてくれる親父とお袋には感謝だ。おっと、彼女の前では親父だのお袋だのは言わない。イメージに合うように、父と母、これが無難だろう。大人びた雰囲気も出せる。

 俺の顔は母方の隔世遺伝だったようで、今は亡きじいさんによく似ているといわれてきた。クォーターかと思われるくらいの白い肌、通った鼻筋。唇が少々丸みを帯びているのは愛嬌。何よりも切れ長の目。眉は……もうかなり原型をとどめてはいないけれどね。

 壁の鏡に見惚れていると、ふいに背後から声をかけられて思わず身をすくめた。

「お客さま、ご注文はお決まりですか」

「もう少し……待っていただいてもいいですか」

 恐縮しながら俺が言うと、店員の若い女性は知的な笑顔を浮かべ、「かしこまりました」とこたえて歩み去った。

 ここで注文してしまったら、彼女が来たときには食べ物がテーブルに並んでいる状態になる。そういう状況を想像していったん断ったのだが、すぐに後悔した。先ほどの店員の女性がまた奥から静かに歩いてくる、と思うと、あいつ、朝霞冬彦の前にカップを置いた。ティーポットもついているから紅茶か。あいつなら、コーヒーよりは紅茶のような気がした。ああそうだ。飲み物も頼まないで彼女を待ち構えていたら、俺のよじれた緊張が彼女にばれてしまう。それはあまり得策ではないな。

 そう思い直して店員を呼ぼうと片手を上げる瞬間に、朝霞冬彦はガラス窓の外に向けていた視線をこちらに向けた。紅茶を飲もうと身を前に向けたのだ。そして、俺としっかり目が合った。

 内心ひやひやしていたが、あいつは俺のことに気づかないようだった。どこか悔しい思いが湧いてくる。

 はっきり言って、男の俺でもほれぼれするようなクールなイケメン。ほら、何というか、俺と違って生まれながらの品の良さがあるというか。紅茶を注ぐ仕草も手慣れたものだ。様になっている、そう、めちゃくちゃ様になっているんだ。

 俺は朝霞冬彦をこれだけ意識していたというのに、向こうはそうではないのか。タイプは違えど、お互いなかなかの容姿だと思っていたのだが。

 目先でスマートに紅茶の白いカップを口に運ぶ姿は、俺のことなどまるで眼中にないようだ。俺の存在を、全く認識していなかったのだろうか。それが悔しかった。

 悔しさを感じつつも俺はどこかでほっとしていた。もうすぐ、俺の彼女の明石優海が来るはずだ。大学で見知っている人間に、俺と彼女のプライベートな世界を丸見えにさせるのは気が引けた。いや、もっと言うと俺は臆していた。何せ、今日は彼女とどういう話になるか知れないところがあったから。たとえ修羅場になっても乗りきる自信はあったが、それをそっくり見せてしまうことには抵抗があった。何と言ってもあいつは、学内で俺と双璧を成すほどのイケメン。ちょっと気まずい。

 実は、あいつがいることに気づいたときから、こっそりラインで優海に待ち合わせ場所の変更を伝えようかどうか悩んでいたのだ。でも、そうすると、ちょうどいいタイミングだとばかり、彼女の気が変わってキャンセルされるような予感がしてやめた。危うい場所に俺と彼女はいるというのが偽らざる現実。ちょっとした弾みで彼女に口実を与えてしまうかもしれないのだ。こういう不安は案外的中するものだしな。

 もし朝霞冬彦が全く俺のことを知らないなら、どういう揉め事が繰り広げられても、あいつは何も気づかないだろう。それを祈って、ラインを送るのはぐっと我慢して彼女を待つことにした。

 そして俺もホットコーヒーだけ先に注文した。

 店員は相変らず知的な笑顔で「かしこまりました」と抑揚なく言う。何だっけ、そうそう、アルカイックスマイルという奴だ。まもなく俺の前に、やはり白いカップ&ソーサーが来て、香ばしい香りが鼻をくすぐった。気が付くと俺の喉はからからになっていた。

 俺はぐいっとコーヒーを飲んで、一瞬喉が煮えるような心地がした。

 「うぐ……」と喉を押さえる。こういう時はひたすら我慢しかない。ゆっくりと熱い液体が降下していく。

 俺は苦しみながら、斜め前のイケメンを凝視していた。こんな格好悪いシーンはあまり見てほしくないという気持ちがあったのだろう。そして、熱さをやり過ごした今、何か無性に腹が立ってきた。

 目の前の、俺と学内で双璧をなすはずのイケメンは、俺の方にちらりと視線を送ったが、顔色一つ変えない。何もぴんと来ていないようだ。俺は一人で自意識過剰ぶりをさらけ出していた。何ということだ。

 『俺はあいつに一目置いていたのに、あいつはそうではなかったのか』

 そう気がつくと、恥ずかしいような悔しいような思いが込み上げてきた。

 朝霞冬彦は優雅に自分のカップを口に運ぶ。テーブルの上には手帳らしきものと、ペン、カバーのついた本がある。こいつ、格好つけやがって。これがノートパソコンだったら、まだ俺たちの間を遮るものがあって、気分的にはほっとする。俺から見て右方向からの陽の光を浴びながら、こんな高い店で紅茶をすすり思索にふけるクールなイケメン。完全に無視されている俺。

 もやもやと落ち着かない気分が増してきたころに、スマホに振動があった。はっとして画面を出すと、ああ、もう文字が見えている。『ごめん』から始まる文章。胸の中心を抉られるような心地でラインを開く。

『ごめん。やっぱり行けない。ううん、行かない。ごめん』

 明石優海からだった。

 どこか彼女らしい文面。だからこそ、俺は彼女の本気度を知った。俺は──振られたらしい。

 知らず知らず唇を噛みしめ、ふと目線を上げると、朝霞冬彦と目が合った。やつは、こともあろうににっこりと微笑んで見せた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

どうせなら:Season1 仁矢田美弥 @niyadamiya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る