第8話

 走ってここを離れたい衝動に駆られながら、私がエリアの脱出を試みたその時だった。


「ッ!」


 のし、という確かな重量感のある足音と感じたことのない威圧感。

 ゾッとする私の目の前には、私よりもずっと大きいクマがいた。


 刺激してはダメだと頭ではちゃんとわかっていたのに、この咄嗟の状況に思わずクロスボウの引き金を引いてしまう。

 だが狙いを定めていないその矢は、全然違う方向へと飛び木へと刺さった。


“しまった!”


 当たらなくとも私のこの行為のせいで母グマは攻撃されたと認識するだろう。

 そしてそうなれば、子グマがここにいる以上ただ見逃すなんてことはせず、私をどこまで追ってくるかはわからない。


 やるしかない。

 殺される前に撃たなければ。


 だが、女性でも高威力を出せるクロスボウという武器は、一回一回矢をセットする必要がある。


「だめ、こんなの、間に合わな――」

「アリーチェ様!」


 もうダメだと両目を瞑った時、私の名前を叫ぶ声が聞こえた。


 ガキン、と鈍い金属のぶつかる音がして閉じた目を慌てて開く。


“黒い、髪……”

 

 私を背後に庇うよう剣一本でクマと対峙しているのは、たったひとりの私のヒーロー。


「コルンッ!」

「立てますか? ここは俺がなんとか」

「殺さないで!」

「ッ!?」


“思わずクロスボウを撃った私が言うことじゃないけれど”

 

「子供がいるのっ」


 私の叫びに一瞬体を強張らせたコルンは、力いっぱい剣でクマの爪を弾いたと思ったら私の隣まで後ろに飛ぶようにして近付いた。


「俺を信じてください!」


 鋭くそう叫んだコルンが私をまるで枕でも抱えるかのように片腕で担ぎ、左側へと思い切り飛ぶ。

 全然気付かなかったがどうやらその先はちょっとした崖になっていたらしく、崖下へと飛んだコルンは器用に剣を崖へ刺し速度を殺しながら地面へと降り立った。


「子グマがいる状態で深追いはしないはずですが、少しでもここから離れますよ」

「え、えぇ!」


 崖の下はもう枯れてしまった川なのか、まるで道のようにまっすぐ伸びていた。


“追ってきてたらどうしよう”


 私の手を引き走るコルン。

 不安から後ろを振り向きたくなるが、彼が『信じて』と言ったから。


 私は振り返りたくなる気持ちをグッと堪えて必死に足を動かした。



 まっすぐ伸びていたその道を突然横に逸れ、緩い傾斜を登る。

 だがずっと走っていた私の足はとうとうもつれ、思い切り前のめりの躓いた。


「!」


 すぐに地面で擦り全身に痛みが走るのだと覚悟した私だったが、痛みが来ないことを怪訝に思いそっと片目を開いて確認する。

 まず視界に飛び込んで来たのは小さな白い花で出来た一面の花畑。

 そしてその花畑の中で私を庇うように下敷きになっているコルンだった。


「ご、ごめんなさ……っ」


 一気に顔が熱くなった私が慌てて彼の上から降りようとするが、コルンの両腕がぎゅっと私を抱きしめた。

 気付けば私は彼の上から降りるはずが、抱きしめられたまま彼の胸元に顔を埋めている。


“えっ、な、何が起こってるの!?”


 状況が掴めず目を白黒とさせていると、ふぅ、とコルンが息をいた。

 触れている彼の胸元を伝い、彼の鼓動が早鐘を打っていることに気付く。


「――本当に、無事でよかった」

「コ、ルン?」

「本当にアリーチェ様は昔から心配しかさせませんね」


 ふっと小さく笑ったコルンが、ゆっくりと私を抱きしめていた腕を解いた。

 上半身を起こし、花畑の中で向かい合って座ると、彼のエメラルドのような瞳がじっと私を射貫いている。


“コルンだわ、本物のコルン”

 

 婚約破棄合意書を渡されたあの日から、直接彼に会うのは初めてだった。

 

 彼に釣り合うようないい女になれたら。

 彼から選んで貰えるような、手放されない婚約者になれたら。


 そう思い今日まで自分を磨く努力をした結果、結局私はまた彼に助けられたのだ。


“情けない”


 でも。


「……会いたかった」

「アリーチェ様?」

「会いたかったの、好きなの、ごめんなさい。あの時言った言葉は全然本心じゃなくて」


 まるでタガが外れたように、私の口から言葉が溢れる。

 彼と会っていなかった時間、何度も彼のことを思い出した。

 忘れたことなんてない。


 どうしたって私は彼が好きだから。


 

“結局獲物はなにも狩れなかったけど”

 

 白い花を一輪摘む。

 白い花畑の花はノースポール。黄色い筒状花と呼ばれる中央部の周りに舌状花と呼ばれる真っ白な花弁が広がるこの花の花言葉は、『誠実』だ。


“これからは絶対誠実でいるって、貴方に対して本当のことしか言わないって誓うわ”


 

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