うちの犬知りませんか

秋犬

1 買い物

 朝の冷気が太陽に暖められて空気が緩んできた頃、山の斜面から道に勢いよく転げてきた人影があった。


「っしゃあ! 昼前に山を下りきったぞ!」


 山深いコール村の麓の街まで、夜明けから全速力で道なき道を降りてきたのは灰色の前髪が異様に長い、20歳くらいの青年だった。


「安全性を考えても、やっぱりこの道が一番通りやすい。帰りもこの道を使って行こう」


 ティロは懐から山岳地図とペンを取り出すと、今駆け下りてきた道筋に丸をつける。彼の首から提げている認識票にはリィア軍一般兵八等、オルド領コール村関所警備隊所属のティロ・キアンと彫られている。ティロは地図とペンと一緒に、認識票も服の中にしまい込んだ。


「さて、久しぶりの娑婆だ。何をしようかな」


 山の中を走ってきたため汚れた服の泥を払い、ティロは街の方へ向かって歩き出した。今日から明日にかけて2日の休暇をもらったティロは、本来丸1日かかる麓の街への道を正規の道を使わず駆け下りてきたところだった。


 コール村は、山岳地帯のオルド領においても秘境とされていた。かつては隣国へ抜けるための山越えの要所と賑わったが、他にいくつも整備された関所が設置されてからすっかり寂れてしまっていた。人口は約五十人。人より家畜が多いとされ、おまけに冬は背丈よりも高く雪が積もる。村に辿り着くまで険しい山道を一日がかりで登らなければならないこともあり、コール村関所への赴任は「コール送り」として兵士たちの間で恐れられていた。


 そんなコール送りの憂き目にあったティロは、逆境にめげずに何とか日々をやりすごしていた。門番の仕事はほぼやることがなく、休暇をもらって麓の街へ来ることが今のティロの最大の暇つぶしであった。


「まずは煙草と酒だろ、そして出来れば眠剤も買い足しておいて……」


 閉鎖的な村から解放されたティロは真っ先に煙草を売っていると思われる裏通りに入って、先日訪れた店に入る。


「煙草、三箱」

「あいよ。そうだ兄ちゃん、こっちも試してみるか?」


 そう言って煙草の包みの他に薬包を差し出す店の主人に、ティロはかぶりを振る。


「いいや。この前とんでもない混ぜ物よこしやがっただろ」 

「こりゃ参ったね、この辺だとそのくらい薄いほうが主流なんだ」

「オルドじゃしょうがないな。ビスキの田舎でももう少しマシなもん出すぞ」


 煙草だけ受け取ったティロは、苦々しげに店を後にした。薬包の中身は医療用の痛み止めの粉末であった。しかし、それを自身の快楽のために使うものが後を絶たず横流しが横行していた。


「全く、これだから田舎者は……リィアだと刺されても文句言えないぞ」


 オルド国は半島の付け根に位置し、大陸と半島の中継地として国家を築いていた。それが半島側に位置するリィア国に占領され王家が滅ぼされたのが一昨年前のことで、その後コール村に派遣されたのがリィア軍で命令違反をしたとして処分されたティロであった。


 本来は酒と煙草を一緒に楽しみたいとティロは考えていたが、日の高いうちから正体をなくすのもどうかと考え直して路地裏に移動する。


「とりあえず1本だけ」


 包みから煙草を1本取り出すと、ティロは着火器で火をつけて肺の奥まで煙を吸い込んだ。途端に高揚とも酩酊とも知れぬ感覚に身体を包まれ、その場に座り込む。


「あーあ、随分遠くに来たもんだなあ」


 路地裏に座り込むと、ティロはリィアの裏通りで酒浸りになって痛み止めを求めていたことを思い出す。コール村で山羊に囲まれて生活するのも悪くなかったが、狭い村ではいつまでもティロは「リィアの兄ちゃん」であり、余所者であった。


「……帰りたいな」


 空を見上げると、二度と帰れない故郷を思い出してしまった。胸に沸いた痛みを消そうと2本目の煙草に火をつけようとしたとき、白い塊が近づいてくるのが見えた。


「……犬か」


 それは白と黒の斑の子犬だった。子犬は尻尾を振って、ティロに近づいてくる。


「よしよし、どうした。どこから来たんだ?」


 ティロは子犬を抱き上げて、頭を丁寧に撫でる。子犬はティロの腕の中で落ち着いてしまったようだった。


「俺もなあ、昔犬を飼っていたんだ。スキロスとキオンって言ってな、それは立派な犬だったんだ。真っ白でふわふわで、俺の言うことをよく聞いた。本当は、もっと一緒にいたかったんだけど……」


 先ほど痛んだ胸が、再びズキズキと痛み始めた気がした。ティロは胸の痛みを無視しようと、子犬の毛皮に指を這わせる。


「それにしてもまだ小さいのに、お母さんはどこにいるんだ?」


 子犬はくんくん鳴くばかりで、ティロの問いには答えない。


「随分人に慣れてるな、本当に迷子なのかもしれない」


 ティロは子犬を抱いたまま立ち上がった。


「大丈夫だぞ、今お前の母さんと飼い主を探してやるからな」


 子犬を撫でながら、ティロは路地裏から表通りへ出た。子犬を探している人がいたなら、きっと自分と同じようにきょろきょろと辺りを見回しているはずだとティロは考える。そこで子犬を抱いて辺りを窺うと、該当しそうな人物を見つけた。誰かを待っているのか、しきりに辺りを気にしている男性がいる。


「とりあえず、聞いてみるか」


 ティロは男性に近づき、声をかけた。


「あの、子犬を探していませんか?」

「どんな子犬だ?」


 すぐ応答があったので、ティロは子犬を見せながら答える。


「白と黒の犬ですよ」


 すると男性はティロの全身をじろりと見渡し、ニヤリと笑った。


「いいだろう、着いてこい」

「よかったなあ、すぐに飼い主が見つかって」


 子犬の頭を撫でながらティロが男性について行くと、大通りから外れて路地裏を通り抜けて見知らぬ場所へやってきてしまった。やがて男性は街外れの古い小屋に入るよう促す。


「あの、本当にここに飼い主がいるんですか?」

「飼い主? 雇い主の間違いだろう」


 その時、ティロはようやくこの不自然な状況の正体に気がついた。


「そんな、えーと、俺はあの……犬の飼い主を本当にその……」


 どう切り抜けるか悩んでいる間に、小屋から続々と屈強な男たちが現れる。全員帯刀していて、非番のため護身用の警棒を持っていないティロは背中から嫌な汗が流れるのを感じた。


「なあ兄ちゃん、どうして俺たちの合い言葉を知ってるんだ?」

「それは、偶然……」

「ちょっと話を聞こうじゃないか」

「うう……」


 そこは、反リィア組織のオルド解放連合のアジトであった。身の上だけならリィア軍の兵士であるティロはここからどう逃げ出すかを必死で考えることになった。


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