第7話 ヒソヒソ
7.ヒソヒソ
アーデルハイドちゃんの行動範囲が広がった!
とはいえ、ようやく育児室から通路を通って中庭まで出られるようになったくらいである。それも乳母かメイドに抱っこされながら。
仕方ないね。なにしろまだ自分の足で歩くことができないのだ。アーデルハイドちゃんゼロ歳。まだまだ赤ちゃんである。
ただ、立っちはずいぶん上手く出来るようになってきたので、それも時間の問題だと思う。
こっそり歩く練習しようと思っても、周りにはほとんど二十四時間体制で誰かしら傍にいるので無理はできない。赤ちゃんっぽく振る舞っているとそこから外れた行動をとるのは不自然だし、変なことをすればすぐ両親に伝わるだろう。
前世をつつがなく一般人として過ごしたスキルは伊達ではない。異質さを隠すつもりがあるのなら、無難に過ごすのが一番である。
今日も自分を納得させながら、マーゴに抱っこされて進んでいると、そのうち育児室は宮殿の一角にある建物のひとつなんだなと理解することができた。
前世のなけなしの知識が合っているなら、宮殿とは、王様が暮らしているお城と行政関係がごちゃっとひとつになっている大きな建物のこと、のはずだ、多分。
何しろ魔女の頃は人間の政治や王政の仕組みなんて全然知らなかったもんなあ。一般人はそもそも世界が違うし。
宮殿はとにかくとても大きなお城で、政治家や貴族、使用人や職人、いろんな人がやたらと出入りする場所だ。その中でアーデルハイドちゃんの育児室のある建物――離宮っていうんだろうか? は結構外れたところにあって、人の出入りもまあまあ限定されているらしい。
かといって厳密に隔離されてるわけでもなさそうで、マーゴとメイド四人組以外の人もちらほらと見かけることは結構あった。
子育ては落ち着いた静かなところでってことかもしれないし、西洋っぽく社交界にデビューする前はあんまり正式に人前に出ない習慣があるとか、そんな感じなのかもしれない。
だから、見慣れない人がちらっと視界に入ることもあるし、なんていうか、その人たちがあんまりアーデルハイドちゃんのことを良く思っていないのも、なんとなくだけれど、分かってしまう。
『あれが唯一の王国の姫君?』
『見た目だけは彼の妃様に似て麗しいという噂よ』
『まあ、見た目だけなんて、ご令嬢ってば』
『だって王弟妃は、先日の夜会にも不参加でしたのよ! ご結婚されている王族であるというのに、お一人で参加されている殿下がお可哀想なことといったら!』
クスクス。
クスクス。
距離はすごく離れてる。多分マーゴも、今日一緒に散歩してくれているサラサとエリナも気づいていない。
じゃあなんで私は気づけるかというと、聴覚じゃなくて魔力の波で音を拾っているからだ。
魔女は人間とそっくりの姿をしているけれど、たまたま見た目が似ているだけで全然これっぼっちも人間じゃない。自然物や人の想いが積み重なって年を重ねた人工物から滴り落ちるように生まれるもので、存在としては妖精とか妖怪とか、ああいうものにずっと近いのだ。
魔女は人間より、ずっとこの世界に満ちている魔素と呼ばれる物質と親和性が高い。地脈にアクセスしてエネルギーを使って肉体を維持し、老化もなければ生殖も行う必要がない。生まれた瞬間から生きたいだけ生きて、生命維持を必要としないくらい満足したり絶望したりしたところで、自然と命を終える。
アーデルハイドちゃんは魔女だった魂と記憶を持っているけれど、王族だけど正真正銘の人間であるク……パパと、魔女の娘だけどこれまた完全に人間のラプンツェルの間から生まれた。
だから絶対にこの体は魔女のそれとは違うはずなんだけれど、魂と肉体がこの世界に定着するにつれて、魔女だった頃ほどではないけれど、強い魔力を扱えるようになってきた。
魔女として、魔素を感じ取ってそれを効率的に扱う感覚を知っているからなのだろうか? 物凄く珍しいけれど、人間の中にも生まれつき魔力を扱うのが上手い者がいて、それらは魔法使い《メイジ》と呼ばれている。
魔法使いの中でも最強クラスになると人間離れしていて、魔素を操って肉体の老化を止めて何前年と若いまま生きる者もいるらしくて、こうなるともうほとんど魔女と区別がつかなくなる。
だから、人間は魔女ではないけれど、魔女っぽい何かになることは可能で、つまり、アーデルハイドちゃんはそうなりかけているということだろうか。
「うーん」
「姫君? どうなさいました?」
「んーん」
ともかくアーデルハイドちゃん、ゼロ歳にして魔法使いの可能性ありである。どんな力も無いよりはあるほうがいいかもしれないけれど、ゼロ歳で自分とママが微妙に……かなりあからさまに、嘲笑されているらしいことを知るのは、あんまりいい気分じゃない。
そう、ママこと娘はどうもというか、やっぱりというべきか、この宮殿でちょっと軽んじられているっぽいのだ。
魔女というのは、正直国家とはあんまり相性が良くない。人間っぽく見えるけど人間とは感覚も価値観も全然違うし、そのくせ強大な力を持っている。歴史の中には国を亡ぼした魔女も、一国を丸ごと数百年の眠りに包み込んだ魔女も、街の子供たちを残らず誘拐する魔女も、色々いた。
そんな力を持っている存在が、自分たちと姿は似ていても感覚も考え方も全然違うんだから、人間側としては怖いだろうし、その集合体である国家と微妙な関係になるのは、これはもう避けられないことなのだろう。
もっとも、魔女のほとんどは人間には興味がないので、触らぬ神に祟りなしを貫いておけばほとんどの場合無害であるし、どの国も基本的に魔女に対してはこのスタンスである。
とはいえ一度「害」になれば被害は甚大なので、魔女は差別されているとまでは言わないけれど――そんな怖いこと出来ないだろう――めちゃくちゃ停滞している台風みたいな、早くどこかに立ち去って欲しいし、出来れば人間に関係ないところでふわっと消えてほしい、そんな存在なのだろう。
娘は魔女に育てられていた平民だし、持っている武器はその美しさと王族であるパパの寵愛、そして娘とはいえ、王位継承権第二位を産んだということだろうか。
突出した特技はないけど玉の輿に乗った後ろ盾のない美人っていうだけで、娘には何の罪もない。
むしろ魔女に囲われている可愛い女の子にこっそり手を付けたなんて軽率な真似をしたあのク……パパが悪いのだ。
でも女社会にはそれが通じない人がいる。
美人で権力者の庇護を受けている、本人には大したとりえもない女。運がいいだけで、容姿がいいだけで、何の努力もしていないのに栄光を掴むなんて、どこまで恵まれているんだろう。
それに比べて私は頑張っているのに。
気に入らない。
ちょっとくらい意地悪なこと言ったりしてもいいよね。
別に表立ってイジメをするわけじゃないし、ラッキーな人生送っているんだから、それくらい甘んじて受けるべきじゃない?
周囲に聞こえないところで群れてこそこそと悪口を楽しんでいる連中の考えなんて、こんなものだろう。
大それた悪意があるわけでもない、気に入らない自分の現状へのちょっとした憂さ晴らし。自分が人を傷つけている自覚もあんまりないし、なんなら未熟で無責任な嗜虐心を、ちょっと楽しんだりしている。
繰り返すけど、娘にはなんの非もない。
透き通るような白い肌も、大きな澄んだ青い瞳も、少し幸が薄そうな色気のある垂れた目も、豊かに波打つ金髪も、娘が生まれながらに持っていたもので、権力者の男をたぶらかすために用意したものじゃない。
魔女に育てられたのだって、責任は大半が魔女と、魔女の庭を踏み荒らした両親が悪いのであって、娘に責任のあることじゃない。
王子との結婚だって、未婚の十四歳の娘に手を付けたのだ。世間知らずの十四歳だよ? 責任取るのは当たり前だよ!
多分そんな道理は、娘をひそひそしている連中にも分かっているのだ。
ただ平民の出なのに王弟妃の座に収まっている娘が美人でラッキーで羨ましくて妬ましい、気にいらない、それだけだ。
――なんだこの国、呪ってやろうか。
魔女の力と価値観だったら本当にやりかねなかったから、今の私がアーデルハイドちゃんで命拾いしたね。
魔女は自然から滲み出した力そのものなので、地脈と繋がることでほぼ無尽蔵の魔力を持っているけれど、大魔法と生命維持には自分の縄張りが必要だ。
それは自分を生み出した存在の一部と、管理している森だったり花が咲き乱れる丘だったり菜園だったりする。
それがなくても毎日ミルクを飲んでつつがなく生きているので、アーデルハイドちゃんはやっぱり人間なのだ。
人間が出来ることには限りがある。少なくともゼロ歳で国を亡ぼすのは、その範疇に入っていない。
残念なような、よかったような。
いや、よかったのだ、うん。
見えているもの、感じるもののひとつが全部じゃないって、私はちゃんと前世の一般人の暮らしで学んだんだから。
母親を悪く言われてその相手に怒るのはまっとうだけれど、それが気に入らないから国を滅ぼしていいということにはならないのだ。
そう思うと、怒りが落ち着いてきて、ふうー、と息が漏れた。
「姫様? 今ため息を吐きました?」
「深呼吸かしら。お可愛らしいわぁ」
「んまあ」
「本当にお可愛らしいですねえ」
「利発だし、素敵な姫様ね」
今日もマーゴとメイドたちはアーデルハイドちゃんにデレデレである。にこっと笑えば五倍の笑みと愛が返って来るのだ。赤ちゃんはすごい。
そんな彼女たちにも宮殿の外には実家があって、愛する家族がいて、親しい友達がいて、片思いの相手とかだっているかもしれない。
うん、やっぱり安易に国を亡ぼしたら駄目だね。
守りたい、この笑顔。
そんなことを考えながら魔素を介する聞き耳をオフにする。情報収集は大切だけど、あんまり聞きすぎると情操教育に悪そうだ。
そうして今日はもう、蝶々がひらひらと舞っている春の庭園の美しさに集中することにした。
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