第6話 春のお庭

 昼は娘が、夜はク……パパが時々会いに来てくれる暮らしを続けているうちに、季節はすっかり春になっていた。


 首が座らない頃は固く閉ざされていた窓も日中は開かれるようになって、そよそよと吹いてくる風がなんとも心地よい。春の訪れは娘の体調にも良い効果を与えたようで、育児室を訪れる回数も多くなった。


 娘とパパは、相変わらず全然一緒に行動していない。というか、まず根本的な問題として、どうやら娘とパパは上手く行っていないらしい。


 愛娘にこそこそと手を付けた上に娶って子供まで産ませておいて、なんということだろう。私にかつての力があったら国を丸ごと呪っているところである。


 そんなことを考えて、すぐにぷるぷると首を横に振る。


 いかんいかん、すぐ呪いでなんとかしようとするのは、魔女だった頃の悪い癖だ。

 それに、前世の一般人の知識があると、それもある程度仕方ないのだろうというのも理解できる。


 なんというか、王弟とはいっても、たぶんパパも複雑な立場なのだろう。


 この世界の文明レベルで、国王の弟が身分の定かじゃない后を貰うなんて多分、とんでもないことだ。


 王族で、王位継承権二位の立場なのだ。もしかして、パパには元々相応しい身分の婚約者だっていた可能性すらあるのではないだろうか? 


 多分周囲は娘との結婚を反対しただろうし、おまけに生まれた子も女の子で、せめて王子ならと思われていたとしても不思議じゃない。


 そんな想像をすると、ムカムカする。

 娘は大変な世間知らずだった。それは魔女の責任であって、娘には何の咎もないことだけれど、イケメンと恋をして艱難辛苦を乗り越えてイケメンと結ばれたと思ったら、そんな暮らしが待っていたなんてあんまりだ。


 いや、かつてはそっち側だった魔女の私が腹を立てる権利はないのかもしれないけど。それに、まだ全部想像だし。本当は何か、どうしようもなく仕方がない、とても複雑な事情があるのかもしれないし。


 ともかく、最愛の娘と再会できたのだ。しかも形は違っても、正真正銘の母娘として!


 魔女は人の営みなんて何も分かっていないので散々間違えてしまったけれど、短かったとはいえ人間として一生を過ごしたことは決して無駄ではなかったと思う。


 これはもう、絶対に娘が幸せに……いや、世界一幸せになるのを見届けろという何か大いなるもののメッセージではないだろうか。


 ……前世のお母さんにも、時が廻ればまた会えたりするのだろうか。ごめんねも、ありがとうも、ちゃんと伝えきれなかった未練を、どこかで満たすことが出来るだろうか。


 またじわりと涙が溢れそうになって指をちゃぷちゃぷとしゃぶっていると、カミラにだめですよぉ、と止められてしまう。

 おしゃぶりが欲しい。切実に欲しい。赤ちゃんは常に何かを吸っていたいのだ。

 前世でおしゃぶりをしていた時期のことはもうほとんど覚えていないけれど、あれは本当にいいものだった。


 おしゃぶりのことを考えながら自分の両親の夫婦関係が微妙そうなことにやきもきしているうちに、また少し時間が過ぎた。自分の足で歩くのは大分難しいけれど、はいはいくらいは積極的にやりはじめた頃だ。


 この頃になるとそれまではどこかふわふわとしていた体と魂が、ようやくこちらの世界に定着したことが実感できるようになってきた。


 前世でも七歳までは神様のうちなんて言葉があった気がするけれど、それを極端にした感じだ。目に見えるものが全部きらきらしていて、自分がこの世界の一部になったのだと自然と理解することが出来た。


「ほら、アデル。お花が綺麗よ」

「んまっ!」

「薔薇には棘があるから、素手で触れては駄目よ」


 そうして、娘に抱っこされて初めて育児室を出たのは春も麗らかな良く晴れた日だった。娘は案外体が弱いので途中でマーゴに抱っこを替わってもらい、庭に出るとまた娘に抱っこしてもらった。


 娘はアーデルハイドちゃんが可愛くて仕方がないのだ。自分で歩ければずっと手をつないでいたいくらいなのだろう。出来るだけ娘の腕に負担がかからないように肩にしがみついていると、くすぐったいわアーデルハイド、とクスクスと笑う声が耳元でする。


 娘はすごくいい匂いがする。香水とは違うけれど、甘いような甘酸っぱいような不思議な匂いで、それを嗅ぐとなんともふわふわとした、いい気持ちになってしまう。

 これが赤ちゃんがママを好きになる匂いというものなのだろうか。乳母のマーゴもメイドたちもアーデルハイドちゃんを物凄く可愛がっているし、私もみんなが大好きなのだけれど、娘は、ママは、やっぱりとても特別な存在だ。


 そう思うとアーデルハイドちゃんの小鳥のように小さな胸が、ぎゅーっと痛くなってしまう。


 まだ赤ん坊だった娘を実母から取り上げたのは、他でもない魔女だった。


 可愛がって育てたつもりだったけれど、それが独りよがりの愛情だったのは間違いない。


 娘がこんなに自信なさげな様子なのも、乳幼児の時期に実母を引き離された愛着障害から来るものではないのか。だとしたら魔女の罪は現在進行形だ。死んで、もう一回死んでも娘は目の前にいるんだから。


「ふえ」

「あら、どうしたのアデル。ほら、お花が綺麗でしょう。お日様もぽかぽかして暖かいわね」


 赤ちゃんの体は悲しいことがあるとすぐ泣いてしまう。ぐずぐずと愚図るのに、最近はすっかり母親っぽくなってきた娘が明るい声で気を引こうとお花が、草が、バッタがと声をかけた。


 娘への罪悪感はあるけれど、今の娘は少なくとも笑っている。娘との初めてのお散歩を、困った記憶にさせたくはなかった。


「お花綺麗ね」

「きえー、ねっ」

「! まあ、マーゴ、今の聞いたかしら!」

「ええ、ええ、姫様は本当にご利発で、こんなに賢いお子様、私は見たことがありませんわ」


 親馬鹿と乳母馬鹿を発症している我が二人の母は、賢い、本当に素晴らしい、将来は美貌と頭脳を兼ね備えた王国の宝と呼ばれるだろうと、きゃっきゃっと明るい声で言い合っている。


 いけないいけない。不肖アーデルハイド、まだ意味のある言葉を放つような年ではないのだ。


 時々抱っこをマーゴに代わってもらいながら庭の散策をしているけれど、赤ちゃんの気を引くために綺麗綺麗と言っているわけではなく、この庭は本当に美しかった。

 この世界は、前回の一般人として暮らしていた世界とは文明の発展が随分違う。王族や貴族はまだ丈の長い華美なドレスを見に付けているし、男性も派手な映画のセットみたいな服を着ている。


 歴史には全然詳しくないけれど、前世で言うならマリーアントワネットとかフランス革命とか、それくらいの時代だろうか。でも西洋の庭のように左右対称のきっちり整ったものではなく、うねるレンガの小道が敷かれていて、つんつんと草が生えている中にハーブの畑があったり、唐突に林檎の木が生えていたりする。


 魔女がいたり魔法があるから、多分前世と同じ世界の別の時代とかではなく、全然違う世界なのだろうし、それなら前世の過去の時代とは、庭づくりの流儀も違うんだろう。


「この庭はね、殿下が王宮の暮らしに慣れない私のために造って下さったものなの」

 庭木に止まる瑠璃色の小鳥を目で追っていると、娘がしっとりとした声で言った。


 庭はかなり広くて、抱っこされて歩くと一周に三十分くらいかかる規模だろうか。これが大きいのか小さいのか生まれて数か月、初めて育児室を出た身では比較対象がないけれど、野放図ではないけれど綺麗な花や果樹がさりげなく手入れされながら自然に近い形で管理されているのは、きっとそれなりの手間が掛かるんじゃないかな。


 人工的にきっちりとやるほうがシステマチックな分楽だよねきっと。春っぽく、夏っぽく、秋っぽく、冬っぽく管理するって、庭師の腕とか美意識とか、きっと色々なものが必要になるだろうし。


 それはク……パパの、妻への愛によるものだと思う。


 ――私、この庭、好きだな。


 人間の造る管理された畑や庭なんて植物たちも半分死体のようなものだと思っていたけれど、ここはそうじゃない。春を終えた柔らかな緑葉の芽吹き、生命力の強いハーブたちは新芽を出して活き活きと伸びてきている。


「アーデルハイドは、このお庭好き?」

「んまっ」

「私がいないときでも、マーゴやメイドたちに連れてきてもらうといいわ。本当はいつも一緒にいたいのだけれど、弱いママでごめんなさいね」

「んーん」


 数日に一度、数時間会うだけでも娘の愛情深さはよく理解できる。可愛くて可愛くて仕方がないアーデルハイドちゃんと離れるのがいつも辛そうだし、会いに来てくれた時は目がぱっと明るく見開くのだ。


 娘はアーデルハイドちゃんを愛している。溺愛していると言ってもいい、多分。

 だからずっと一緒にいれないのは、何か事情があるのだ、きっと。


 ――大丈夫、大好きだよ。


 ぎゅっと抱き着くと、甘えていると思ったのだろう、背中をとんとんと優しく叩かれる。


 本当は私が、あなたを抱きしめて、力づけてあげたいのに。


「そうそう、奥にいちごの農園があってね。あと少しで食べ頃なの。熟したら小鳥に取られる前に、一緒に食べましょうね」

「んっ!」


 そんな返事だけで、娘はとろけるように笑ってくれる。


 赤ちゃんであることがもどかしい。


 あなたがずっと笑っていてくれるなら、私は、なんだってしてあげたいのに。

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