精霊王子と死者の王国

ヨシコ

第一話 惑い迷いて従者は立ち尽くす

 一年が過ぎた今でも、鮮明に残っている。

 床に押さえ付けられた王子の首を、この手で斬り落とした、あの瞬間が。


 刃を通して感じた骨を断つ感触が、消えない染みのように残っている。


 革命に手を貸し、王宮に雪崩れ込んだ民衆の先頭に立ち、国王夫妻の首を刎ねた。

 そして、子どもの頃からずっと従者として仕えてきたあるじを、王子をこの手で殺した。


 斬り落とした王子の頭が、足元に転がってきた。その顔があまりにも穏やかな表情を浮かべていたから、正しい選択だったのだと、そう思った。思いたかった。


 過去に戻ることができたとしても、きっと同じことをする。

 それなのに何度も夢に見るのはなぜだろう。


 どれだけ繰り返しても、同じ答えに行きつく自問自答を繰り返している。

 俺は、間違っていたのではないか。取り返しのつかない、間違った選択をしたのではないか。


 この国の王家は、精霊の加護を受けている。そう伝えられているが、あくまで伝承やお伽噺の類いだ。

 本気になどしていなかった。それでも、思ってしまった。


 加護とは、なんだろうか。

 命を絶たれるその瞬間より、加護されるべき時があるのか。


 振り下ろした刃が王子の首を捉え、肉に食い込み、骨を断つその瞬間も、落ちた首が跳ね、床を転がっても、精霊も精霊の加護も現れることはなかった。


 城門前に晒された首を見た民衆は、歓喜の声を上げた。

 王子をこの手で殺した俺は賞賛され、民衆は王子の頭に向かって唾を飛ばし、石を投げた。


 この国が向かう先に、安寧などあり得るのだろうか。





「――アンリ?」


 ルイーズの声に、意識の外にあった喧騒が戻って来た。感じていた血の匂いは、どうやら錯覚だったようだ。

 ぼんやりとしていたらしい。通りすがりに視界に入った、城門広場のせいだろう。


 すでに革命から一年が経った。

 広場に並んだ首はなく、広場の向こうには虚ろになった王宮が残されているだけで、血生臭い気配もない。


 昼前の市場は閑散としているものの、店は開かれている。露店には各地から集められた商品が並び、それらを吟味する客がいる。城門広場を、血に濡れた過去などなかったかのように、買い物途中の親子連れが通り過ぎていく。


 腐敗した政治に疲弊していた一年以上前と比べれば、ましな光景ではある。だが、あの頃多くの者が心に描いていた未来には程遠い。


「アンリ、ねえ大丈夫?」


 往来で立ち尽くしていた俺を、ルイーズが覗き込むように見上げていた。

 外出時いつもそうしているようにフードを深く被っているが、見上げられればその相貌はよく見える。


「ひどい顔色よ」


 血の繋がらない妹。幼い時からさんざん見てきた、見慣れた顔だ。

 そして今し方、記憶の中で斬り落とした王子によく似ている。


「具合が悪いなら」

「いや、大丈夫だ」

「でも」


 労るように見上げてくるその目が、ふと何かに気付いたように瞬きをして、背後を振り返った。逸らされた視線に安堵して、ルイーズの視線にあるものに密かに息を飲む。

 やはり、一緒に外出などするべきではなかったかもしれない。


 その出生から、家に閉じ籠っていることの多いルイーズだが、最近よく外出をしたがる。放っておけば家の壁を眺めているだけの俺を、心配してのことだろう。


 だがルイーズ自身も、割り切れているわけではない。


 ルイーズが振り返った先にあるのは、俺が見ていた城門広場。そして、その先にある王宮の高い塀。

 こちらに背を向けたルイーズが、どんな表情をしているのかは見えない。


「……ああ、そうね。ここに、ルイは晒されて、石を投げられたのよね」


 ルイーズの声から、温度が失われた。


 一年前に死んだ王子が、双子であったことを知る者は限られている。

 十九年前、不吉なものとして生まれてしまったその片割れを、神官長であった俺の父が引き取り、養女としたことを知る者も。


 こちらに向き直ったルイーズが、小さく首を傾けた。いつかの王子がそうしたように。


 双子で生まれたルイとルイーズ。生まれてすぐに引き離され、育った環境はまるで違う。

 それでも時折、驚くほど似通った仕草をすることがある。


「そんな顔をするものではないわ。腐敗した王家を根絶やしにした英雄が。いえ、根絶やしは嘘だったわね。まだ一つ、落とすべき首が残ってるもの。……ああ、違うわ。首の数は、間違っていなかったのよね」


 その唇がわずかに持ち上がり、弧を描く。

 どんなに非情な決断に迫られた時でも、常に微笑んでいた王子とは異なり、ルイーズが柔らかい表情を浮かべることは珍しい。


 王子が皮肉混じりの笑みを見せていたら、今のルイーズによく似ていたに違いない。


「本当に顔色が悪いわよ、アンリ。倒れられても私じゃ運べないんだから。家までちゃんと、自分の足で歩いてちょうだいね」


 そう言ったルイーズの細い腰に、何者かの腕が回された。


「――そんな言い方をするものじゃないよ、ルイーズ。アンリが可哀そうじゃないか」


 くすくすと笑いながらまるで恋人にするように、ルイーズの肩に顎を乗せる。

 聴こえた声と、その顔を認識した瞬間、世界が歪んだような気がした。


「……あーあ、人の顔見た瞬間吐くとか、アンリってば失礼じゃない?」




* * *




「とうとう市場に出る店が半分ぐらい? 根性ないよねえ。折角がんばって悪い王家をやっつけたってのに」

「……今年は気候が安定しなかったから、作物が少し不良だっただけよ」


 ルイーズと、もう一人の話し声が聴こえてくる。まるで悪夢の続きのようだ。


 往来で吐いて、昏倒したことは覚えている。

 どうやら手を煩わせてしまったらしい。背中に感じるのは固い床。濡れた布が視界を遮ってはいるものの、住み慣れた家の匂いがする。


「来年はきっと賑わうわ」

「君がそう思いたいなら、それでもかまわないけどね」


 王家を加護する精霊が現れたのは、王子が死んで、革命が終わってからだった。

 精霊曰く、加護は建国王の血筋に対するものらしい。

 今その血を継ぐのは、王子と双子で生まれ、素性を隠し暮らしているルイーズだけだ。


 精霊は、こともあろうに、死んだ王子の身体に寄生していた。

 この手で落とした王子の首が、討ち捨てられた王子の身体が、今も目の前で生きているかのように動いている。


 本当に、悪夢だ。


「そこの寝たふりの従者クン、どうなの? キョーワセイ、だっけ? そろそろ皆、思い知ったかな?」


 聞き慣れた王子の声が、この国の今を訊ねてくる。


 一年前の革命の後、この国は、君主を持たない共和制に移行した。

 貴族議会を廃止し、民衆による政治が行われようとしている。とはいえ、これまで政治とは無縁だった者たちが、簡単にできるようなものではない。神官や役人、一部の貴族たちの下支えがあって、どうにか体裁を保っているような有様だ。

 それを妨げるように、この一年気候が安定せず、地方では大規模な地震によって被害が出、民は不安を感じ始めている。


「何度も説明したけど、この国は精霊の加護無くしては成立しない。土地が悪いからね。政治のことなんて知らないけど、早いとこ王を玉座に座らせちゃった方がいいと思うなあ」


 そんなことは分かっている。今の体制が、長続きしないことも。

 それでも再び同じことを繰り返さないために、民に望んで貰いたい。王という存在を。


 玉座には建国王の血を継ぐ者を座らせるべきで、その資格を持つのはこの世にもう、一人しか存在しない。


「それは、私のことよね。アンリを責めるのは筋違いよ」


「そうだね、君のことだよルイーズ。でも、アンリの選択でもある。ぼくと建国王の契約……正確には、ぼくの先代だけど。国を想う契約者の気持ちがあるから、この国に対する加護になるだ。こんなところに隠れていても意味はないんだよ。どうせなら効果的に使ってくれないと。加護の甲斐がないじゃないか」


 ルイーズに応えた王子、いや、精霊が近付いて来る気配がする。同じ身体でありながら、床を鳴らす靴音は王子の足音より、遥かに軽い。


「もう迷ってる段階じゃないよね? それとも国も民もみんな一緒に、凄惨な終わりを迎えたいのかな?」


 濡れた手巾が捲られて、目の前に王子の顔があった。少しも損なわれることのない相貌は、ルイーズによく似通っている。

 一年経っても腐ることのない死体。王子からはしなかった、草木のような香りがする。


「泣いても吐いても、もう後戻りはできない。だって、そうだろう? 王家の者達を次々その手にかけたのは君だよ、アンリ」


 柔らかく微笑む王子の顔、だがその瞳はまるでガラス玉のように無機質で感情を映さない。


「そして民衆を革命へと導き、主導したのはルイーズだ。君たち二人が、王家を転覆させたんだから」


 その声は歌うように甘やかでありながら、氷柱のように鋭く冷たい。

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