第9話 最後の砦
和也はそのまま悠子の手を引き、車の助手席のドアを開けて誘導した。先程から悠子の様子がおかしい。老人の話に違和感を感じているのか、それとも存在している神社が見つからなかったことに対して機嫌を損ねているのかもしれない。
和也は運転席に腰を沈めると、やはり気になってしまうのか黙ったまま助手席に座る悠子の顔を不安気に見た。
「ん……ごめんなさい。行きましょう」
悠子は彼の視線に気付くと、乾いた笑顔を見せた。それが一層和也の不安を掻き立てた。不用心な質問をするとさらに悠子が気を悪くして思い詰めてしまうのは目に見えていた。和也は「うん」と一言発すると、レバーを下げ車を発車させる。
いつの間にか外は陽が沈み、藍色の闇に包み込まれていた。薄い霧の隙間から三日月が顔を覗かせている。少し先に進むと、太陽の光を思わせるオレンジ色のライトが彼らを出迎えていた。そのライトは半円を描いいたまま徐々に大きくなる。見えてきたのは長いトンネルの入り口。トンネルに入ると、暗闇から褐色の光に照らされた悠子の顔を一瞬だけちら見する。彼女の頬から何か光り輝く粒のようなものが伝っていた。
彼女は泣いていた。その瞳からは誰が見てもわかるほどの恐怖が滲み出ていた。見れば分かる。それは紛れもなく『死』に対する恐怖であった。病気だと診断された直後に真悠が同じような顔をしていたのを和也は覚えている。
「悠子さん、きっと大丈夫です。助かる方法はあります」
和也は堪えきれず、悠子を励まそうとした。だが悠子には響いていなかったのか、肩を振るわせながら咽び泣き始めた。
「怖い……死にたくない。私、もうどうすればいいか分からないの……。このブローチのことが書かれてないか、そこら中の図書館に行ったし、ネットでも調べた。でも、何も載ってない……。なにひとつですよ。この町に来たのはこのブローチのことを調べるため。でも……結局何も進展ないなんて……」
悠子は震える声を抑えながら嘆き始めた。
「お母さんは、どうやってブローチの情報を手に入れたんでしょうか? 和也さん……やっぱりお母さんのところに戻るべきなんじゃないですか? もう一度ちゃんと話を聞きましょうよ」
悠子は和也を説得しようとしていた。気持ちは確かに分かる。だが、和也にとって義母はもう信用に値しない人物であった。怒っている原因は義母自身ではない。自分や真悠を監視し、最後まで真実を隠し通そうとしていた態度に対してであった。
長い間身の回りの世話をしていた和也にとって、義母は実親や真悠の次に大切な家族同然のような存在であった。和也は義母に隠し事など一つもせず、悩みがあれば打ち明けられる仲であった。真悠が亡くなり、家のローンの返済に困っている時も親身になって相談に乗ってくれていた。なのにも関わらず、義母は和也に対して、真悠に対しても嘘をつき、隠し事をしていたのだ。その隠し事のせいで真悠を失った。
戻ったとしても、あの時に見た地獄の底まで堕とされたような沈み切った瞳で何を語れるというのか。
「悠子さん、落ち着いてください。とりあえず、今日はもう探索はやめましょう。お互い少し休んだほうがいいです。僕の部屋ひとつ空いてますから、明日また図書館に行って手帳を借りましょう。何か重大なことが書かれているかもしれません」
トンネルを抜けしばらく林道を通ると、街灯が点々とし始める。店や住宅の電灯が暗い夜の町を照らしていた。光の町に辿り着くと、一際目立つファミレスの看板に目が行く。
「少し休憩しましょうか」
ファミレスの扉を開くと、店内を漂うさまざまな食材や調味料の香りが鼻をついた。店員が窓際の席を案内すると、和也は夜にも関わらず日除のブラインドを下ろした。
「ごめん……気が付かなかった。違う場所がいい?」
「あぁ、大丈夫です。窓なんてあんまり見ないんで」
外が暗くなると窓は自分の姿を反射させる。彼はそのことに早々気がつき、悠子の姿が映し出されないようにするための配慮であった。
「さっきはごめんなさい、取り乱しちゃって……。しばらく長いこと町を歩いてたから、ろくに食べてなかったんです。そのせいかな……頭おかしくなってた」
悠子は頬に被さった栗毛のロングヘアを耳にかき上げる。姿を現した頬は赤らんでいて恥ずかしそうに目線を下ろす。
「そうなるのも無理ありませんよ、悠子さん。普通では考えられないことが起きてるんですから。それに、僕は自分の身よりも悠子さんのことが心配なんです」
和也にとってはもう他人事ではなかった。ここで全て投げ出して逃げるわけにはいかない。事実、悠子の夢の中に真悠の姿をした存在が現れて助言をしているのは、真悠のことと何か関係があるはずである──それに、自分も同じような体験をしている。
「明日、私ひとりで図書館に行きます。和也さんはその間、お母さんに会ってきてもらえませんか? 一緒に行こうかと思ったけど、やっぱり私がいると、変な空気になっちゃうかもしれないから。お互いやること終えたら、またこのファミレスで落ち合いましょう」
悠子の言葉を聞いた和也は一瞬目線の焦点をずらした。あんな言い合いをした後だ。結局は必ず彼女から何かしらの情報を聞き出さなければいけないのは分かっている。だが、どんな顔をして帰れば良いだろうか。
「あなたが言うならもう一度会ってきますが、お義母さんには、具体的に何を聞けばいいんですか?」
和也は本当に言いたかったことを後回しにして、義母に合う理由を聞く。あまりあの場所にはいたくない。手短に済ませるための対策である。
悠子が口を開こうとした瞬間、店員が絶妙なタイミングで水を運んできた。二人は店員に対して軽く会釈をし、話の本題に戻る。悠子はさっきよりも声を顰め、少し肩をすくめながら話し始めた。
「志也家のことです。どうして志也家が神津家の人間を恨むようになったのか、お母さんは何も言いませんでした。呪いを止めるのが目的なら、わざわざ呪詛返しをする必要はありません。お母さんも言ってましたよね? 神津家に復讐するために近づいた、ところが真悠さんを孕ったところで立ち止まったって。でも、おかしくないですか? 変なこと聞きますが、最初から復讐が目的なら、なぜ真悠さんを孕ったのでしょう? 色々と引っ掛かる点が多いんです。元々そういう目的ではなかったとしたら?」
悠子が感じた違和感が、行き往生していた思考回路の溝に気持ちが良いほどはまり込む。ただの復讐が目的なら、さっさとその相手を倒せば終わるはずだ。だが、義母はそうしなかった。わざわざ神津の血を継いだ子供を作ったのだ。それ自体に意味があるのだとしたら──。
──『因果』を移すことだ。
亡くなった夫婦に赤ん坊の真悠を合わせたのは偶然ではない。因果を移すための策略。義母は夫婦を因果から救おうとしていたのではないだろうか。恨みの相手に対して、幼い子供を合わせようとは思わない。だとしたら、最低夫婦のどちらかは志也家と密接な関係にあると思われる。だが、因果を移しても夫婦は亡くなってしまった。それと同時に、義母は真悠の『死』を予期していたのではないか。真悠は、義母にとって都合の良い防壁に過ぎなかったというのか。あまりにも緻密で機知に富んだ計画である。だが、結局自分の娘は捨てきれなかったのだろう。次の因果を移す相手を探していたのだ。そして選んだのが、元夫の再婚相手の子供──悠子であった。
──真悠が亡くなったのは『因果』が原因なのか?
だとしても、その因果により引き起こされる『災い』というのが具体的にどのようなものなのか見当もつかない。それが分からない限り、悠子を守る術を見つけることはできない。その災いが病気か事故か、はたまた自殺のような『死』に直結する何かが起きることは言うまでもない。だが、それがいつ、どのタイミングで起きるのか。いつまで自分の神経を尖らせなければいけないのだろうか。
いざという時にメモしておいた電話番号が役に立った。『神津佐世子』の電話番号だ。確かではないが、本家であればもちろんのこと、両方の姓名を知っている可能性がある。だが、時計を見ると既に夜の七時半を回っている。いい加減、このこんがらがった頭を休める必要がありそうだ。
「そうなればひとつ提案があるのですが……。悠子さんも一緒にお義母さんと会って欲しいんです。もちろん、──全ての材料を整えた上で──。できますか?」
和也はようやく伝えたかったことを言葉にすることができた。悠子は「はぁ」と不思議そうに応答しながら首を縦に振った。
「でも、私なんかが……大丈夫でしょうか?」
「このまま有耶無耶にしてしまっても、あなたにとっては良くないことだと思います。血は繋がってなくても『お母さん』を探していたんですよね? もう隠さなくていいんです。親の愛情を望むのは恥ずかしいことではありません。大人になってからも誰かに愛されたいものです。僕もそうだったから……」
「え……」
悠子の目尻から涙が浮かび上がってきた。実の父も母も失い、ただその『恐怖』を理解してくれる人を探していた。
母は過保護で時々鬱陶しい存在であったが、愛情深く、いつも彼女を気にかけていた。あの時手紙から何かを感じ取り、遠ざけようとしてくれたのだ。しかし、そんな母を病で失い、興味本位で触れてしまったこのブローチが生み出した因縁と葛藤しながらも、やっとの思いで送り主を見つけた。それまでにどんな孤独と不安が彼女を待ち受けていただろうか
──どんな恐怖を味わってきただろうか。
和也は涙で滲む悠子の瞳を、真っ直ぐ見つめる。
「私は、その……」
次から次へと溢れる涙を抑えきれず、水と一緒に渡された濡れナプキンで濁流のように流れてくる涙を拭う。和也は内心動揺していたが、悠子の涙が枯れるまでずっと見守っていた。
数分してようやく落ち着いてくると、悠子は鼻を啜り、溶けかけた氷が浮かぶ冷水を持ち上げ一口含んだ。キンキンに冷えた水が口内へ広がっていき、歯の間に浸透していく。苦しさで悲鳴をあげていた頭脳が、その温度で徐々に癒やされていく。その間、自分が本当に頼るべき人間がここにいることに少しばかり安堵感を覚えた。
悠子は穏やかな微笑みを見せ、「ありがとう」と心の底から感謝した。その笑顔は真悠とは似ても似つかないものであったが、彼女の内心の『思いやりの強さ』は、真悠とほとんど変わらなかった。彼には彼女の心の脆さと可憐さを同時に理解することができた。
悠子は突然「はっ」と息を漏らし、何か思い出したように目を丸くした。
「その前に、お会いして欲しい人がいるのですが……。食事が終わったら、和也さんの自宅でビデオチャットしてもいいですか?」
「大丈夫ですよ。でも……この件に関わることですか?」
「もちろん。私、実は東京の大学で古典民俗と文学を専攻していて、そういうものに詳しい先生を知ってるんです。今もたまに連絡を取り合うんです。現在は体調を崩されて退職してしまいましたが、もしかしたら何か知ってるかもしれない。博士号も持ってるのですごい人なんですよ。もっと早く気がつけばよかった……」
──『呪術』に詳しい先生か。
一体どういう人間なのだろうか。大学生というものを経験したことがない和也にとって、悠子が少し羨ましく思えた。
──もしかしたら頑固で話し辛い相手かもしれない。
和也はあれこれ思いを巡らせつつ、メニューを見ていた。
「俺、この自家製カツカレーにしようかな」
「では、私はナポリタン大盛りをひとつ。あっ、あとプリンアラモードも」
「けっ、結構食欲すごいですね……」
「これでも大食いなんです。すぐにお腹空いちゃうんだもの」
悠子はあどけない笑みを見せる。冷たく重い空気が、徐々に温かく余裕のあるものに変わっていった。
──その思いで『因果』を弾き飛ばしてほしい。
ただ、和也は悠子が死の鳥籠から解放され、羽ばたいていく姿を見届けたいと願っていた。
淡い光を放つテーブルランプの側にあるベッドで眠る悠子の姿があった。真悠が最期を迎えるまで使っていたベッドで、彼女は安らかに眠っている。木製であったため、長年の劣化で所々角が削れ、寝返りする度に『ミシミシ』と不吉な音を鳴らせてくれる。
今夜悠子が訪れるまでは、誰ひとりとしてそこに近づく者はいなかった。このままにしておけば、いつか真悠が帰ってくるのではないかと、隣のベッドで叶うはずもない帰還を待ち続けていた。もう真悠はいないと確信するまでに半月以上はかかった。それ以来、和也はこのベッドがある部屋で寝ることはなくなった。思い出したくなかったのだ。ここには楽しい思い出はなく、最後の願いを叶えられず──真悠を失った場所──であったから。
真悠が使っていた赤と白の水玉模様の毛布を肩まで被せ、寝息で毛布が上下に動く。和也は落ち着いた表情でその姿を傍で見つめる。何故だか今はこのベッドを怖いと思っていなかった。彼にはその理由が分からない。それよりも、守るべきものが側にいることが彼にとって重要だったからかもしれない。
「ん……和也さん……。ごめんなさい、私寝ちゃってたみたい。なんかこのベッド居心地良くて」
「悠子さん、今日はもう休んでていいですよ。ビデオチャットは明日にしたほうがいいです。今日はもう遅いし」
悠子は目を擦りながら和也の方を向くと、ゆっくりと首を縦に振った。
「和也さん……ここ、素敵なお部屋ですね。建物も汚れてるって言ってましたが、私には豪邸に見えますよ。私と母はボロアパートに住んでましたから……。父が出て行ってから母はひとりで私を育てて、家計が厳しかったんです。生活のために欲しいおもちゃも、着たい服もみんな我慢して、友達と遊ぶことも極力避けてました。貧乏なのがバレてしまうから。よくからかわれたんです……。父は……倒れるまでどこで何をしていたのでしょうか? まるで私たちから避けるようにしていなくなったんです」
悠子は仰向けに寝そべり、天窓から点々と光り輝く星に見惚れていた。しばらくして悠子は物悲しげに和也の方に視線をずらした。
「父は倒れた日、どこに行こうとしていたのでしょうか? お母さんの話によると、父はほとんど通らない場所で倒れてたって言ってました。よく行くパチンコや居酒屋の道でもない。気になるんです……。もしかしたら、父もあのブローチのことを調べてたのかもしれません」
悠子は天窓の方に向かって傷ついた手を伸ばす。その傷をじっと見つめ物思いに耽っていた。降り注ぐ月光に照らされ、細長い指の輪郭がはっきりと映し出される。遠目では月光の陰になり、手の甲の傷はあまり目立たない。だが、和也はその傷の位置や大きさをはっきりと覚えていた。
「前から気になってたのですが、その手の傷はどうしたんですか?」
隣のベッドで腰掛けていた和也は、その傷ができた経緯を知りたい好奇心から悠子に尋ねた。悠子は小っ恥ずかしげにちらっと和也の方を見ると、左手でその傷を隠すように腕を下ろした。
悠子は傷跡が残る右手の甲を優しく摩りながら、どこか決心がついたような面持ちで話し始めた。
「鏡を見たとき気を失って倒れたんです。その時にできた傷……。最初にあの顔を見た時の記憶が忘れられない……。まるでモンスターを見てるような感じだった。私のようには思えなかったんです。傷ついた『異形の怪物』ですよ。神津家がどんな酷いことをしてたのか暴いてやりたいんです──自分の先祖だとしても……。そうしなきゃ、私はずっとこの怪物と一緒にいることになってしまうから」
真悠も彼女と同じだったのだろうか。何年も何年も、自分の心を八つ裂きにしてくる鏡の世界の自分に苦しめられていたのだろうか。それを知らず、彼女に対して一直線な恋心しか抱かなかった無知な自分を真悠はどう見ていたのだろうか。
「真悠さんも……きっと苦しかったでしょうね。誰にも言えない気持ち、分かるんです。言ってはいけないような気がするの。無意識のうちに自分の中に閉じ込めてしまう。そうすれば、誰も失わずに済みますから……。でも、誰かと一緒にいる限り、ずっとそのままにするわけにはいかない。お母さんも、お父さんも、本当は真実を話したかったのかもしれません……。悪気があって隠してたわけじゃなくて、きっと『愛する人を守るために』口を閉ざしてただけなのかも……。私にはそう思うんです」
義母に裏切られた気持ちになり塞がっていた和也の気持ちを察しての言葉だったのであろう。愛する人を守るためならば、義母は純粋無垢な愛娘の真悠より呪われた夫婦の方が大事だったのだろうか。義母には必ず夫婦と接触する動機があったはずである。
悠子は言い終えてスッキリしたのか一度だけ深呼吸をし、体をずらして横向きになり和也が座るベットを真っ直ぐ見ていた。
「だから、和也さん……。恨まないであげてくれませんか? お母さんのことも、お父さんのことも……。私にとっては、両方とも大切な『家族』なんです。完全じゃなくても、半分血が通っているんです。怒る気持ちは分かります。私もあの時は混乱してて『酷い』なんて言ってしまいました……。謝りたいです」
静かに、子供を宥めるような柔らかい声で和也を説得した。だが、和也はうろたえていた。
何か思い詰めたようにベッドから立ち上がり、落ち着きなさそうに寝室のドアとベッドの間をうろうろし始めた。許すか否か、頭の中で葛藤している。お互いの理論が攻撃し合う。和也にとっての『愛する人』は真悠だったからである。
真悠は自分にとって大切な『家族』であり──自分が守るべき存在──であった。だが、彼女の本当の気持ちに応えてあげることができなかった責任を感じていた。
和也は悠子から目を逸らし、反対方向を振り向いた。
「いっ……うっ、ああっ!!」
直後、悠子の悲鳴が背後から聞こえてきた。何事だと思い振り返ると、彼女は下腹部を抑えうずくまっていた。顔を歪めながら、おそらく痛みの患部であろう場所を押さえつけている。
「悠子さん……悠子さん!」
和也はベッドから崩れ落ちそうになる悠子を支えながら仰向けに寝かせた。
「何だ……」
ふと彼女の下半身を見ると、ベッドのシーツに赤い液体が染み付いていた。
──まさか、これ……。
それは膣から出血していることを意味していた。さっきまでは何事もなく元気だったのに、突然の出来事で焦りが出始める。
その光景を見て、あの時の夢を思い出した。レッカー車が来る直前、あの悠子も突如下腹部を抑え具合が悪そうにしていた。
──まさかあの夢は、現実と繋がってるのか? 真悠は悠子に起こることを俺に伝えてきてる?
焦りで手足も出なかった和也は、それを確信した途端速やかに一一九に電話をかける。救急車が来るまでタオルや毛布をを何重にも重ねて出血部分の下に敷き、血液の浸透を抑える。
──早くしないと失血死するぞ。
和也の額から汗が滲み出ていた。
「や……やだ……助けて……」
悠子は呻き声をあげながら、和也のTシャツの袖部分を強い力で握りしめた。
和也は袖を握りしめる悠子の手を離し握り返してあげた。彼の手にはタオルを敷いた時についた血が付着したままだった。だが、衛生面をことを気にしている余裕は彼にはなかった。
「頑張れ、悠子。もうすぐの辛抱だから……」
悠子の意識は次第に朦朧としていく。彼の頭の中に、抗がん剤で苦しんでいた時の真悠の姿が重なり合った。
『苦しい──助けて──』
真悠の苦渋に満ちた声が、幾度となく脳内で繰り返される。
──もう、失いたくないんだ。
「クソ……何なんだよ。何でこんなことに──くっ」
和也は握っているにも関わらず徐々に冷たくなっていく悠子の手に額をくっつけ、咽び泣いた。
敷き詰めていたタオルは意味を成さず、赤い染みは広がりシーツの中まで徐々に浸透していく。直接押さえつけて止血することも考えたが、女性の陰部など素手で触れる自信がない。下手に処置をしたら、今度は血液が子宮から外部の臓器に漏れ出す危険性がある。子宮に損傷が出ているのであれば尚更危険な行為だ。あれこれ考える内に、悠子が助かる確率がどんどん低くなっていくのは分かっていた。
枕を悠子の腰の下に敷き、少しでも血の流れを食い止めようとした。
「ひっ、ひっ」
出血してから数分で悠子の呼吸に異変が出てきた。顔は蒼白になり、しゃくりあげるように呼吸をしていた。どれだけ息をしても酸素が吸えていないのか、呼吸困難になり始めていた。悠子は痛みと呼吸苦で激しく胸を上下させながらも、虚な目で和也を見つめていた。
「いや……いやだ……しに……たくないよ……」
悠子の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
──どうすればいいんだ……。
和也は自分の無力さに腹が立ち、頭をくしゃくしゃに掻きむしる。数分前に替えたタオルは血液をほとんど吸い、真っ赤に染まり上がっていた。
洗面所から新品の最後のタオルを持ち、寝室に駆け込む。
「ごめん、悠子さん……。ちょっと触るからね……」
和也は寝巻きのワンピースをゆっくりめくり、パンツの上からそのタオルをそっと股に押し当てる。いつまで経っても出血は止まっているように感じない。彼女の股の間から凄い勢いでタオルに血液が浸透している感触が伝わってくる。
「ごめんな、悠子さん。こんなことしかできないんだ……」
泣きながら和也が言うと、出血する股を押さえながらもう片方の手で悠子の右手を握った。
「大丈夫。ここにいるから……もうちょっとで病院に行ける。頑張って……息をするんだ……悠子……」
「ん……、うっ、ゴホゴホッ」
悠子は和也の言葉に反応し大きな呼吸をしようとするが、息をする度に腹部に激痛が走り、上手くできていないようだった。それでも何度か繰り返そうとするが、その度に苦しさが増していく。
「お……かあ……さん……」
悠子は弱々しい声で母親を呼んだ。それがどちらを意味しているのか和也には分からなかった。
外から救急車のサイレンが響き渡る。自宅の前でサイレンが鳴り止み、『ガチャガチャ』と外から担架を出す音が窓の先から聞こえる。
「悠子さん、聞こえる? 助けが来ましたよ。もう大丈夫だから……」
「う……あ……」
和也が声をかけた直後、握られていた悠子の手の力が緩み、覆うようにして挟み込んでいた和也の手から滑り落ちた。ベットの上に『ボトッ』という音を立てて垂れ下がる。和也の言葉は、もう悠子には届いていなかった。
「悠子さん……? 悠子さんっ!」
和也は必死に悠子の肩を揺さぶる。呼吸で激しく上下させていた胸の動きが止まっていた。だが、悠子の目は半開きで和也の顔を見据えたままだった。
初めて出会ってからわずか半日。彼は、出会って間もない女性の死を目の当たりにしてしまったのだ。
──嘘だろ……こんなこと。
「嘘だぁぁぁっ!」
彼は体温を感じられない悠子の亡骸を抱いて泣き崩れた。
『死』は突如として訪れる。今まで何気なく話していた相手、数時間前まで、大盛りのナポリタンとプリンアラモードをたえらげ、自宅に来ると気持ち良さそうにシャワーを浴び満足そうにしていた。やっと自分に心を許したと思っていた悠子が、何の予兆もなく突然大量に血を流して息絶えた。今この状況こそが夢であってほしい。真悠の時もそうであった。ただの『悪夢』であってほしかった。
和也は手を伸ばし、半開きのままになった悠子の目をそっと閉じてあげた。その表情からはもう苦しみは消えていた。あれほど『死』を恐れていた彼女は、穏やかに眠っているように見えたのだ。
ベットの上に仰向けに寝かせ、再び毛布を首元まで被せた。自分にとって、今できるせめてもの弔いだった。
冷たくなった彼女の額を、綺麗な方の手の指先で優しく撫でる。
──こんなことになったのは、俺のせいだ……。
心の中で、悠子に対して詫びた。そして、悠子を救ってやれなかったことに対して真悠にも詫びた。これからどうしていけば良いというのか。
ふと、彼女が直前に言った『先生』という言葉が頭をよぎった。
──『先生』って誰なんだ?
結局、その『先生』のことを悠子が口にすることはなかった。
独りになった部屋を隅々まで見渡す。ランプが置かれた引き出し付きのテーブルが半分開いていることに気がついた。ゆっくり開くと、彼女が持っていた蜘蛛の柄のブローチが中に入っていた。その下には半分に折られた付箋が挟まれていた。ブローチに指が触れないように、ゆっくりとその紙を引っ張り出す。
筒宮 竜司(つつみや りゅうじ)
長塚市大宮大学・文学部教授(日本民俗研究会顧問)TEL 04-2163-3915
──この人だ。
和也はその紙をジーンズのポケットにしまう。そして、直接触れないようにブローチをハンカチで包み込んで、ショルダーポーチに押し込んだ。
救急隊を迎えるために部屋を出ようとした。
『和也さん……』
その時、力無い声で悠子が後ろから呼びかけてくるような感覚に陥った。恐る恐る振り向くが、彼女は永い眠りについたまま、起き上がることはなかった。だが、彼にはまだ彼女が生きているような奇妙な錯覚に陥っていたのだ。
「悠子さん、ごめんなさい」
和也は涙を流しながら一言だけ呟くと、ゆっくりとドアを閉じ部屋から出ていった。
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