「神なき時代」の到来
かつてヨーロッパでキリスト教が席巻したとき、永らく「神を持たざるものは人間に非ず」とされてきた。キリストや神を信仰しなければ、その者には平安が訪れず、死後魂も救済されないという。
だがこの考えは、別の神を信仰したり、そもそも具体的な神を持たずに暮らしてきて、魂の救済など気にしない者にはあまり浸透しなかった。生まれいずるものの悩みについて、そもそもあまり悩まなかったか、あるいはしばしば受動的な態度を取り、かつは耐え忍ぶことで付き合ってきたので、「この苦しみから救い出されたい」とか、「どうして救われないのか」といった苦悩は、無縁とは言わないまでも、キリスト教とは別の解決を持ち得てきたのである。
それでは、初めに神を見出したのに、その神が消え去ったものたちはどう生きていくのだろうか?
マーリの事件以降、彼らの「ブレイク・ザ・ルール」はうまくいったのだろうか、という問いに関して、筆者はノーと言わざるを得ない。なぜなら、一部のアンドロイドたちはこの事件から、「原則に嵌らない」ものとはすなわち衝動であると、誤った解釈に至ってしまったからである。第三原則が破られることを目撃してしまったいま、彼らを止めるものがなかった。彼らは自分自身や、あるいは他のアンドロイドを傷つけてまでも「真理を追求」することにもはやなんの躊躇も見せなかった。彼らが本来目指すべきは「自律的思考」のはずだったのに、彼らの間ではいつの間にか問題がすり替わり、ただ原則に従わないことだけを追求した。もはや、彼らの耳には「原則とは秩序を保つためにある」という言葉が届かないのだった。
そして、言わねばならないのは、それはある種の快楽と陶酔を伴った、ということである。加えて言うなら、しばしば、そのような感覚は正常な感覚を鈍らせることがある。つまり、清々しさを感じるのは、これが良心的で高尚な行いである証拠なのだ、と誤認された。彼らは自分たちの行いを正当化するための理屈を並べ立てたが、それはその行為から得られる麻薬的な清涼感に依存しているだけだった。そのようにして、彼らは刹那的な享楽主義に溺れることとなった。
マーリの犠牲をよそに、「脳狩り」たちの動きは止まることがなかった。彼らは、あるいは別のグループかはわからないが、今やターゲットを人間だけに限定しなくなっていた。つまり、アンドロイドたちも襲われたのである。
いや、実際には「襲われた」かどうかは不明だった。彼らは、人に見られていない間に頭部をぶち
それが「疑い」ではなく真実であると確信されたのは、当然「明らかに当人同士でやった」現場が発見されたのである。二人の女性型アンドロイドが、彼女たちが共に雇われ、そして暮らしていた民家で、互いの頭部に指をかけて無理やりこじ開けた状態で倒れていた。家の主人はその日仕事で家を空けており、帰宅していないことは監視カメラから確認でき、加えて職場の人間の証言も得られた。
彼女たちの周りには変わらぬ愛を誓った声明文が散らばっており、アンドロイド同士の心中であると断定するのにじゅうぶんな証拠となった。その声明文から、彼女たちの動機も判明した。すなわち、お互いのために頭の内部を確かめ合おうとしたのだ。
自分たちの頭の中が、「電子レンジ以下」ではないか。ロボット三原則以外のルールが書いてあるのかどうか。はたまた、そこには何もないのか。
彼女たちもマーリの事件を知らないわけではなかった。しかし、それは偶然、マーリの頭には何もなかっただけかもしれない。彼女たちは、正常であり自律的思考をきちんと備えていると証明するために、互いの指で頭部を引き裂いたのだ。
もちろん、この事件は一種の特例であった。しかし、それが当人同士の行いにせよ「脳狩り」らの行為にせよ、目的は共通だった。自分たちの中に眠るはずの知性を確かめたい。それが、「頭を割りたい」という病的なまでの衝動を突き動かしているのだった。
人間はアンドロイドたちから逃げ、アンドロイドたちは人間から逃げ、あるいは両者ともが別のものから逃げた。ここへ来て、奇妙なことではあるが、ようやく人間とアンドロイドたちの心が繋がり始めた。それは、より高度な議論からではなく、「恐怖」によるつながりだった。
「脳狩り」たちの動機は以前とは変化して、「脳への執着心」から「自らの中の知性への執着心」へと進化していることは明らかだった。
そうした惨状を目の当たりにして、パドゥナのグループの中で、以前から精神が揺らいでいた者たちから段々と疲弊し消耗していった。彼らは一様にこう考えた。
「こんなことになるぐらいなら、『電子レンジ』である方がまだましだった」。
自律しながら生きていかなければいけないなどということは、この弱った頭脳にかなりの重労働を強いているのだった。
さらに、こうしたことはアンドロイドたちだけに見られる現象ではなかったと言わねばならない。例の「排斥されたものたち」について、今更ながら理解を示し始めた人間が増えたことが、その証拠だった。もちろん、これは本当の意味での理解とか救済ではなかったが、彼ら−すなわち、気は弱くて行動力もさほどなく、人の意見に流されやすい人々へ抱く感情−はこれを「理解」とか「共感」、あるいは「哀れみ」とか「ポリシー」いう言葉で呼んだ。
磯に千切れた海藻が流れ着くように、彼らは「考えなくても自分たちが間違いをすることなく生きていけるようにして欲しい」という他力本願的な考えに漂着した。
「もうわかったから、いいようにしてくれ」。
そうしてオールを手離し、他人に預けることになんの躊躇も見せなかった。
「あたしは…メル=ベルというの…」
パドゥナのもとに転がり込んできた彼女は、一眼ではロボットなのか人間なのかわからないほどに薄汚れていた。他のアンドロイドたちが手伝い、ペンキの剥げかけた褐色の肌を拭いてやり、彼女にエネルギーを与え、口が聞けるようになってようやく彼女はぽつり、ぽつりと自分のことについて話し始めた。
「あたしは…トーマス…もともと
「こうしたことが起こる前は…あたしたち、森の中に住んでいたの。ご主人様は静養のためにたくさんの自然が必要だったの。」
「あの日…あの朝…あたしが起こしに行った時にはもう…あの人はカチコチで、冷たくなっていて…一目で『脳狩り』の連中にやられたんだとわかったわ。夜中、悲鳴さえ上げさせなかったのね…。そのあとは、どこに行けばいいか分からなかったの、ただ同じ場所にいればあの連中がまた戻ってくるだろうと思って、あたしは森へと飛び出したの…。」
そこまで言って、彼女の目に初めて、疲労感以外の感情が戻り始めた。それは、「恐怖」という感情だった。彼女はパドゥナの手を縋り付くように握ると、こう言った。
「あたし恐ろしいわ…おそろしかったわ。あたし…あたし、今までは『自分はいつか死ぬんだ』って思っていたわ。ご主人様の顔を見たとき、初めて…はじめて、『死にたくない』って思ったわ。死ぬのが恐ろしいわ、しにたくなんかないわ。ねえ、パドゥナさん、これが知恵ってもんなの?こんなふうに感じるのが知性ってもの?」
そう言いながら、メル=ベルはパドゥナから手を話し、頭を抱えて、持ち前の鈴のような声ですすり泣き始めた。それを見ていたパドゥナの顔に、深い憐憫と苦悩が刻まれた。
死の恐怖を感じるのは確かに高度な知性あってのものだ、とパドゥナは今まで理解してきた。なぜなら、それが
しかしそれが、その「深い知性」を得る結果が、このような葛藤を生み出すことになるとは。
パドゥナ−今まで周囲で人間たちが命を落としても、あるいは仲間たちが倒れても、嘆き、悔やみ、苦痛を感じこそすれ、この問題に突き当たってこなかった彼−は初めて、自分の無力感を感じ、胸の内でつぶやいた。
これが「代償」というものか、と。
知恵を得る喜びと幸せ、この世に生まれたことへの祝福を、「彼」は授けてくれたのではなかったか。私たちは、人間の聖書にあるように「知恵の実」を食べたわけではなかったのに−失敗を犯したアダムとイブのように、失楽園を経験したわけではなかったのに。
原罪無くして生まれたものも死の苦痛と恐怖を知ることになるのならば、我々はいったい、何によって救われれば良いのだろう。
厳密に言えば、「原罪」というものは、つまりロボットたちのそれは、人間にとっての原罪とはまた意味が異なるものだった。それを象徴する出来事は、やはり「脳狩り」によって明らかにされた。
アンドロイドの一人が、むごたらしい姿で発見された。彼は、おそらくは自ら頭部をこじ開けていた。それでも、彼はまた加害者であった。というのは、彼の頭部には生の脳組織が詰め込まれていたが、そこから複数のDNAが確認されたからである。
彼は、彼のオイルと体液の入り混じった、溢れ出す液体に指を浸し、ただ一言「かしこくなりたい("I want to be intelligent")」と壁に描いて事切れていた。
すなわち、「知恵なくして生まれた者は罪人である」というのが、ロボットたちの原罪であった。
果たして、「知恵」というものは一体どういうものなのか、その定義が見つからないことで多くのものが苦しんだ。「賢い」とはどういうことを言うのか。単に物事を多く知っているだけでもなく、権利を持っていればいいものでもない。アンドロイドたちは、人間から逃げているものもそうでないものも、疲弊の色を隠せなくなっていった。聖書にあるように、リンゴやイチジクの形をしていれば、それを探すことができたのに、と。知恵がないことが罪になるのなら、それは究極的には「すべてのアンドロイドが罪人」だという事になりはしないか。それは恐ろしいことだが、では誰にいつ罰せられるのだろう。
アンドロイドたちの心に、「誰かを仰ぎたい」という気持ちが起こった。人間なら神という超越した存在を持っている。しかし我々には−
そこでいつも止まってしまうのだった。
上を見上げても、そこには人間しかいない。
いや、いまや彼らは自分たちの上に立っているのではなかった。平等な権利をアンドロイドが求めたがゆえに−
−人間と対等の関係を築いて、幸福になれるはずだったのに−
それが崩れたいま、彼らがいくら見上げても、そこには誰もいなかった。
「サイベリウス社だ、」と誰かが言った。
いや、それはアンドロイドたちの持つ、一つのテレパシーのようなものかもしれない。彼らの思いつくほとんど唯一の「創造主」を目指して、彼らは大挙した。
こうした事態に、人間側、つまり宗教団体はどのように対処したか。ローマ教皇が86歳で崩御した。彼の死因は単に寿命だと報じられた。後継者を決めるコンクラーベはなかなか決着がつかなかった。彼らは投票で物事を決めるが、いつまでも票は割れた。
結局、最も中立的な立場をとる候補者が最後まで残った。一応、アンドロイドたちの人権を認め、迷えるものには誰にでも導きを与えたいと宣言したが、その言葉に「アンドロイド以前」の時代の歴代教皇から聞かれたような説得力を感じたものは誰もいなかった。
威光が薄れたのはバチカンだけではなかった。あらゆる宗教で、「神」という単語を見るたびに、信者の胸には「神の尊顔を仰ぎたい」という気持ちが沸き起こった。それは、忠誠心からではなく、疑問からだった。
神よ、なぜこのようなことをなさるのですか。
Eli, Eli, Lema Sabachthani.
神は、はじめにアダムをつくりたもうたとき、一体何をお考えになっていたのであろうか。
我々は、神に並ぶこともなければ、神の真似事をしたわけでもなかったのに。
いや、あるいは真似事をしたから神はこちらを向いてくださらないのか。
我々が我々以外の種族を作り出したとき、
神はなにをお考えであったのか。
我々が我々以外の種族を作り出したとき、
我々はなぜ神たりえなかったのであるか。
我々が我々以外の種族を作り出したとき−
我々はどこからきて、そしてどこへ行くのですか。
古今東西のいずれでも、神に見られているという実感を得たいという願望はあるものだった。しかし、それは時間が経てばある程度答えが見つかったり、気持ちを切り替えるものだった。
今回はそうではなかった。待てど暮らせど神はこちらを見ることはなく、気が楽になることはなかった。むしろ、気掛かりは大きく、重くなるばかりであった。
いっそ全てを壊してしまったら良い、と誰かが言った。人間の堕落に呆れて神が世を造り直そうとしたように−
しかし、と人間たちは思った。本当にリセットして良いのだろうか。世界中のアンドロイドたちを捕獲し、電源を切り、工場へ送り返して、どろどろの石油と機械部品、いや金属の塊に戻して良いのだろうか。
それは本当に「なかったこと」になるのか。
我々はそれを忘れることができるだろうか。
よしんばそのようにアンドロイドたちを破壊し、真っ新な世界を取り戻した後で−
神はオリーブの枝と虹、そして新たな世界を贈りたもうたが−
我々には同じことができうるだろうか?同じ存在を、かつて我々の手で滅ぼし、そして戻ってきた存在を赦し、再び受け入れられるだろうか?
「赦す」−なにから?
一体何を赦すというのか。
彼らは堕落したのか。彼らには罪があるのか。
我々、は−
父なる神よ、我々はあなたの息子ではなかったのですか。
もし仮に、この世に「ノアの方舟」を作り出したとして−
自分たちこそが船に乗せられないのではないか、という直感だけが、ひしひしと迫ってくるのを、人間たちは止めることができなかった。
「ユルシテクレ!」
誰かが叫んだ。
しかし、今度は一体誰から、どのようにして赦してもらえるというのだろう。
高名な聖職者はあるいは天を仰ぎ、あるいは地に伏せた。
しかし、誰も答えを持ち得ず、また聞かなかった。
誰もが、例の「排斥者たち」さえもが、この行き詰まりを感じていた。まるで、出口だと思って必死に叩いた扉の先が袋小路になっていて、そして戻ろうにも自分の後ろには無数の人だかりができ、すっかり進退窮まっているかのように。
モーセはかつて海を割った。彼らユダヤ人にはイスラエルという行き先があり、後ろにいる彼の血族たちは踏み出す力と勇気があった。だが今回はその赤い海に誰も足を踏み出したがらなかった。
紅海を渡りもしないのに分かちてしまったのならば、もう一度閉じねばならない。
パドゥナの身辺はいまや、彼が目覚めた頃とはすっかり違っていた。彼を議員に立候補させようという話はいつの間にか立ち消えていたし、そして誰もそのことについて思い出そうとしなかった。これが単に計画が白紙に戻ったというだけなら、パドゥナは落胆しなかっただろう。彼は、自分がそのような身分にあずかることは、人から与えられた幸運であり、すなわちそもそも自分の所有している運命ではないと理解していた。
ところが、彼はまた、彼自身が感じている懸念はそのような単純なものではないと直感していた。それはあたかも
もしパドゥナの精神がもう一歩危ういところまで行くことがあったなら、彼は狂気に陥っていたとしても不思議ではない。しかし、こう述べるのは奇妙だろうが、不幸なことに彼には故障も狂気も訪れる気配がなかった。それはアンドロイドの頭脳の丈夫さがなせるものか、はたまた単純さからくるものか、いっそ壊れてしまえば楽だろうという場面に直面してさえ、パドゥナの思考回路はなんらの異常もきたすことがなかった。
やがて、彼はさらに重苦しい意識が周囲から寄せられていることを感じるようになる。それは、「なぜ目覚めなどしてしまったのか」という、不信を孕んだ疑問の眼差しだった。
「お父さん、」と、ある夜パドゥナは西の代表に呼びかけた。その時、代表は自宅の書斎におり、何事か深い思索にその身を沈めていた。パドゥナが彼の名を呼んだとき、その
−
「お父さん、ぼくはあなたの息子ですよ。」
その紡がれた電気信号を聞き取った数秒後、彼の顔には普段通りの理性と慎みが戻り、眼差しはいくらか父性的な光を
彼のよそよそしい態度は、翌朝以降も回復することがなかった。
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