無風期間

小狸

短編

 風の吹かない時期がある。


 私は読書が好きだ。


 特に小説を読むことが大好きだ。


 だが時折、一切読書ができなくなることがある。


 本を借りること、購入すること、それ自体はできる。

 

 お気に入りの著者の作品を図書館で目にしただけでも、心躍ってしまうくらいにはチョロい人間である。


 家に持って帰って、詰め過ぎて最早崩壊一歩手前の本棚にそれを詰める。


 その期間に、本を手に取ることはある。


 ただ、手に取るだけだ。


 ページをめくり、作中世界にのめり込もうと、そもそも思わないのである。


 思考から、読書したいという欲求そのものが除外されているような感覚である。


 その時私は、とても悲しい。


 大好きな小説を目の前にして、何もできない自分、普段激動しているくせに、感受性のメーターが一切振れない。


 とても辛く、悲しい。


 そして、こんな風に思ってしまう。

 

 もしかしたら、私は一生このまま、小説に対する興味を失ったままなのではないか、と。


 そうだとしたら。


 それは、とても、悲しいことである。


 無論、ゆうである。


 大方おおかた、過剰に小説を摂取し過ぎたがために、脳が休養期間を設けようと判断したのだろう。


 そういう時は、辛さや苦しさを押し込めつつ、私は本棚を見るようにしている。


 詰め込まれた背表紙を見るのである。


 小説は内容が全て――という意見もあるらしいが、私はそうは思っていない。


 装幀。


 どこにどの文字を配置するか、作者名は、表題は、出版社名は、色彩は、イラストレーションは。毎月大量の小説が発売されるこの時代である。私達は――読者は、無意識にそういうものも見て、判断して小説を手に取っているのだ。

 

 せめて、内容が頭に入ってこない代わりに、背表紙を見て、出版社や編集者、校閲者の工夫を楽しむのである。


 そういう工夫を怠っている作品というのは、一目で分かる。


 これでも小学生から図書館を利用してきた。人並みに目は肥えているつもりだ。


 まあ、世に出版されるというからには、勿論それぞれがそれぞれに、読まれる工夫を施しているのだけれど。


 時に積読つんどくという言葉があるが、本は積むものではなく、読むものである。積むと倒れて危険である。


 せめて棚に入れよう。


 そうすることで、そこにある意味が生まれるのである。


 たとえ読めなくとも、存在しているだけで、価値はあるのだ。


 私はそう思う。


 そして今季もまた、文字が頭に入ってこない――無風期間がやって来た。


 明日は本屋に行こうと、私は思った。




(「無風期間」――はじまり

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無風期間 小狸 @segen_gen

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