黒雪姫

神田祐美子

前編

 昔々、あるところに、とても強欲で、とても美しい王妃様がおりました。王妃様は毎日、魔法の鏡に向かってこう問いかけていました。


「鏡よ鏡よ鏡さん、この世で一番美しいのはだあれ?」

「それは、王妃様です」


 ある日、いつものように問いかけた時でした。


「鏡よ鏡よ鏡さん、この世で一番美しいのはだあれ?」

「それは、黒雪姫です」

「え? なんて?」

「黒雪姫です、王妃様」


 なんと、魔法の鏡は、王妃様より王様の妾である、黒雪姫の方が美しいと断言したのです。こんなばかなことは、今まで一度だってありませんでした。黒雪姫が、自分より美しいだなんて!


「あの女はいつも引きこもって人前にも出たがらないのよ! 私の美貌に比べられるはずもないわ!」

「いいえ、黒雪姫が最近引きこもっておられたのは、当代随一の美容外科医にお世話になっていたからです。今や黒雪姫は、この世で一番お美しくなられました」

「なんですって⁉ ではその美容外科医とやらを私の元へ!」

「それは無理です」

「なぜ⁉」

「黒雪姫が殺してしまいました。自分より美しい人間を作らせないために」


 王妃様はとても信じられませんでしたが、魔法の鏡の言うことは正しかったのです。翌日のダンスパーティーに現れた黒雪姫の美しさと言ったら、それはもう、王妃様でさえため息が出る程だったのですから。

さあ大変! 王妃様は妾への嫉妬に悶え狂い、とうとう彼女を毒林檎で亡き者にしてしまおうと考えました。そう、自分より綺麗な者がいるなら、消してしまえばいいのです!


 ところでなぜ毒林檎にしたかって? そりゃあ、艶々した真っ赤な林檎を見たら、誰だって食べたくなるでしょう?


 さて、そのためにはまず、素晴らしい林檎を仕入れなくてはいけません。王妃様は部下に命じて、国中の林檎農家に連絡させました。たっぷり届けさせて、その中でこれはと思ったものを毒で浸してしまおうと考えたのです。もちろん、毒林檎を作ることは内緒です。

 けれど、農家たちは一向に林檎を届けてくれません。


「家来よ家来、一体これはどういうことなの? いつになったら林檎が届くの?」

「すみません王妃様。農家の連中が言うには、まだ収穫時期でないから収穫できないということなのです」

「何ですって⁉」

「秋から冬にかけてが一等美味しいのですって。それまで待つしかありません」

「ええい、この役立たずども!」


 王妃様は怒りのあまり髪を掻きむしり、甲高い声を上げながら庭に飛び出しました。

 庭に生えた、大きな一本の木の麓で、王妃様は大きくため息を吐きました。すると、どこからともなく声を掛けられたのです。


「やあやあ、何をそんなに怒っているのだい?」

「ひゃっ⁉ 無礼者! どこに隠れているの!」


 誰もいないと思っていたものですから、王妃様は飛び上がって驚き、辺りをきょろきょろと見渡しました。けれど、どこにも誰も、人っ子一人、見えません。


「ははは、ほら、ここにいるじゃないか」

「ふざけてないで出てきなさい! 私をからかうなんて、とんだ度胸をしているわね!」

「ここ、ここ。おっと、痛いな。あまり強く踏まないでくれ」

「まあ! 地面に隠れているの⁉ この変態!」

「違う、違う。早く脚をどけてくれ。痛くって堪らない」

「私は何も踏みつけていないわ!」

「踏んでいるじゃないか。ほら、その高い靴の踵で」


 王妃様は訝しく思いながら、ゆっくりと脚をどけました。その靴の下にあったのは、地面からチラッと見えている、太い木の根。まさか、と王妃様は木を見上げました。


「おや、ようやく気づいたようだね」

「お前が、私に話しかけているの?」

「そうさ、私は魔法の木。普通の者には、見えはしても声は聞こえない」

「私は王妃ですもの。普通の者とは訳が違うわ。お前、魔法の木というからには何か力があるのでしょう! 一体何の力なの」

「何も。喋れるだけの、ただの木さ」

「嘘を仰い! さあ、さっさと教えるのよ! でなければこんな大きいだけの老木、切り倒してしまうわよ!」

「私はただの林檎の木」

「林檎? 林檎ですって? そんなものがなっているのなんて見たことがない!」

「実をつけていたのは随分昔のことだ」

「あら、じゃあ本当にただ喋るだけの木なのね。なんて役立たず!」


 呆れた王妃様は家来を呼びつけると、「さっさと切っておしまい!」と命じ、自分は部屋に戻っていきました。


 翌朝、庭には例の木が相変わらずでんと立っていました。


「家来よ家来、これは一体どういうことなの? 私は切っておしまいと言ったはずでしょう!」

「それが王妃様、この木ときたら、斧を使ってものこぎりを使っても、うんともすんとも言わないのです。傷一つつけられません」

「何ですって⁉ そんな訳がないでしょう! この役立たず!」


 王妃様は自ら斧を手に、えいと林檎の木に突き立てようとしました。

 けれど、家来の言う通り、斧はカチンと大きな音を立てて弾き飛ばされ、傷一つつけることはできませんでした。


「ははっ、やめておけ。怪我をするぞ」


 また、例の声がします。家来たちを下がらせた後、王妃様はキッと林檎の木を睨み上げました。


「この、無礼者! お前などさっさと朽ちて塵となって消えるがいいわ!」

「そんなに怒ってばかりでは、幸運が逃げていくぞ」

「余計なお世話よ! ただの木が私に指図しないで!」


 王妃様は木の根を踏みつけ、荒々しく庭を出て行きました。



 王妃様は、とても孤独でした。父親に命じられ、他所の国から身一つで国王の元に嫁いできたのに、誰もちっともちやほやしてくれないのです。国王の態度は冷たく、王妃様を迎えたのも政略のため。彼は昔から、妾の黒雪姫に夢中でした。あの頃は大した美貌でもない、ただの平凡な女だったのに。

 まるで、王妃様は空気のようでした。だから夢を見ていたのです。いつか皆が、自分の美貌を褒め称え、心から傅いてくれる日を。



「そうだ、もういっそ、自分で林檎っぽいものを作ればいいのよ!」


 林檎がなければ、作ってしまえばいいじゃない。

 王妃様は日夜部屋に閉じこもり、寝食も忘れて開発に没頭しました。林檎に近い実を探して、赤く塗りたくって、たっぷりの毒を仕込むのです。何度も失敗しましたが、やがてどこからどう見ても、綺麗で見事な毒林檎が出来上がりました。


「やった! 出来たわ!」


 後はこれを、黒雪姫に食べさせるだけです。王妃様は嬉々として毒林檎を籠に詰め込み、怪しまれないように変装でもしようと、黒いフードを手に取りました。

 その時不意に、魔法の鏡に、自分が映ったのです。王妃様は思わず言葉を失いました。

寝不足で目の下には隈ができ、ぷつぷつとにきびまでできて、お風呂も忘れていましたから髪はぼさぼさ、ドレスもよれて、汚れだらけの、王妃様。


 ああ、なんて、醜いんでしょう。


 王妃様はわなわなと震えながら、籠の中の林檎に視線を落としました。毒々しい真っ赤な実は、どういう訳か、しっとりと濡れています。雨など降っていないのに。



 その夜、王妃様はとぼとぼと項垂れながら、気づけば例の庭に辿りついていました。

 そこには、あの生意気な林檎の木が生えています。


「おお、久しぶりだな王妃。随分部屋に閉じこもっていたそうだが、一体何をしていたのだね?」

「……貴方には関係ないわ」

「衛兵たちが噂していたぞ。王妃は気が触れているとか、黒雪姫を殺そうとしているとか」

「なんですって⁉」

「酷い姿だ。確かに、これでは気が触れたと思われる」

「衛兵ども、全員クビにしてやる!」


 王妃様の叫びが、夜の庭に響きます。林檎の木は愉快そうに笑いました。笑い事ではないのですが。


「やれやれ。このままでは、鉄の靴を履かされて命尽きるまで踊らされるぞ」

「は?」

「私は魔法の木。未来も見通すことができる。お前は黒雪姫を亡き者にしようとして失敗し、命も地位も美しさも、何もかも失うのだ」

「こ、殺されるというの? この、私が?」


 王妃様は真っ青になって、へなへなとその場に座り込みました。

 そんな彼女を慰めるように、魔法の木は優しい声音で語りかけました。


「安心おし。私は君を気に入っているんだ。美しく、嫉妬深く強欲で、他者を踏みにじることを何とも思わない。そういう人間が、私は一等好きなんだよ。君は特別な人間だ。他の輩とは違う」


 魔法の木の言葉は、まるで甘い蜜に浸された林檎のよう。王妃様は、頭がくらくらしてくるのを感じました。間近に迫った死の恐怖から逃れるには、もう彼に頼るしかないのです。


「賭けをしよう。勝てば君の願いを叶えてやる。負ければ、君は――――」


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