第一章 オヤジがまさかの恋敵!?(3)
午後三時の休憩時間が近づくにつれ、今日の黒岩製作所・一般作業棟には、静かで緩やかな空気が漂っている。
土木作業用VFのエンジン・バルブを大量に受注し、残業に次ぐ残業で、何とか納入へこぎつけたのが昨日の事。
仕事の合間に訪れる長閑な一時を、従業員の誰もが噛み締めていた。
最年長のアカネさんから若造のシゲルに至るまで、燃え尽きた表情を浮かべ、僅かばかりのルーティンワークでお茶を濁している。
従業員の頭の中は、オヤツに出るプリンの事で一杯だった。
取引先の差入れの内、デパ地下で売っているガラス容器入りプリンは別格だ。一個400円する上、大仕事を果たした後にしか取引先も持って来ない。コイツがある日、三時の休憩はちょっとしたイベントと化すのである。
一方、事業主の轍冶はあくまでマイペースを貫いていた。
洋菓子が苦手な事もあるが、職場のトップに重要なのは威厳、との意識が強い。
トレイに積まれた部品から、慣れた手付きで数個つまんで、ノギスを当てて一睨み。寸分の狂いも無いのを確かめ、次の数個を取り上げる内、視線がふと宙を泳ぐ。
微かに眉間へ皺を寄せ、轍冶の全身の動きが止まった。
「あ、ホラ、また社長が……」
「ほほう、心の旅路ですねぇ」
「最近、多いな」
「はてさて、心は何処ぞを彷徨う?」
アカネさんのツッコミを受け、ツネタさん、トクさんとタケちゃんが、好奇心丸出しで動かない背中を見つめる。
気付いた轍冶は、素知らぬ顔で作業を再開した。事業主に重要なのはあくまで威厳……でも、心は思案の海へ再び入り込んで行く。
迷いの渦の中心に、17才の少女の面影があった。
実は品川テロから一週間後の土曜日、轍冶は真希にも告げず、七海と会っている。
大森町の、彼女のマンション近くにある喫茶店へ呼び出した時、轍冶は話が切り出せず、五分間、ただ冷や汗をかき続けていた。
七海の方も怖い顔で沈黙するオッサンの扱いに困っていたが、それでも確かめておくべき事がある。
自分と同じ年頃……今も生存していれば、40代後半から50代に差し掛かっている筈の女性「ナナ」に心当たりがないか、轍冶は訊ねた。
七海と「ナナ」が何らかの縁で繋がっており、テロの際、混濁した意識で「ガンテツ」という名を口にした事も、その縁と関わりがあるのではないかと思ったのだ。
首を傾げてしばらく考えた後、七海は「ナナ」なんて人は知らないと言う。
「例えば遠い親戚とか、そういう可能性は考えられないかね?」
繰り返し訪ねても、首を横に振るだけ。だが、すぐ悪戯っぽく微笑み、七海は「もしかして、黒岩さんの好きな人ですか?」と訊き返してくる。
轍治は眉間に皺を寄せ、沈黙を守った。
その手の会話は苦手だ。でも、たちまち赤黒く染まった頬が、その答えを何より明確に示している。
「光栄です、私」
「……え?」
「ナナさんが黒岩さんの恋人だとすると、もう何十年も好きなまま……ですよね? そんな人と似てるなんて、恥ずかしいけど、ちょっと嬉しい」
七海が正面から轍冶を見つめた。
似ている。余りにも似過ぎている。
顔立ちのみならず、体つきから仕草まで、35年前のナナと同じだ。
「私に教えて下さい。その、ナナさんって人について」
「……あ、あの娘は、いきなり俺んとこさ現れ、いきなり消えた」
「ガンテツってあだ名は、ナナさんがつけたの?」
「それは……成り行きで俺の呼び名さなったども、元々は違う。ガンテツってのは、本当はナナの……」
そこまで言って、轍冶は気づいた。
自分が宮城の田舎から東京に出て来た当時、17才の頃の感覚に戻ってしまい、故郷の訛り丸出しで話している事に。
ずっと秘めていた記憶を、この娘には何一つ隠せそうにない。
慌てて轍冶は話を切上げ、喫茶店を出た。もう七海とは会わないつもりだったが、しばらくして真希が彼女を家へ連れてくる。
部屋で一緒に勉強すると言う名目をつけ、来る度に七海は作業棟を覗いて、轍冶に明るく声を掛けた。
心が揺れ、聞こえない振りをする。
気持ちにケリはついている筈だった。
家族を愛し、守っていく。一途に、ひたすらに。それが不器用な自分の唯一の取柄で、ナナが消えた後、折れそうな心を傍らで支えてくれた妻への誓いでもある。
なのに、今になってこの有り様だ。
仕事中もナナの面影が浮かび、七海の笑顔と重なって、集中するのが難しい。
それに、光代の気持ちが気掛かりだった。敢えて轍治は気づかない振りをしているが、最近、妻は前より弱っているようだ。
七海を見るのが辛いのだろう。
何せ、光代はあの日、自分自身の手で、ナナを……
「叔父様、こんにちはっ!」
作業棟のドアから飛び込んで来た七海が、轍冶の「心の旅」を遮った。迷いの元の出現でたじろぐ男の二の腕へ、無邪気な顔で縋りつく。
「お仕事中、ごめんなさい。でも私、町工場に凄く興味があって」
「いや、若いのに殊勝な心がけです」
「今日は存分に見学させてやろうや、社長」
「どうせ、朝から暇だしね」
野次馬根性丸出しで、若い娘に振り回される上司の姿を、従業員達は楽しんでいる。
それも腹立たしいが、一層目障りなのは七海に遅れて作業棟へ入ってきた真希だ。仇でも見るような、切羽詰まった顔で轍冶を睨んでいる。
一発怒鳴りつけたかったが、あまりむきになるのも威厳に傷がつく。
それにまさかカタキもカタキ……「恋仇」と息子に意識されているとは、この時の轍治には思いもつかなかったのだ。
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