夜道小編
萩津茜
夜道小編
或る童話をお話しましょう。
夜道、突然地を這うような低い声に、呼び止められた。見れば、真横にはいつの間にか、細身の黒猫が一匹いる。奇妙なことに、その猫が一体どんな体勢で路傍に座っているのか、僕には分からなかった。
黒猫は、喉から声を出した。人の声だ。
「何が苦しい?」
僕は気惑う。怪異に僅かな驚嘆も出ない。
黒猫は構わず語りかける。
「お前、何が苦しい?」
次に黒猫は、その木の棒みたいな手を、僕の太ももあたりに纏わりつかせた。出血するかのような、鋭利たる冷たさが身震いさせる。
それでも、僕が黒猫から逃げ出すことはなかった。逃げろ、逃げろと唱えても、僕の目は、核の掴みどころのない宇宙のような、その瞳に釘づけになっていた。
「止めてくれ、何も喋れない」
「乞いなんて煩い。何が苦しいのだ?」
とうとう僕は半狂乱になって応えた。
「人の言葉を話す猛獣に、胸を打たれた!」
「そうか、そうかお前は、私が恐いのか」
「恐い! 消えてくれ。僕はあんたのこと、どうしようもできない」
「私は使い魔だ。あるいは、お前自身だ。ほら、苦しいんだろう? 言葉が痛いか。煩いか。私が憎いか」
黒猫はもう片方の手を、僕の腰へと回した。
「さあ、何が苦しい?」
そう訊かれてから、心臓は鼓動をやめた。息が絶えて、苦しい。
僕はまだ死んじゃいない。黒猫もそれを知っているようだ。終夜に穴を空けるその黒目を、僕の焦点に合わせて神妙な趣きで居る。
物一つさえ、云えない。
言葉は、無くなった。
黒猫はただ嘲笑った。僕がそいつに、喋れと云えぬことを知って。
今なら、黒猫にあれをぶつけたい、こう言い負かしてやりたい、名句を連ねたい、そんな願望が浮かぶのだが、やがてそれら妄想の一切が無意味だと分かって、素直に脱力した。
これが夢でありますように。
刹那、黒猫は融ける。あるいは、夜紛う。
僕は、目を覚ました。
宴があったらしい。
昼の熱に温まった空気が、口内を行き来している。
僕には祭り疲れが一挙に押し寄せて、会場の、まだ興じている料亭を振り返る気力もなく、住宅街の先に伸びる夜陰を怪しく見つめていた。
「あれ」
――あ、もう夜明けだ。
頭上に眩しく光が降った。まるで――夜明け、を越えた昼下がり。僕の夜間行路は終わり、か。
「んなわけないか」
――街路灯、羽虫。
僕も、羽虫のよう。
駄目だ、駄目だ。僕はもう時候すら理解らない。
酒の酔い、独の酔い、光の酔い。
僕ってやつ、贅沢なもんだ。今、頭ごなしに宴を卑下するように。
「ああ、僕はいい、もういい、帰る。罷らせてもらうよ。妻も息子も泣いてんだから」
濫りに怒声を張り上げた。
住宅街、小宇宙。貧弱な太陽が偽って、幾つも並んでいる。熱に浮かされた頭上に、満ちかけた月が居た。
「俺はあいつらとは違う」
とでも言いたげな具合だ。笑わせる、いかにも気障な野郎だ――僕も、あんたも。
『月並みに輝けるかな冴ゆ恒星』
誰に手向けるかな、歌詠み。言葉まさに、冴ゆ全天の何処かに融けた、はずだ。
僕は、帰る帰ると云ふものの、実際帰路を縫っているかといえば、それ乃ちノーだ。僕に妻や息子はおろか、住居すら無い。
此処はつまり、僕の独と終。
道路を左右に往来しながら、フレーズだけの曲が口遊まれた。
「僕のこーんな青春時代、いつか夢見たこと総て、僕の夢はまさに追慕。過去の僕は死んだのだ!」
あれ、そうだ、僕に家、ないんだったな。
夕飯をどうしよう。⋯⋯いや、もう充分すぎるほど食った。憤るほどの空腹感。全天が、僕の腹。際限のない観察。行き場のない人世。
僕の足取りは、止まっていた。
月光は層雲に遮られ、電灯は明かりを失った。刹那、天の川、と言うべきだろうか、まるで幾つもの象形による物語を描いた空の姿が現れた。紛れもなく、そこで展開されているのは物語であった。まもなく辺りは白む。息を吸えばまさに氷粒。アスファルトから何だか、生温い蒸気が発した。
また僕は、舗道を往く。右往左往、そのとき、足首に水がかかった。靴下に怠く滲む液体。さすがに怪しく思い、俯けば、湿地に片足を突っ込んでいた。
霞んで見えぬ。だが、水を蹴る音、胸を切る香り。僕が宴の帰りと異なる世界に居るのは分かった。
あれ、僕はどこへ行きたかったんだっけ。
どうしたいんだろう。どうしようもないか。
独を、酒を、香辛料を僕にくれ。
僕は足を引き抜いて、アスファルトを数歩行った。その跡に、泥がこびりついた。
誰もいないと信じているからこそ、こんな醜態をさらしている。多分、そんな具合だ、僕は。
「だらしねえな、やめちまえよ」
――人間を。
ある時、思考を棄てた。
依りてか、霧をかき、僕は泥だらけの靴底で、中世の街を汚していた。ただそんな些細な変化など、気にも留めず。
ある時、息が絶えた。
苦しい、苦しいと嘆けども、また愉快とも言えた。勿論、これ以上歩くことなどできぬだろう。
思考が還ってくる。山あいの田園を両脇に据えている。膝を折った僕に、徐ろに、影が伸びた。――旭日が、現じていた。
朝が来ぬこと。
「僕は、帰りたい」
とでも、言葉にしてやろうと思った。
そうして直ぐに、目が覚めた。
布団から出て、窓辺に寄る。
卒然、虫が知らせたか、開いたカーテンの先は、夜の海に揺らめいて見えた。
以上、或る童の物語でした。
夜道小編 萩津茜 @h_akane255391
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