第36話 詰みの先に

平成の終わり頃、将棋界の若き天才の活躍が大きな話題を呼んでいた。ネットやテレビで将棋が取り上げられる機会が増え、多くの若者がその魅力に引き込まれていった。勝負の緊張感、思考の深さ、そして棋士たちが繰り広げるドラマチックな対局――将棋は、一部の愛好家だけでなく、広く世間に注目されるようになっていた。


***


中学生の拓海もその一人だった。将棋番組を見たのをきっかけに、自分も挑戦してみたいと思い立ったのだ。頭を使うゲームが好きだった彼は、地元の古びた将棋教室に通い始めた。木造の建物で、生徒の数もまばらだったが、駒を指す音や盤上に広がる戦略の世界に魅了されるうち、拓海の心には将棋への熱が灯っていった。


「お前、飲み込みが早いな。」


教室の講師に褒められると、拓海はますます練習に熱中した。学校でも授業の合間に駒を動かし、家に帰れば夜遅くまで棋譜を研究する日々が続いた。大会にも積極的に出場し、地元では有望な若手として注目を浴びるようになった。


ある日、拓海は教室の隅で黙々と将棋を指している一人の老人に気づいた。黒い帽子を深く被り、誰とも話さず静かに盤に向かっている。まるで盤上に囚われたかのように駒を動かし続けるその姿に興味を覚え、拓海は思い切って声をかけた。


「対局、お願いできますか?」


老人は顔を上げ、じっと拓海を見つめた。目は深い皺に埋もれていたが、その奥に鋭い光を湛えていた。無言のまま頷いた老人は、ゆっくりと盤をセットし始めた。


初めての対局で、拓海は圧倒された。老人の指す手は速く、迷いがなく、どれも正確だった。どれだけ考えても防げない手が次々と繰り出され、拓海は惨敗を繰り返した。それでも何度も挑む中で、彼の実力は着実に磨かれていった。老人は駒を並べ直すたび、少しだけ頷くように見えた。


ある日、いつものように老人と対局を始めると、彼がぽつりと言った。


「これが最後の対局だ。」


「え? どうしてですか?」


拓海が尋ねても、老人は答えず、静かに盤に駒を並べ終えると対局を始めた。その日の対局は、これまでとは比べものにならないほど異様な緊張感に包まれていた。


拓海は懸命に食らいついたが、最終的には老人の手に追いつけなかった。


「詰みだ。」


老人の静かな声とともに、拓海は敗北を認めた。


「ありがとうございました。またお願いします。」


そう言って顔を上げると、老人は既に立ち去っており、教室には拓海だけが残されていた。それが老人との最後の対局だった。


***


それから数年後、拓海はプロ棋士の道を歩むようになった。懸命な努力と練習の成果もあり、順調に勝ち進む日々を送っていた。新たなライバルたちとの真剣勝負に打ち込みながらも、時折、あの老人との対局を思い出すことがあった。


「あの人、今どうしているのかな……」


ふとした時に脳裏をよぎる。老人は、彼の中で将棋の厳しさと楽しさを教えてくれた恩師のような存在だった。だが、その答えを知る術はなかった。老人の存在は、まるで風のように消え去り、教室の他の誰も彼のことを知らないと言ったのだ。


ある日、拓海は自分の対局の棋譜を整理している最中に、奇妙なことに気づいた。記録された棋譜の中に、明らかに自分では指していない手が混ざっていたのだ。


「こんな手、俺は指してない……」


最初は記録ミスだと思ったが、その後も同じようなことが何度か起きた。盤を並べ直すために駒を箱から出すと、見覚えのない配置で駒が盤上に並んでいることがあった。まるで、誰かが自分のいない間に盤を触ったかのようだった。


***


プロ棋士として注目されていた拓海だったが、次第に彼の調子は狂い始めた。対局中に頭がぼんやりとし、思考が遅くなる。終盤で不可解なミスを犯すようになり、以前は勝てたはずの相手にも負けることが増えた。


「大丈夫か? 無理してないか?」


仲間や記者から心配されても、拓海は笑顔で誤魔化した。しかし、心の中では不安と焦りが渦巻いていた。


「俺は……強くなるためにここまで来たのに……」


成績が低迷し、棋士としての評価も急落していった。スポンサーが撤退し、インタビューの依頼も途絶えた。あの老人との対局を繰り返し夢に見るようになり、その夢は夜ごと鮮明さを増していく。


ある日、すっかり落ちぶれてしまった拓海は、ふと昔通っていた将棋教室のことを思い出した。


「あそこに行けば、何か思い出せるかもしれない。」


教室は当時と変わらない古びた木造の建物だった。懐かしい匂いと雰囲気に包まれながら、拓海は足を踏み入れた。


そして、奥の席に座る老人の姿を見つけた。


「……あなたは……」


驚きとともに拓海は声をかけた。老人はゆっくり顔を上げると、じっと拓海を見つめた。その目は以前と同じ鋭い光を湛えている。


「久しぶりだな。」


その声を聞いた瞬間、拓海は背筋に冷たいものが走るのを感じた。


「また……対局していただけますか?」


老人は無言で頷き、盤をセットし始めた。


対局が始まると、老人の指し手は以前と変わらず速く、的確だった。拓海も負けじと懸命に駒を進めたが、途中から彼の思考は鈍り始めた。盤面がぼやけ、頭の中が霧に包まれるような感覚に襲われる。


「おかしい……これじゃ勝てない……」


焦れば焦るほど手は乱れ、局面は老人の優位に傾いていった。


「お前はかつて私と戦い、強くなった。」


老人が低い声で話し始めた。


「その力を活かして、ここまで来た。だが、その力の代償をまだ払っていない。」


「代償……?」


拓海は困惑した。


「どういうことですか? 俺はただ強くなりたかっただけで――」


「力を得るには代償がいる。それはお前自身の魂だ。」


その言葉を聞いた瞬間、拓海は目の前の盤面が変わるのを見た。駒が一つずつ動き出し、人の形を作り始める。その中心には自分の王があり、その駒はまるで拓海自身を象徴しているかのようだった。


「詰みだ。」


老人の冷たい声が響くと同時に、拓海の王が倒れた。


「負けだ。」


拓海は立ち上がろうとしたが、体が動かない。周囲が急速に暗くなり、全身から力が抜けていくのを感じた。


「どうして……こんなことに……」


目の前で老人が立ち上がり、拓海に手を伸ばした。その手に触れた瞬間、拓海の中から何かが引き抜かれるような感覚があった。


「これでお前の役目は終わりだ。」


老人は微笑み、静かに教室の奥へと消えていった。


その後、将棋界では一人の若手棋士が突然姿を消したという噂が広まった。拓海の名前は誰の記憶からも薄れ、彼の存在そのものが幻だったかのように扱われるようになった。


教室の奥では、老人が次の対局相手を待ちながら、盤に手をかけている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る