第11話 取り返せないもの
クレーンゲームは1990年代から現在に至るまで、ゲームセンターの象徴的な存在として多くの人に親しまれてきた。操作するアームで景品を掴み、取り出すというシンプルなルールながら、絶妙な難易度とスリルが人気の秘訣だ。子どもたちにとってはぬいぐるみやおもちゃを手に入れる楽しさ、大人にとっては腕試しや達成感を味わえる娯楽として、多くの人がクレーンゲームの虜になっている。景品のラインナップも進化を遂げ、最新のキャラクターグッズから懐かしいアイテムまで幅広く揃えられている。
***
大学生の美咲もまた、幼い頃からクレーンゲームが好きだった。小学生の頃、父親と一緒にゲームセンターで遊んだ思い出が特に心に残っている。父親が頑張って取ってくれた小さな犬のぬいぐるみは、彼女にとって宝物だった。しかし、そのぬいぐるみは数年前に引っ越した際、どこかに行方不明になってしまった。それ以来、美咲は同じようなぬいぐるみを見つけるたび、懐かしさを覚えては挑戦してきたが、手に入れることはできていなかった。
そんなある日、美咲は友人たちと遊びに行ったゲームセンターで、そのぬいぐるみに瓜二つの景品を見つけた。
「これ……そっくり。」
美咲は足を止め、ガラスケースの中に並べられた小さな犬のぬいぐるみを見つめた。焦げ茶色の毛並みに、赤い首輪――まさに、かつて父親が取ってくれたものと同じデザインだった。
「懐かしい……」
美咲は迷わず100円玉を入れ、アームを操作した。景品までの距離を慎重に測り、タイミングを見計らってボタンを押す。アームはぬいぐるみに触れ、掴みかけたが――そのまま滑り落ちた。
「やっぱり一筋縄ではいかないよね。」
彼女は軽く笑い、再び100円玉を投入した。何度も挑戦を繰り返したが、アームはどうしても景品を掴むことができない。
「難しいなあ……」
ふと気づくと、友人たちは別のゲームに夢中になっており、美咲は一人でクレーンゲームに向き合っていた。妙に静かな空気が漂い、周囲の喧騒が遠ざかっていくように感じる。
「もう一回……これが最後。」
美咲は心の中でそう決め、再び操作を始めた。今度こそアームはぬいぐるみをしっかり掴み上げたが、取り出し口に運ぶ直前で再び落ちてしまった。
「あぁ……ダメか。」
落胆した美咲はその場を離れようとしたが、ふと奇妙な感覚に襲われた。
「何か……忘れてる?」
胸の中にぽっかりと穴が空いたような気持ちになる。何か大事なことを思い出せないような感覚に、彼女は眉をひそめた。
その夜、美咲は部屋に戻ってからもその感覚が抜けなかった。机の上に置いたスマートフォンを手に取り、何気なく連絡先を確認したとき、ある異変に気づいた。
「……誰だっけ?」
リストに表示された名前のいくつかが、見覚えのないものに変わっていた。以前まで親しくしていた友人の名前や番号が、まるで最初から存在しなかったかのように消えていたのだ。
「そんなはずない……」
美咲はパニックになりながら記憶をたどろうとしたが、その名前の人物がどんな顔をしていたのか、どんな会話をしていたのか、全く思い出せない。代わりに胸の奥に残ったのは、クレーンゲームに挑戦していた時の「何かを掴み損ねた」という虚無感だけだった――。
***
次の日、美咲は妙な不安感を抱えたまま一日を過ごしていた。講義に出ても、友人たちと話しても、何かが欠けているような感覚が消えない。頭の中には、ゲームセンターで見つけた犬のぬいぐるみと、クレーンゲームの光景が繰り返し浮かんできた。
「もう一度……やってみたほうがいいのかな。」
気になって仕方がなくなった美咲は、その夜一人で再びゲームセンターへ足を運んだ。
薄暗い店内は平日の夜ということもあり、ほとんど人がいなかった。クレーンゲーム機が置かれたコーナーに進むと、例の犬のぬいぐるみがケースの中に鎮座している。まるで彼女を待っていたかのように、スポットライトがその景品を照らしていた。
「今度こそ……絶対に取る。」
美咲は強い決意を胸に100円玉を投入した。アームを慎重に操作し、景品に狙いを定める。何度も失敗を重ねた記憶を思い出しながらも、諦めることなく挑戦を繰り返した。
何回目かの挑戦で、アームはようやくぬいぐるみをしっかりと掴んだ。取り出し口まで運び、ついに景品が落ちてくる。
「やった……!」
美咲は興奮してぬいぐるみを取り出した。しかし、その瞬間、周囲の空気が変わった。
ゲームセンターの薄暗い照明がちらつき、背後から視線を感じる。振り返っても誰もいないはずなのに、足音のようなものが耳元で聞こえた。
「……気のせい?」
そう自分に言い聞かせる美咲だったが、ふと手元のぬいぐるみを見ると、毛並みに何かが付着しているのに気づいた。それは小さな赤い染みだった。
「……何これ?」
指で触れるとそれは濡れており、じっとりとした感触が残った。血のように見えるその染みが何なのか分からず、美咲は慌ててぬいぐるみをバッグに押し込み、ゲームセンターを後にした。
家に戻った美咲は、バッグからぬいぐるみを取り出し、改めてよく見てみることにした。見た目は普通だが、その目が妙に光っているように見える。まるで、美咲をじっと見つめ返しているような錯覚に陥った。
「さっきの染み……気のせいだよね。」
美咲はため息をつきながらベッドに横になった。しかし、深夜、異様な気配で目を覚ました。部屋の中がやけに寒く、どこからともなく低い囁き声が聞こえる。
「……まだ足りない。」
背筋が凍りつくような感覚を覚えた美咲は、咄嗟にベッドの横に置いてあったぬいぐるみを手に取った。しかし、その瞬間、ぬいぐるみの目がじっと美咲を見つめ、かすかに笑ったように見えた。
美咲は悲鳴を上げてぬいぐるみを投げ捨てた。部屋の電気をつけると、そのぬいぐるみは何事もなかったかのように転がっているだけだった。
翌朝、美咲は大学へ向かう途中、再び何かが欠けていることに気づいた。学生証を確認しようとして、自分の名前がぼんやりとしか思い出せないのだ。
「……なんで?」
恐る恐る友人に話しかけても、相手は美咲を知らないふりをするかのように素っ気なく反応するだけだった。
「どういうことなの……?」
ゲームセンターでの出来事、消えていく記憶、そして犬のぬいぐるみ。美咲はそれらが全て繋がっていることを理解した。
その夜、美咲は最後の望みをかけて再びゲームセンターを訪れた。しかし、クレーンゲーム機があった場所には、もはや何も残されていなかった。店員に尋ねても、「そんな機械は元々なかった」と言われる始末だ。
帰宅した美咲の部屋には、ぬいぐるみがぽつんと転がっていた。その姿は変わらず愛らしいものだったが、彼女は触れることもできなかった。
そして深夜、また囁き声が聞こえてきた。
「もっと……もっと……」
それが何を求めているのか、美咲にはもう理解する余裕がなかった。ただ、彼女の記憶と存在は、少しずつ、確実に消えていくのだった――。
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