②
夫がいなくなった部屋を、ぼうと見渡す。仄暗い静寂が、重い幕となって垂れ込めた。
広い家にひとりきり。それ自体はべつに珍しくもなんともない。ただ、後悔と自責の念に駆られた今は、反響する音でさえ恐怖となって耳を貫いた。
「……この家、こんな寒かったっけ」
ぬくもりが去った空間。
その片隅で肌をさすりながら、怜は自身の凄絶な過去を思い返していた。
六歳のとき、母が交通事故で亡くなった。
迎えの時間になっても母は園に現れず、ひとり遊んでいると、血相を変えてやってきた先生が家まで送ってくれた。
それからの記憶は、ほとんどない。どんなふうに葬儀が執り行われたのか、どんなふうに母に最後の別れを告げたのか。
だが、これだけははっきりと覚えている。
——貴方と結婚したから娘は不幸になった!! 貴方なんかと結婚したから……っ!!
祖母が父に浴びせた言葉。
泣き叫び、吐き捨てた暴言を、怜は今も鮮明に覚えている。そのときの語調も、形相も、すべて。
父は、いっさい反論しなかった。ただ深く頭を下げたまま、黙って祖母の叫声を受け止めた。
以来、祖母とは会っていない。
あとでわかったことだが、母は旧家のひとり娘で、駆け落ち同然で父と結婚したらしい。当主である祖母は、ふたりの結婚を断固として認めなかったそうだ。
にもかかわらず、父が祖母を悪く言うことは一度もなかった。
「……」
母が亡くなって、父も亡くなって、頼れる人が誰もいなくなった。高一にして天涯孤独。挙げ句、住んでいた家まで追い出された。
途方に暮れ、自暴自棄になって深夜の公園を訪れた。どうなってもいいと……死んでも構わないと、本気でそう思っていたのだ。
暗闇に呑まれる寸前。
世界から目を閉ざした自分を彼が——十夜が、見つけてくれた。
「……っ」
眩しかった。何よりも。
差し出された手は、掴んだ手は、狂おしいほどにあたたかかった。
「決めたじゃん、一緒にいるって……信じるって」
人生の岐路。数多あるその中から、彼は自分との未来を選択してくれた。その覚悟に、自分も真摯に応えなければ。
状況が暗転すると決めつけて怯える自分なんかよりずっと、彼は強い心で現実と向き合ってくれている。
「追いかけなきゃ」
立ち上がり、真っ直ぐ前を見据える。
おそらく十夜はあの場所にいるはず。ここから歩けば十分、走れば五分だ。
心の中で彼の名前を何度も呼びながら、怜は駆け出した。
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