第3話

 一夜明け、案の定ネットは騒然となった。

 検索エンジンやSNSのホットワードでは『Toya 結婚』の文字が踊り、ネット記事やまとめサイトには、あることないことを書き立てられた。

 人の噂も七十五日と言うけれど、本当に二ヶ月半ぽっちで事態は収束へと向かってくれるのだろうか。昨日の今日で予測することなどできないが、下火になるとは到底思えなかった。

「いったいどういうつもり!?」

 ダンッと、両手でダイニングテーブルを叩き、怜は対座する十夜に詰め寄った。

 息が荒い。今にも噴火しそうなほど、彼女の感情はぐらぐらと煮立っている。

「どうって、べつにオレは結婚指輪嵌めて仕事しただけだけど。オマエと一緒だろ?」

 対する十夜はご覧のとおり。いつもと変わらぬ態度でコーヒーを啜り、憎らしいまでに落ち着き払っている。妻の怒りなど、どこ吹く風だ。

 堪えきれず、ついに怜は口から火を吐いた。まるで威嚇する猫のように、ぶわっと毛を逆立てる。

 昨夜、十夜の帰宅を仁王立ちで待ち構えていたのだが、帰宅時間が朝方になるということで、ひとりすごすごとベッドに入った。なかなか寝つけず、スマホで世間の反応を確認しようかと思ったけれど、怖くなってやめた。ひとりの夜をこんなにも不安に感じたのは、父が亡くなって以来初めてのことだった。

 そうして、午前六時頃。

 ようやく帰宅した十夜は、怜とほぼ入れ替わる形で就寝した。言ってやりたいことは山ほどあったが、仕事終わりの眠る夫を叩き起こすなどという無粋な真似はできず。

 起きたら覚悟しとけよと意気込んだ結果が、午後六時現在のこの状況である。

「つーか、何が気に入らねぇのかさっぱりわかんねんだけど。べつに悪いことしてるわけじゃねーんだし」

「悪いことしてないからいいとか、そんな問題じゃない! ちょっとは自分の影響力考えて!」

「いやいや、考えたからなんだっていう。オマエと結婚してるって事実は変わんねーじゃん」

「そうだけど! ほかのメンバーやスタッフさんたちにも迷惑かかるから、軽率な行動は慎んでって言ってるの!」

「事務所には公表の了承もらってるって何回言えばわかんだよ。それまでにメンバーやスタッフとはじゅうぶん話し合ってるに決まってんだろ。それに、言わせたいヤツには勝手に言わせておけばいい」

「そんな簡単に……」

 ああ言えばこう言う。

 いつもならどちらかが折れる頃合いだが、今日は互いに一歩も譲らなかった。こんなふうに言い合ったのは久しぶりだ。

 落としどころが見つからないまま、膠着状態に陥る。壁に掛かった時計の音が、やけに耳に障った。

「……じゃあなに?」

 十数秒の後。

 この状況を静かに打ち壊したのは、十夜が放ったこのひとことだった。

「オレたち、結婚しないほうがよかったわけ?」

「——っ」

 凍てついた空気が、引き攣った怜の肌に突き刺さる。いっさいの音が消え、目に映るすべての色が反転した。

 言葉が出てこない。

 自嘲するように笑った顔を……寂しそうに笑った夫のその顔を、怜はただ見ていることしかできなかった。

「……ちょっと外の風に当たってくるわ」

 呆れたといったふうに、嘆かわしいと言わんばかりに、溜息を吐いて立ち上がる。

 妻と目を合わせることなく、十夜はそのまま家を出た。

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