第十三章 本当の名前で呼んで 3

 奥の間に足を踏み入れ、私は驚いた。

 部屋の中に、白花妃が立っていたからだ。

 彼女は部屋の隅に置かれた火鉢の近くに立ち、両手を火鉢の方に伸ばして暖をとっている様子だった。


「はー、さむっ」


そう独り言をつぶやきながら身を震わせ、手を擦り合わせながら白花妃は火鉢に手を近づける。その様子は以前白花妃を目にしたときの仕草と違い、どこか庶民的なように見えた。


「えっ……」


 驚いて言葉を失ってしまったが、機転の利く春蘭はすぐに挨拶をした。


「白花妃様、本日の朝餉をお持ちいたしました。お届けするのが遅くなり、申し訳ございません」


 すると白花妃はこちらに振り向き、一瞬目を見開いた。その様子は、まるで油断して素を見せて失敗をしたとでも思っているようだった。


――やはり白花妃は怪しい。

 瞬時にそう思った私は、気づけば気を集中させ、白花妃を見つめて魅了し始めていた。


「あ……ちょっと思月」


 春蘭は私を止めようとしたのか、戸惑いながらこちらを見つけている。

 でももう、止めることなどできない。

 そして私はすっかり、白花妃を魅了してしまった。


「あなたは……?」


 とろんとした瞳になった白花妃が、よたよたと引き寄せられるようにこちらに歩み寄ってくる。

 その様子を見た桃美が不思議そうにたずねる。


「え? あの、白花妃様!? どうなさったんですか!?」


 すると白花妃は桃美と春蘭にどすの利いた声で叫んだ。


「あんたたち二人は部屋の外に出てなさい! 私はこの子と話があんのよ!!」


「え? は、はいっ」


「失礼いたします……」


 まるで人が変わったようになってしまった白花妃の様子に戸惑いながらも、桃美と春蘭は奥の間から出ていった。


 パタン、と扉が閉まり、部屋の中が静寂に包まれる。

 すると白花妃はうっとりした顔で私に近づき、肩を抱き寄せた。


「あの、白花妃様……」


「白花妃なんて呼ばないで。婀真あしんと呼んでよ……」


 頬を染めながら白花妃はそう言う。ぽーっとした表情で、心ここにあらずといった感じだ。


「あ、婀真、ですか?」


「そう。それが私の本当の名だから。誰にも、明かせないけれど……」


 そう言うと、白花妃は悲しそうな顔になった。魅了されると理性がなくなり、心の内を隠せなくなってしまうのかもしれない。今の白花妃はまるで子供のようだ。


「どうして本当の名前は秘密なんだ?」


 たずねると、彼女はフフフ、と笑った。


「後宮に来たら、もう自分の人生なんか送れないのよ。ここでは妃も女官も、ただの道具なの。私はただのおとり。妃たちの嫉妬を買って、呪われるために妃を演じているだけ」


「そうだったんだね」


 それを聞いて納得がいった。

 帝が白花妃のところばかりに訪れるのは、他の妃に白花妃を恨ませるためだったのだ。


 帝が本当に愛しているのが白花妃だと思わせれば、呪いの矛先を皇后や太子から白花妃に変えることができるし、誰が呪術で嫌がらせをしているのかがわかるかもしれない。彼女は妃などではなく、ただの婀真という女官だったというわけだ。


「いつ呪い殺されるのか、最初は不安で夜も眠れなかった。でももうあきらめたの。私はいつ死んでもかまわないわ。その日までわがままな白花妃として、偽りの人生を楽しんでやると決めたのよ」


「そのわりに、悲しそうじゃないか」


 そう言うと、婀真は「えっ」と声を漏らした。


「私、悲しそうなの?」


「うん。本当の自分として生きられないことが、悲しくて、寂しそう」


「そんなことないわ」


 婀真はブルブルと首を大きく横に振る。


「だって元の私って、ろくな人生を送っていなかったの。子供の頃から親戚の家に働きに出されて、そこでも邪険に扱われてしまいには後宮へ送られて」


「それで、容姿が美しいから、妃のふりをして呪いのおとりにさせられてるんだね」


「そうよ。いい襦裙を着せられて派手に髪を盛られて、いつか呪い殺される運命……」


 婀真は両手で顔を覆って肩を震わせた。


「もう嫌だ! どうして私の人生ってこんなに最悪なの! もう嫌よ!」


 子供のように駄々をこねる婀真の手を握り、私は言った。


「だったら、変えてあげようか」


「……え?」


 涙を溜めたまま、彼女は私の顔を見た。


「呪いのおとりになるの、私がやめさせてやるよ。だって呪ってくる人がいなくなればいいだけじゃん」


「そんな、簡単なことじゃ……」


「ねえ、犯人が誰かって、目星はついてないの?」


 すると婀真は答えた。


「わからないわ。でも少し前に宴の時に、妙なことをしてきた妃ならいた。でもその後、なにも起きていないけどね」


「へえ。どんなことがあったのか、こっそり教えてよ」


 にゃはは、と笑いながら、私は婀真の口元に耳を近づけた。

 


「思月、部屋の中で白花妃様と一体何を話していたの?」


 配膳を終え、白花妃の宮を出ると、すぐに春蘭がたずねてきた。


「白花妃様は、秋菊と同じで皇后を苦しめる呪術師を探すための任務についていたみたいだよ。それで少し、話を聞いてきた……」


 なぜだろう、体が重くてぐったりしてきた。

 白花妃を魅了したからだろうか。

 でも、今までにも人を魅了してきたけど、こんな風にはならなかったけどな……。


「思月、顔色が真っ青だし、ふらふらしてるじゃないの。具合でも悪いの?」


「うん、そうかも」


 私はそう答えると、すぐにその場にしゃがみこんでしまった。

 だるくて、眠くて、動けない……。


「思月、大丈夫?」


「うん……。なんかすげー長い時間働いた後みたいに疲れてる」


「ゆっくり厨房まで戻ろう。台車は私が押していくから。それで今日はもうお休みにしてもらって、部屋で寝てなよ」


「そうする」


「歩ける?」


「うん」


 はー、とため息をつきながら立ち上がり、ゆっくりよろよろと歩き始めた。

 

 それからやっとのことで部屋まで戻り、私は布団に倒れ込んだ。そしてそのまま、すやすやと眠ってしまった。

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