第九章 瑠璃と奏瑶 3
内侍省には前に私が「魅了」してしまった官吏がいる。
私は春蘭が宦官に襲われたところを救った事件のすぐ後に、彼から取り調べを受けた。その際、色々なことを穏便に済ませるために、彼を魅了して言うことをきかせてしまった。おかげで身分証明書まで発行され、私はこうして後宮で無事に過ごし、春蘭と共に暮らすことができている。
今も私は「魅了」を解く方法を知らない。あの時以来、孔内侍にはお会いしていないが、きっと今も私に魅了されたままの状態のはずである。
そのことをずっと申し訳なく思ってきたが、たまに厨房に訪れる朱茘と話す中で気づいたこともあった。
どうやら私と物理的に距離が離れると、私への強烈な恋心のようなものが、多少弱まるらしいのだ。そのことを朱茘は「離れていても心の片隅にはいつも思月がいるわ。でもこうして目の前に思月がいるのを見ると、もう、燃え盛るような恋心が湧き上がってとても抑えきれなぐうぅっ! ううっ!」と語っていらっしゃった。
だから、私と物理的に長い間離れて暮らしている孔内侍の場合、もう魅了の力もだいぶ弱まっている可能性がある。
「だといいけどな……」
「どうしたの、思月。考え事かしら?」
隣を歩く瑠璃にそうたずねられ、ハッとする。気づいたら物思いにふけってしまっていた。
「ああすんません、なんでもないすぅ」
両手をバタバタ振りながら、慌ててごまかす。すると瑠璃はクスッと笑った。
「前から思っていたけど、思月って面白い子よね」
「そ、そうすか?」
「ええ。なんだか純粋で単純で、まるで子供みたいな……。この後宮では、あなたみたいな素朴な子は珍しい気がするわ」
「そうっすかね」
「ええ。なにせ女だけの世界だもの。嫉妬やいじめは日常茶飯事のネチネチした世界。私と奏瑶のことだって、きっとみんな噂話のネタにしているのでしょう?」
「まあ、そうかも……」
否定できずに思わずそう答える。なんだ、瑠璃は気づいていたのか。
「ここから出たいと願っている子がたくさんいる中で、私の気持ちは間違っているんだと思う。でも、やっぱり私、奏瑶の傍にいたいの。ずっと添い遂げるつもりでいたから」
「ああ……」
「だから私、実家からの話は断って、後宮で働き続けたいって、だめ元で孔内侍に直談判してみようと思うの」
「え、孔内侍に」
「そうよ。あの方は賄賂などの不正にも加担せず、誠実にお仕事をなさってきたお方。女官が不当に刑罰を受けそうになった時には、穏便に事が済むように取り計らってくださったりもしているの。もしかしたらあのお方になら、お力添えをいただけるかもしれない」
まだ泣きはらしたような赤い目だったが、その横顔には決意が溢れていた。
そうこうしているうちに、私たちは内侍省の建物にたどり着いていた。
内侍省の建物は帝の住まう宮と後宮とを隔てる門の傍にあり、男性官吏がいるものの、許可があれば女官の出入りも許されている場所だ。
瑠璃は門の前に立つ宦官に告げた。
「尚食局から参りました。孔内侍にお話がございます」
宦官にとって瑠璃は見知った顔だったからだろう、すぐに中に通してもらえた。
「孔内侍は奥の書斎におられますよ」
「ありがとうございます」
宦官に礼を言うと、瑠璃はずんずん中へと入っていく。そして奥の部屋の戸を開く。
「失礼いたします」
深々と頭を下げ、瑠璃が書斎に入室した。私もおずおずと、その後ろについていく。
すると書簡を眺めていた孔内侍が顔を上げ、瑠璃を一瞬だけ見た後、その後ろに立つ私の顔を見て目を見開いた。
「し、思月!」
えっ? と瑠璃がこちらに振り向く。
孔内侍は血走った目で私を見つめ、こちらに近づいてきている。
やべっ! まだ魅了は解けていなかったんだ。やっぱりどうあってもついてくるべきではなかったか……!
つぎの瞬間、孔内侍は私の元へ駆け寄り、すがりついてきた。
「思月うううううう…………」
「ぐえぇぇぇぇぇ」
ぎゅーっと力強く二本の腕に抱きしめられ、肋骨がきしむ。
なにこれ苦しい。もはや色恋の感じの抱擁じゃない。腕に潰されて死ぬ。
「ぐ、ぐえ、えおぉ、死」
「ああああっ! すまないいいいっ!」
半分死にそうになり白目を剥きかけた私を見て、孔内侍はパッと腕を離した。
そして地面に頭を擦りつけ、誤りながら叫び続ける。
「私としたことが大事な思月になんてことを! 申し訳ない! この通りだ! だからどうか嫌わないでくれえええ! 俺のことを嫌わないでくれえええええ!」
「…………」
魅了、効きすぎやろ。
本当にどうにかして解いてやらないと、この人が不憫すぎる……。
そして私にとっても魅了は危険なものだと分かった。
魅了によって発生する愛情は狂気じみている。
これ、気を付けねえと、殺される。
「ねえ、なにかしら、この状況……」
瑠璃はその様子を眺めながら、唖然としている。
「えっと、いや、これは風水っすね」
「……風水?」
瑠璃は首をかしげる。
「なんか私の立ってる方角が悪いと思うんすよ。方角をずらせば、たぶん直るっす」
「そんなこと、ある?」
「あるんす。実はそういうの詳しくて」
なるべく真剣な表情で、私はこくこく、とうなずいた。
意地でも、ごまかさなければ。
化け猫であることなど、絶対にバレてはいけにゃい!
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