第九章 瑠璃と奏瑶 2

 朝、厨房へ行くと厨房の上官が女官たちを集めて発表した。


 瑠璃は元々、勤める期限が決まっている状態で後宮へ来たのだそうだ。その任期の満了まではまだ十年程かかるのだが、実家の考えが変わり、官吏の許可を得て、任期を全うする前に大金を払って瑠璃を家に引き戻すことになったらしい。


 そしてその理由というのが、地元の商人に嫁がせるためだというのだ。

 

「うううっ……うううううっ……」


 夜になり、隣の部屋からは瑠璃の泣き声が響いてくる。

 そして時折、低い穏やかな声で瑠璃をなぐさめるような奏瑶の声もかすかに聞こえる。


「奏瑶は瑠璃が後宮を去ると知って、最初は裏切られた気持ちになって怒っていたんだわ。でも瑠璃の本当の気持ちを知って、今は逆に瑠璃をなぐさめているのね。奏瑶は誤解していたけど、瑠璃は実家に帰って結婚なんかしたくなかったのよ。ずっと後宮にいて、奏瑶と暮らしたかったんだわ……。ううっ」


 すすり泣きながら琳琳は隣の部屋との境の壁に耳をひっつけ、隣の部屋の状況を説明しては、また涙を流す。琳琳の愛する二輪草が今、最大の佳境を迎えている。忙しそうだ。


「おいやめてやれよ、耳を壁にくっつけて盗聴するのは」


 またうんざりした顔で、宇晴は琳琳を注意する。でも琳琳は口元に指を立て「シッ! 今大事なとこ!」と言いながら宇晴を睨みつける。黙れ、と言いたいらしい。


「はあ……」


 ため息をつき、宇晴は布団にもぐりこむ。今日も寒いけれど、隣人たちの事件で盛り上がっているから、その寒さも忘れかけてしまうほどだ。


「うーん、でも瑠璃さんのご両親は勝手だよね」


 声をひそめながら春蘭は話し始めた。


「だって、任期付きだったとはいえ長年瑠璃さんを後宮で働かせる契約をしていたってことは、実家の都合で瑠璃さんの人生を後宮での仕事に捧げさせていたわけでしょう? その任期も、かなり長かったみたいだし」


 すると宇晴も春蘭に同意する。


「そうだな。それに大抵の場合、任期を終えてももう戻るところのない女官たちは、そのまま後宮で働く道を選ぶもんなんだよ。長年後宮に勤めて年老いてから実家へ戻っても居場所なんてないし、ここで働けば給料はいいし」


「瑠璃さんだってそのつもりだったから、奏瑶さんとそういう仲になったのに。それが実家の都合で急に引き戻されて結婚だなんて」


 そうやって深刻な顔で話し合っている春蘭と宇晴を見て、私は滑稽に思った。


「……二人とも、琳琳に毎日二輪草の話を擦りこまれているだけあって、瑠璃と奏瑶にだいぶ感情移入してんだね」


 ぽつりとそうつぶやくと、二人とも焦りはじめる。


「えっ? そうか?」


「べ、別にそんなことないけど?」


「瑠璃が実家に帰ろうと、どうでもいいじゃん。ほとんど会話したこともない人なんだし、大体こんな物騒な後宮なんかにいて朝から晩まで働かされるより、実家に帰って結婚したほうが幸せかもしれないじゃないか。わざわざ大金払って瑠璃を後宮から呼び戻すんだから、お相手はよっぽどのお金持ちなんだろ」


「だけど、瑠璃にとってはたとえ相手がお金持ちでも、それは幸せじゃないんだよ……」


 言いにくそうに、宇晴がつぶやく。


「そうだよ、瑠璃さんは奏瑶さんと、あんなに仲睦まじかったのに」


 春蘭まで、悲しそうな顔でそんなことを言う。


「そうは言ったって、ここは身売りされて来るような場所だろ。ここから出て暮らせるあてがあるなら、そのほうが幸せかもしれないじゃないか」


 他人のことなど心底どうでもいい私は、段々眠くなってきて、布団に包まったままうとうとし始めた。


「えー。今までさんざん琳琳からあの二人の話を聞いてきたのに、思月はどうとも思わないのかよー」


 今まで琳琳の二輪草熱を批判してきた宇晴が、そんなことを言う。


「しらにゃぃぃ……。おやすみぃ……」


「ううううっ。瑠璃と奏瑶がああっ……。ううううっ……」


 琳琳の泣き声を聞きながら、私は眠りについた。

 睡魔には弱いんだよ。猫だから。



 瑠璃が今年中には後宮を去るとわかった日から、厨房の女官たちは陰でコソコソ、その話ばかりをするようになった。


「あんなに奏瑶と親しそうだったのに、気の毒だよねえ」


「まあねえ。でも私なんか、うらやましく思っちゃうなあ。お相手は金持ちの商人なんだってよ。幼い頃から瑠璃が好きで、瑠璃を取り戻すために商売を成功させたんだってさ」


「すごいじゃないそれ。瑠璃って放っておけないようなかわいらしさがあるわよね」


「後宮にいるより、外に出てそのお相手と結婚したほうが、瑠璃のためか」


「私のことも、誰か迎えに来ないかねえ」


「そんなこと、めったにないわよ。いくらかかると思ってんのよ」


 ……はあ、嫌になるなあ。


 噂話をしたくて、厨房で働く女官たちが時間を見つけては裏庭にやって来るようになってしまったのだ。

 今までこの裏庭は、人がほとんどいない、私の格好の「サボり場」だったのに。

 ちぇっと思いながら、仕方なく皿洗いに戻る。


 ちなみに冬になるというのに私は依然、皿洗いのままだ。

 手がめっちゃ冷たくなるし、一度はあかぎれになってしまったこともあった。

 だが朱茘が巡回に来た時に私の手の傷に気づき、すぐにとても良い軟膏を持ってきてくれた。そのおかげでいくら冷水で皿を洗おうが、私の手はツルツルだ。寒いけど。


「まったくもー」


 ブツブツ言いながら皿洗いをしていたら、珍しく瑠璃が近づいてきて、私の隣で皿洗いを始めた。


「あれ……。今日は瑠璃さんが皿洗いの番すか?」


 不思議に思ってたずねる。そもそも瑠璃は尚食局の在籍年数も長くて料理の腕もいいから、主に難しい調理や味付けを担当している。皿洗いをしている姿なんか、見たこともない。


「いえ、そうじゃないの……。でも、ごめんね、ここに居させてね」


 そう言ってこちらに振り向いた瑠璃の顔を見て、私は思わず息をのんだ。

 口元は無理をして微笑んでみせているものの、目を赤くはらし、涙を流していたのだ。


 ……そっか、泣いているのがバレたくないから、皿洗いをしに来たんだ。

 ここで洗い物をしていれば厨房のみんなに背を向けていられるし、水の音で鼻をすする音もかき消される。ここにしか、瑠璃の居場所はないんだ。


「どうぞ、私は逆に助かるんで……」


「そう? えへへ」


 鼻を赤くしながら、瑠璃は笑った。そして無言で洗い物に集中し始めた。

 尚食局での仕事に慣れているだけあって、瑠璃はあっという間に洗い物を片付けていってしまう。


「ああっ、そんなに洗ったら、私の今日の仕事がなくなっちまいますよ」


「あら、ごめんなさい」


 ハッとしたように瑠璃が顔を上げる。そしてしばらく何かを考えこんでから、思い立ったというふうに、こちらに振り向く。


「ねえ思月、ここの洗い物を早く終わらせたら、その後今度は私の用事に付き合ってもらえないかしら」


「いいですけど、なんすか?」


内侍省ないじしょうに、ちょっと用事があってね。付き添ってほしいのよ」


「内侍省すか。わかりました……」


 正直気が進まなかったが、瑠璃は女官としての位が私より高いし、目を赤くしたままの顔で頼まれては、断ることもできない。

 

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