第七章 灯篭の夜祭り 2
やがて中元節が近づき、ついに尚食局では宴用の料理の試作に取り掛かり始めた。
とはいえ私は万年皿洗い。特にやることに変わりはないのだが、色々な噂話が耳に飛び込んでくる。
「朱茘様、今回の宴は『愛月湯』を中心にした品書きでいこうと思っているらしいわよ」
「へえ。確かにあれは最近考案したばかりの新作料理だし、後宮内でも評判がいいものね。でも陛下が酸味のあるさっぱりとしたお味をお好きならいいけれど」
「おいしいけど、独特な味だもんねえ。滅多に後宮には姿を現わさない皇后様も、どう思われるかしら。皮の部分はほんのり苦いし」
「朱茘様に万が一のことがあったら困るわ。朱茘様がいなければ、尚食局は回らないんだから」
そんな噂話を聞いていたら、段々胸がドキドキしてきた。
愛月湯は、朱茘が私に恋する気持ちをつのらせながら考案した料理だ。裏庭になっている酸っぱい柑橘の実を朱茘にあげたら、その皮を乾燥させて粉にして羹に入れる料理を朱茘が考案してしまった。
後宮内では妃や女官たちへの夕餉の羹として何度か出されたことがある。豚肉や鶏肉のこってりとした羹に入れても、白身魚と葱のあっさりとした羹に入れても、その柑橘の風味がよく合い、夏場の食欲不振時にも愛月湯であれば食べやすいと、評判が良いようだ。
だが後宮内で評判が良くても、帝や皇后にとってどうかはわからない。
朱茘は私に魅了されたままの状態だから、愛月湯に特別な思い入れを持ってしまっている可能性がある。
「なにかあったら私のせいなんじゃあ……」
次第に気持ちが重くなっていき、私はきりのいいところまで皿を洗い終えると、裏庭へ休憩に出ることにした。
「あら思月、これから休憩?」
傍で作業していた春蘭からそう声を掛けられ「にゃはは」と苦笑いする。
「ちっと、気の重いことがあって」
「そうなの? 今手が離せないんだけど、きりがついたら私も裏庭に行くから待ってて」
春蘭はそう言って、にこっと笑った。
それだけで、なんだか心強い。
「無理してまでは、来なくていいから」
そう言いながらも「来てくれたら嬉しいなあ」と思いながら、私は裏庭へ出た。
夏場になり、裏庭はすっかり背の高い雑草で覆われてしまっている。その上日差しは熱いし、虫はいるし……。だから誰も、裏庭で休憩しようとするものはいない。
こうなると私もさすがに草の上に寝ころぶ気にはなれない。
軒下のわずかな日陰の部分にしゃがみこみ、じーっと地べたの蟻を観察する。
蟻は列をつくり、せっせと巣に食べ物を運んでいる。なんだか人間たちにも似ている。猫にはなじみのない生き方だ。集団で、それぞれの役割を果たしながら力を合わせて生きていくような、やりかた。
とはいえ、私も人間としての生活がそれなりに長くなってきた。
そうしてみれば不思議なもので、私自身が日に日に人間に近づいていくように感じられる。人間の社会に身を置き、人間として生きることが板についてくるのだ。
例えば今の私は目上の女官に逆らおうとは絶対に考えない。以前のようにやる気のない悪い態度をとることも随分減った。
人との会話を大事にするようにもなった。情報を得て器用に立ち回ることが、ここでうまく生きていく術なのだとわかったからだ。
といったって、まだまだ普通の人間からしてみれば、不十分なんだろうけど。
「私はもう、猫でもない」
なんとなくそう思って、ぽつりとつぶやく。
しばらくじっと蟻を見つめていたら、ギィ、と厨房の裏戸が開いて、春蘭がやってきた。
忙しいのに、本当に来てくれたのか。
出会った頃より健康的になった春蘭が、夏の強い日差しに照らされながら、こちらへ歩み寄ってくる。その様子を私は日陰でしゃがんだまま、見上げる。
「どうしたの。柄にもなく暗い顔をして」
「…………私は暗い顔をしていたのか?」
「うん」
そう言って、春蘭はよしよし、と私の髪を撫でてくれた。それから私の隣に座ろうとしたので、慌てて言った。
「あ、春蘭。そこ、蟻がいるよ」
「えっ!? わあ、ほんとだ。うじゃうじゃいる……」
春蘭はひぇっと声を上げ、顔をしかめた。
ほんの少し場所を横に移動し、春蘭と軒下にしゃがみこんで話をする。
「ここのところ忙しいから、思月も大変だった?」
そうたずねられ、首を横に振る。
「私はいつも皿を洗っているだけだから、変わらないよ」
「じゃあ、どうしたの」
「うーん」
ほんの少し、考え込む。
私は朱茘が、私の魅了の力のせいで不幸にならないかを心配している。
でもあの魅了は春蘭と共にいるため、春蘭を守るために使ったものだ。
自分が使った魅了に罪の意識を感じていることを、春蘭に話す気には、なんとなくなれない。
「まあ、人間になってきたってことかな」
うやむやに、そんなことを言った。
でも実際そうなのだ。
以前の私なら、春蘭以外の人間に価値なんか感じていなかった。だから魅了を使った時にはどうとも思っていなかったのだ。
でも今の私はこうして春蘭以外の人のことを心配して、罪の意識を感じたり思い悩んだりしている。
猫の時から罪の意識が全くなかったわけではないが、より考え方が繊細になった。それは私が人間化しつつあるからだろう。
「私の人生に付き合わせて、苦労させちゃってる?」
なにかを見透かしたように、春蘭にそうたずねられ、思わず顔を上げる。
じっと春蘭を見つめる。
出会った時から変わらない、儚げで優しい春蘭。
「望んで付き合ってるんだ」
ただ、そう答えた。春蘭の人生に付き合うことで苦労があろうがなかろうが、それは問題じゃない。
春蘭の笑顔を守ることが私の生きる目的なのだから。
「この世にそんな奴は、思月しかいないよ」
そう言って、春蘭は笑った。
その笑顔を見たら、なぜか胸がせつなくなった。
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