第六章 七夕節
第六章 七夕節 1
ある夏の日のこと、休憩時間に軒下で涼んでいたら、春蘭に声をかけられた。
「思月、ちょっと散歩にでも出かけてみない?」
「ええ、この暑いのに?」
それでも私はヨロヨロと起き上がった。春蘭がこんな風に散歩に誘ってくることなんて、珍しいことだからだ。
「もうすぐ七夕節だから、後宮内のあちこちに、七夕の飾りつけがされてるんだよ。とっても華やかで綺麗だよ。私はここへ来てからろくなことがなかったけど、それでも七夕節の飾りがされた後宮の景色は、ちょっと好きなんだ」
「へえ、わかった。そんなら行ってみっか」
春蘭がそこまで言うなら仕方がない。勢いよくぴょん、と立ち上がり、春蘭と一緒に後宮の大通りへと出た。
「こいつあ確かに綺麗だな」
頭上を見上げながら、私は思わずそうつぶやいた。
大通り沿いの建物から、たくさんの笹が通りに向けて伸びていて、そこから色鮮やかな七夕飾りが吊るされている。
「思月は七夕の飾りを見るのは初めて?」
春蘭にたずねられ、うなずいた。
「うん、前のお妃様のお屋敷にいた時には、汚れたり変な虫を持って帰ると困るからって、部屋の中に閉じ込められちまってたから。外に追い出されて野良猫になってから初めて、後宮がどんなところか知ったんだ」
「そうだったんだね。それじゃあいきなり野良になって、大変だったね」
「大変だったさー。最初のうちは虫も捕まえられなかったし、木登りもできなかったし」
「そっかそっか」
そう言うと春蘭は、すっと私に手を伸ばした。
自然と私も、その手を握る。
春蘭の肌の温かさを感じる時間が、私は好きだ。
こうして春蘭と手をつないで綺麗な景色を見ながら散歩していると、あらためて思う。
ああ、今、幸せだにゃあ。
胸のあたりがジーンとするのを感じながら歩いていたら、通りの向こうからきらびやかな集団が歩いてくるのが見えた。
その集団が近づくにつれ、つないでいる春蘭の指先が冷たくなっていく。
「春蘭?」
隣を歩く春蘭の横顔を見ると、顔色も青白くなり、いつになく怯えた目つきになっていた。
これはただ事ではない。
「どうしたんだ、春蘭。大丈夫か?」
すると春蘭は震えながら答えた。
「あれは、玲玉妃様とその御一行だよ……」
「そ、そうだったのか」
私はまだ、春蘭をいじめていた玲玉妃という妃の姿を見たことがなかった。
前方からやって来るその集団に目を凝らす。
女官たちに囲まれ、高く結った髪にバカみたいに大きな金釵を挿した刺繍まみれの襦裙の女。あれがきっと、玲玉妃とやらなのだろう。
「お妃様とすれ違うときには道のわきによけてかがんで、深く頭を下げていなきゃだめよ」
春蘭はそう耳打ちし、すぐにその姿勢を取り始めた。
けっ。なんであんなやつに頭を下げなきゃなんねぇんだよ。
そう思いながらも仕方なく、私は春蘭の真似をする。
まあどっちみち、ムカつくやつなんざ視界に入れたくねえもんな。
頭を下げていれば、あっちもこちらには気づかないだろう。
そう思ってその姿勢を取り続けていたのだが、なかなかその御一行が通り過ぎていかない。あちこちの七夕飾りを見ては、あれは悪趣味だの、あれは帝の気を引くためとはいえ派手すぎるだのと、大通り沿いの飾りにケチをつけては高笑いしているのだ。
おいおい、どこまで性格が悪ければ気が済むんだよ……。
さっきまで春蘭と楽しい気持ちで眺めていた美しい七夕節の風景が汚されたように感じて、段々イライラしてきた。
「なあ春蘭、私たちはいつまでこうしてなきゃいけねえんだよ」
ぼそっとそうつぶやくと、春蘭は「静かに」と私をたしなめてから言った。
「玲玉妃様たちが通り過ぎて、十分な距離があくまではこうしていなくちゃだめだよ。ただでさえ、私は目を付けられているから」
「……だりぃなあ」
そう答えると、春蘭は私に鋭い視線を送った。
「そ、そんな顔しなくたって」
たじろぐ私に春蘭は言った。
「ここで生き残りたいなら、私の言うとおりにしなくちゃだめ。私は思月を失いたくないんだから」
「…………わかったよ」
春蘭にそう言われれば、悪い気はしない。
私は思月を失いたくない、か。
へへへへへ。
私は言われた通りにおとなしく、首を垂れ続けた。
そんな私たちの目の前を、ついに玲玉妃様御一行が通り過ぎようとしたまさにその時。
玲玉妃はどうやら、頭を下げているのが春蘭であることに気づいたようだった。
「あら……。そこの薄汚れた作業着の女は、もしかして春蘭かしら」
「はい」
決して頭を上げず、そのままの姿勢で春蘭は答える。
「以前の儚げな感じがなくなって、ずいぶん太ましくなったのね。厨房でつまみ食いでもしているの?」
玲玉妃の人を小ばかにしたような声音を聞いていると、体がカーッと熱くなってきた。
私の。
私の大事な春蘭を、よくもそんな風に。
「いえ、決してそのようなことは」
あくまで冷静に、春蘭は答える。
その瞳は、初めて出会った頃のように、虚ろだった。
一瞬、ある考えが頭をよぎる。
私が今ここで顔を上げて、この玲玉妃を魅了してやればいいんじゃないか。
そうすれば彼女は私に夢中になる。その上で、彼女を嫌って、拒絶して、失意のどん底にまで落としてやればいい。
私の力があれば、きっとこの性根の悪い女の心をひねりつぶしてやることができる。
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