第四章 意地悪女官

第四章 意地悪女官 1

 ある日、厨房で掃除をしていると、琳琳に声をかけられた。


「ねえ思月、今春蘭が、紫娟しえんに連れられて裏庭へ行ったわよ」


「え? そうなの?」


 確かに厨房を見渡してみても、春蘭の姿がない。

 いつもは裏庭へ出るところにある洗い場で皿を洗っているから、誰か人の出入りがある時には気づくのだけれど、今は床掃除をしていたから気づかなかった。


「でも、なんでそれを私に?」


 不思議に思ってたずねると、眉をひそめて琳琳は言った。


「思月ってほんとに鈍感よねえ。その様子だと、紫娟がどんな人なのか、全然わかっていないみたい」


「どんな人なのかっていうより、誰って感じだよ」


 私は忘れっぽいたちなせいなのか、特に関わりが多い人以外のことは基本覚えていない。だからここで働く女官の名前なんか、ほとんど覚えていないのだ。


「誰とか言っちゃだめでしょ」


 琳琳は顔を歪める。へえ、知らない人のこと、誰とか言っちゃだめなのか。人間界のルールはよくわからない。


「紫娟って言ったら、ここの厨房じゃあ意地悪なことで有名な女官よ。それも勤務年数が長いからって幅を利かせてるから、たちが悪いの。私も尚食局に入りたての頃は、よくいびられてたわ」


「ええ? じゃあ今、その人が春蘭と裏庭へ行ったってのは……」


「なにか良くないことが起きてるわよ、きっと」


「はああ!?」


 私は掃除に使っていた濡れ雑巾を放り投げて、すぐに裏庭へと走る。


「あ、ちょっと思月……」


 慌てて琳琳が私を呼び止めたが、止まる気なんかない。

 春蘭を守るために、私はここで一緒に暮らしてるんだから!



 裏庭へ出たらすぐに、春蘭と誰かの会話が聞こえてきた。


「あんたって真面目よねえ。まだここへ来て数か月だけど、言われたことをきっちりとこなすって、評判になってるわよ」


「そうだったんですね」


 どうやら話声の相手は春蘭を褒めている。

 琳琳は紫娟が意地悪な人だと言っていたから心配したが、いびろうとしているわけではないのかもしれない。


 とりあえず様子をうかがうため、裏庭の手前で立ち止まり、厨房の壁の影に隠れながら聞き耳を立てる。


「調理をさせてもらうのも早かったわよねえ。私なんて、包丁を握らせてもらうまでに何か月かかったことか」


「たまたま、今は人手不足だから早かっただけだと思います」


 春蘭は控えめにそう答える。その声音には、心なしか元気がない。

 私に話す時の春蘭の声とは違う。


「正直言って、厨房中の女官があんたには一目置いているわ。だから……驚いたわよ、あんたがここに来た理由を知ったときには」


「…………え?」


 思わず私は厨房の壁から顔を出し、春蘭の様子を見た。

 春蘭の顔はこわばり、青ざめている。


「あんた、前は玲玉妃様のところに仕えていたんだってね。それで宦官をたぶらかしたから追い出されて、ここへ来たんでしょう?」


「あの、でも、それは……。誤解なんです」


 春蘭はどうにか訳を話そうとしているが、言葉がうまく出てこない様子だ。

 そんな春蘭を見て、紫娟はふふふ、と笑った。


「まあいいのよ、別にそんなことは。ここでちゃんと周りに迷惑をかけずに仕事ができれば、それでいいんだから」


「は、はい……」


 春蘭はうつむきながらうなずいた。


 別にいいなら、どうしてわざわざそんなことを言ったんだよ。

 思わずギイ、と歯を食いしばる。


「でもねえ、私は心配なの。玲玉妃様のところで宦官をたぶらかしたみたいに、ここでも人をたぶらかさないのかどうかって」


「どういうことですか?」


「自分だけ良く見えるように振舞っているんじゃないかってこと」


「そんなこと、していないです」


 顔を上げ、春蘭は紫娟にはっきりとそう告げた。

 だが紫娟は笑みを浮かべたまま、話しを続ける。


「あんたと同時にここへ来た女官がいるわよね。思月、だったかしら? あの子、どうやらなかなかいないくらいの出来損ないらしいじゃないの。皿洗いさえもろくにできない上、よく皿を割るんですってね。床掃除をさせても、かえって床がベチャベチャになって汚れるんだって。厨房の女官たちからはこれ以上ないくらい評判が悪いわ」


 ……うわ、まじか。すんません。

 もう春蘭を助けに飛び出していこうかと思っていたのに、紫娟の言葉を聞いて足が止まってしまった。


 私なりにはがんばっているが、そもそも猫と人間とじゃ感覚が違うのだ。

 私がこれくらいでいいかと思っていても、人間にとってはそうじゃない。


 でもそれを言い訳にすることはできないだろう。私はちゃんと人間一人分の仕事をするかわりに、食べ物や寝床を与えられているのだ。そのために最低限、自分にできる努力はしないと……。そういう気持ちが、人間としての暮らしが長くなってきたせいか、自分の中にも芽生え始めていた。


「でも思月はちょっと不器用なだけで、とってもいい子なんです」


 春蘭は懸命にそう訴えてくれている。

 悪いな、春蘭。私のこと庇ってもらって……。


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