第一章 ずっと田舎で暮らしてる
私、佐藤
雨期の出鼻を挫くような晴天。だけど。いや、だからこそ。私は神主を務める父親に、とある神社の境内掃除を命じられていた。
うちに限らず、田舎の神職というのは大概、地域一帯の神社を複数管理しているものらしい。中規模のものから、ごくごく小さなお社まで。祀っている神様もまちまちで、山の神様や海の神様、稲穂の神様など、たいへんバラエティに富んでいる。まあ私は、これから向かう神社の御祭神を知りもしないのだけど。
ああ、億劫だ。
自宅のすぐ近くの境内(というか家が神社の隣にある)なら、まだいい。しかし中学二年生――すなわち思春期真っ盛りの娘がひとり、ちょっとした距離を草刈り鎌や軍手持参で歩くのはしんどい。服だってそう。汚れるのが前提の作業なので本当は学校指定のジャージを着たかったのだけど、移動中の人目が気になって断念した。次善の策として、去年、博多の古着屋で買った上下組のジャージを着用している。
人の目は厄介だ。刺激に飢えた田舎だからか、本来なんでもない内容に軽はずみな脚色を加える輩は多い。そういう暇人は、捏造まがいの醜聞を簡単に拡げてしまう。嬉々として人の粗探しをするような連中の目には、いまの自分は家の手伝いをするいい子ちゃんっていうより、だっさい
せめて自転車があればよかったのに。でも残念ながら、愛車はブレーキレバーの不調で修理に出したばかりだった。私は仕方なく、民家や田畑に囲まれた一車線道路の端を歩く。表情を殺し、緊張感を持ちつづけ、色褪せたアスファルトを踏みしめる。同級生。いや同年代。あと、それらの親御さんとすれ違わないことを祈りながら。
九州北部に位置する、人口二万人ちょっとの小さな離島。生まれ育った、ちっぽけな世界。そこで息する私の、取るに足らないありふれた日常。そのはずだった。
運のいいことに、公道を進む二十分ほどの間で誰かと出くわすことはなかった。しかし本番はこれからだ。目的の神社へと辿り着くには、途中から、ほとんど未舗装の砂利道を降っていく必要がある。ここはもともと手狭な上、まわりの木の枝や草も伸び放題だから、車で乗り込むと枝葉がぴしぴしと車体を叩く。さぞかしドライバーには不評だろう。
まあ信仰の薄い現代人が、わざわざ
「それでも地域の人や神様のために、綺麗にはせんといかん」
太鼓腹でふんぞり返った父親は頭ごなしにそう言って、私の休日の予定を決めた。なにを偉そうに。自分では面倒くさがって、掃き掃除ひとつ、まともにやらないくせに。
もし、おかあさんがいたら。文句を言わず、いやな顔もせず従う母が生きていたならば。きっとあの人が、この任を命じられていたことだろう。家族を使用人かなにかと勘違いしている、あの男に。
いくつもの不快な感情が胸の内で渦巻いている。けっして消えない悲しみと後悔。その元凶たる男への憎しみ。男に
ダメだ。こんなんじゃ気持ちが保たない。
そう思った私は、無理やりにでも気分を変えようと、適当な歌を口ずさんだ。
Lollipop Lollipop
Oh Lolli Lolli Lolli
Lollipop Lollipop
Oh Lolli Lolli Lolli
Lollipop Lollipop
Oh Lolli Lolli Lolli
Lollipop
すごく古い、ベタベタ甘々な内容の洋楽。むかし観た映画の中で流れていた、ずっとお気に入りの曲だ。
歌はいい。こことは別の世界に私を連れていってくれる。それが洋楽なら、尚のことトリップしやすい。
まあ、後半の歌詞はうろ覚えだったりするのだけれど。
「ふふんふんふん」
人目がないこともあって、私は少しリズムに乗りながら砂利道を降りた。やがて木々のアーチは途切れ、ちょっとした広さの窪地に出る。大小の山々と、いま降りてきた坂道に囲まれているスポット。ここまで来てようやく、めざす社殿や鳥居を目視することができた。
ただし、それは小山の中腹にあった。そう、今度は登らねばならない。この長く連ねられた、不揃いの大きな石段を。神社仏閣の類は大抵が足腰に不親切だ。それにしたって若者よりは多分に信仰の篤いであろう、お年寄りを遠ざける気満々の配置。やる気ある?
服が汗になる、というほどの労苦ではないけれど。それでも軽く息を弾ませ。山ほどロリロリ言いながら。数分後、ようやく私は石段を登り切った。
苔生した石製の鳥居を前に、掴んでいた手さげ袋の取っ手を肘にかける。そして軽くおじぎをし、申し訳程度に
その寂れた神社は、以前と変わらずそこにあった。最後に掃除をさせられたのはゴールデンウィークだったから、ここに来るのは一ヶ月ぶりか。
学校の体育倉庫ほどの大きさしかない、築ウン十年、あるいはもっとの古いお社。九割以上が木造だ。すっかり黒ずんだ板や柱。閉じ切った開き戸。訪れるたび、設置する意味を考えてしまう賽銭箱。とうに
それでも造りそのものはしっかりしているようで、まだまだ朽ち果てそうにはない。これについては建築に携わった、当時の職人さんの技術に感服するばかりだ。
辺りを見回す。桜や楓など、いくつもの木々に囲まれ覆われた境内。先月同様、秋頃の苛烈さに比べれば、まだ落ち葉は大したことなかった。けれど、お社まわりや中央の石畳はいいとして、地面がむき出しになっている両脇のスペースは雑草がちょこちょこ生えている。しかもここ数日、雨がつづいたために湿っぽい。踏み込んだら、どう気をつけてもスニーカーが悲惨なことになるだろう。
ああ、いやだいやだ。
始める前からモチベーションを削られてしまった。とはいえ放り出すわけにもいかない。やるしかないのだ。
ふと、
いや、ちがう。
近づき、覗いてみると、鉢の底は一面が濡れていた。雨水の残りってかんじでもない。どうやら、ゆるい蛇口は世にも珍しい参拝客の仕業だったらしい。
一応、まわりを再び見返す。やっぱり人影はない。もう、とっくに帰ったようだ。私はため息を吐いて栓を締め、手さげを石畳の端に置いた。そして虫除けスプレーを全身に振りかけたあと、捲っていた上着の袖を下ろし、タオルを首に巻いてファスナーを全部閉じた。これで藪蚊対策は十分。最後に軍手をはめ、とうとう意を決し、竹箒や熊手、ザルを立てかけてある、お社の裏手へ回ろうとした。
そのときだった。
年季の入った木の板が軋む、ぎいいいぃ、という大きな音が境内中に響いた。掃除に気が乗らず、うごきが緩慢で、まだお社のほぼ正面に立っていた私は、その発生源をしっかりと目撃した。そして目をまるくした。
繰り返しになってしまうのだけど。それはもう、社家の娘としては誠に遺憾なことなのだけれど。この神社には、
そんな神社の、固く閉ざされていたはずの扉が突然開き、中から人が現れたのだ。しかも、あまりに場と不釣り合いな人間が。
それはセーラー服を着た女の子だった。
髪は脱色していて、ほとんど金色に近い。肌は黒く焼けている。手首や首元のアクセサリーはキラキラと輝きを放ち、肩にかけたピンク色のポーチはかわいらしい。随分と胸の発育がよくって、スカートはびっくりするくらいに短かった。テレビに出てくる都会の女の子ってかんじだ。
襟と袖口に赤いラインの入った、紺色ベースの長袖セーラー。見覚えがない。島外から来た子だろうか。どうあれ、こんな古びたお社の中から現れるのは異様だった。
扉を開く前から、私の存在に気づいていたのだろう。彼女はこちらを
なにか言わなければ。そう思った私より早く、向こうが先に口を開いた。
「なにアンタ。ボランティア?」
溌剌とした、しかし愛嬌さに欠ける声音。小心な私は思わず、どきりとさせられてしまった。相手はこちらの恰好を見て、奉仕活動に従事する田舎者と判断したらしい。まあ、間違ってはいないんだけど。
「ええと、その」
私は彼女の口調と見た目に気後れして、どう答えようかと口ごもった。
「私は。えっと」
言い淀みながら目をさまよわせる。と、そこで初めて、床板を踏みしめる少女の足に目が行った。真新しい、ぴかぴかのスニーカー。つまり土足だ。
「ちょっと!」
つい大きくなってしまった声に、少女がびくりとなって身構える。
「な、なに」
「お社に土足で上がるなんて、罰当たりもいいとこですよ。靴、脱いでください」
こちらの叱責に、しかし相手はどこかほっとしたような具合だった。
「えぇー、だって裸足だと汚れちゃうじゃん」
「そもそも勝手に上がるなって話ですっ。あなた、どこの誰なんですか」
「いや……まず、そっちが答えなよ。あたしが先に訊いてんだから」
有無を言わせぬご様子。少女はうろたえる私の反応をたしかめてから、振り返って扉を閉めだした。開けたときもそうだったのだろう。よく見れば、手に持ったハンカチ越しに取っ手を掴んでいる。そうして閉め終えると、土足のまま、三段ある
私は彼女が石畳の上に立って初めて、背丈は自分と同じくらいなのだと気づいた。大人びて見えていたから、少し意外に感じる。
「あれっ? ……もしかして」
すぐ目の前まで近寄った少女は、私の顔を見てぽつりとつぶやいた。
「え?」
「……いや、なんでも」
少女はゴム鞠みたいな胸を反らし、こちらを見据える。
「名前は?」
「……佐藤、だけど」
私はぼそっと答えた。敬語を使いつづけるか迷ったものの、ずっと雰囲気に呑まれてばかりの上、もし向こうが年下だったら尚更悔しいので、やめておいた(同時に私は『でもさすがにこの胸いやこのスタイルで年下というか中学生はあり得ないんじゃないかな仮にそうだったとしたら結構な心の傷を負ってしまうよどうか年上いや高校生あるいはコスプレした若作りの大人であってくれ』と心の中で息継ぎなく懸命に祈ってもいた)。
「下は? 下の名前」
「……郷子」
初対面の相手への警戒心とか関係なく、私は人に名乗るとき、姓と名を分けることにしていた。だってサトウサトコって、ちょっと言いづらいし恥ずかしい。
「サトコ、サトコね。ふぅん」
彼女は自身の唇に親指を押し当てながら、こちらを眺めた。しげしげと、値踏みするかのように。私は自分のいまの服装を思い出し、カッと頰が熱くなった。しかし派手やかな少女に、それを嘲る様子はない。
それきり向こうは、なにも口にしない。だから私も、じっと観察し返した。ぱっちりした目や、すっと通った鼻筋。色の薄い、でも、つやつやした唇。そして、それらのバランス。華美な装いで見落としそうになるけれど、どうも彼女は元から相当な
うちの学校――こんな田舎でも、髪を染めたり、派手な恰好をしたりする子は割といる。大人はいい顔をしないけれど、本人たちは楽しそうだ。しかし距離を置いて見ていると、時折、どこか不自然さを感じることがあった。痛々しいと言うほどではないものの、なんだか無理をしているというか。いや、無理があるように思えるのだ。暗に、「子ども扱いしないで。でも、大目に見て」とまわりへ訴えかける、甘ったれのにおいがする。
けれど目の前の少女には、そういった悪い印象を感じない。元の外見的な素養と、内面から溢れる快活さがそうさせるのだろうか。
とにかく。こんなに派手で綺麗な子を間近で見たのは、生まれて初めてだった。
なにもかも、私とはちがう。
「そっちは?」
「……は?」
「……そっちの、名前」
少女がいつまで経っても名乗らないので、私は遠慮がちに訊ねた。
「ああ……ミカっていうの。中二」
さらりと、おそろしい情報を付け加えてきた。まさかの同学年。
「で、なんでサトコはこんなとこにいんの」
こちらの意思も年齢も確認することなく、当たり前のように呼び捨てだ。気にしていた自分が、ばかみたいに思えてくる。
「別に。親が神主だから、掃除させられに来たってだけ」
私はここに来るまでの不満や苛立ちを思い出し、ぶっきらぼうに答えた。
「へぇ、そうなんだ。ここ、サトコんとこの神社なんだ。……え、ダイジョブ? 生活できてる?」
ミカと名乗った少女は芝居がかった仕草で首を捻って、閑古鳥の鳴くお社を見た。ほんのりムカつく。毛嫌いしている父親の仕事とはいえ、それを理由に自分が初対面の他人から軽んじられることは我慢ならなかった。
「この神社だけを管理してるってわけじゃありませんから。ここだって、お祭りのときは人がいっぱい集まるし」
見栄を付け足すと、彼女は「うそだー」とキャラキャラ笑いだした。
「ほんとっ。ていうか、なに? そっちは、ここでなにしてたの?」
少女はパッと真顔になった。けれど、それも一瞬のことで、「うーん」とつぶやき、なにかを思い巡らすように宙を見上げた。なんだか楽しげ。コロコロと表情の変わる子だ。よく人から陰気くさいと言われる私には、彼女の朗らかな顔つきや仕草は眩しい。一層、鮮やかな印象を受けた。
「えっとねー。ぶらぶら散策してたら、ここ見つけてさ。中はどうなってるのかなーっと思って入ってみたんだ。おかげでハンカチ真っ黒だよ、ほら見て」
ミカは手に持っていた布切れを得意げに差し出してくる。もともとは水色だったようだけど、いまは見る影もない。この汚れはもう、洗っても取れなさそう。古い木だ。仮に私が毎朝毎晩、誠意を込めてお社全部を拭いて回ったとしても、こればっかりはどうにもならない。
「あ、勘違いしないでよ? サトコを責めてるわけじゃなくて、すごいでしょーって言いたかっただけ」
「わかってるよ。別に、どうでもいいし」
もし汚れたのが私のせいとか言われても困る。勝手に上がった、本人の責任に決まってんでしょ。
「か、勘違いしないでよね。人に汚れを見せつけるのが好きなだけなんだから」
「変態じゃないか」
なんでツンデレみたいに言い直したよ?
「まあ、いいや。なにも面白いものなんてなかったでしょ? 気が済んだら帰ってくださいねー」
彼女がどこから来た何者なのかは、ほんの少し気がかりだったけれど。いつまでも相手にしてはいられない。いい加減、作業に入らなければ。
ミカの横をすり抜け、今度こそ裏手に向かって歩きだす。と、後ろから軽快な足音がついてきた。
「ねー、怒ってんの?」
私は足を止めなかった。
「怒ってないけど。……なんで?」
「だって、睨んでたし」
思わず振り向く。相手は首を傾げていた。
「睨んでない」
「そうなん?」
意外そうな声。言葉に詰まってしまう自分がいやになる。表情の変化が乏しいからか、それとも無意識に苦い顔をしているのだろうか。とにかく、そんなつもりもないのに、私は似たようなことをよく言われる。コンプレックスのひとつだ。
ああ、いや。今日は不機嫌な理由が、ちゃんとある。
「親に掃除押しつけられてることに、むしゃくしゃしてるってだけ。いやな気分にさせたんだったら謝るよ。ごめんね。そっちに関係ないから」
ミカは目をぱちくりさせ、ほーっと安心したように息を吐いた。
「あー、そういうこと。なーんだ。やりたくないなら、投げ出しちゃえばいいのに」
自分の頰がひくっと引きつるのを感じた。随分、気楽に言ってくれる。
「そんなわけにもいかないでしょ。食わせてもらってるんだからさあ」
つい語気が荒くなってしまう。これじゃあ、なんだか八つ当たりしているみたいだ。かっこわる。
「それは親の義務でしょ。アンタは子どもで、これは親の手伝いでしょ。いやなら断る権利くらい、あると思うけど?」
「……仕方ないじゃん。もう、やるって言っちゃったし」
余計なお世話だ、そんなことわかってる。でも子どもの主張に耳を貸さない大人なんて、そこら中にいる。そして、そんな連中はむしろ、こっちが従わないことを甘えだとか言って責めてくるんだ。軽蔑している相手からの命令を聞かなきゃいけない苦しみなんか、知りもしないくせに。
私は前に向き直り、早足で奥へと進んだ。当然のようにミカも追ってくる。
裏手に入って、私は立てかけていた熊手と転がっているザルを手に取った。ザルには枯れ葉が貼りつき、黒い土がこびりついている。もわっとした猫のおしっこみたいなにおいが鼻をついて、つい顔を
ミカはこちらを横から覗き込むようにして、
「納得してるようには見えないんだけどなー。嫌々でやるなんて、神様にも失礼じゃね?」
「うるさいな、ほっといてよ。お社に土足で上がり込んでた人のセリフかよ」
「あはは、言うねえ」
などと上機嫌だ。そうして、熊手とザルを持って表へ引き返す私に、またついてくる。
だんだん鼻息の荒くなってきた私は彼女に構わず、石畳から足を離して地面にまっすぐ踏み込んだ。湿った落ち葉と、水分を含んだ柔らかい土の感触。歩くたびに靴底から、にちゃりにちゃりと音がする。私はそれらを不快に思いながらも、ミカが躊躇して立ち止まる気配を背中越しに感じ、少しほっとした。
さっそく端っこにザルを置き、熊手で葉っぱを掻き寄せ始める。草むしりは後回し。二度手間になるけれど、こうしておかないと雑草がどの辺りにどれだけ生えているのかを把握しづらい。結局、この方が早いのだ。
「ねー、そんなんほっぽってさー。どっか遊び行かない?」
「……どっかって?」
ミカが石畳の
「知らないよー。あたし、この島の人間じゃないもん。ばあちゃんの家に泊まってんの。だからー……案内して?」
やっぱり
どれだけ無謀なことを言っているのか、いっそ、こっちから教えてやろうか。
「この島、あんたが喜びそうなとこなんて、なにもないよ。山と海と道路と、田んぼがあるだけ」
過疎化がつづくこの離島には、中高生が好んで買い物をしたがるようなお店はない。映画館だって、ゲームセンターだって、クラブだってない。数軒しかない本屋やCDショップは目の前のお社とどっこいどっこいの規模だし、ボウリング場は私が中学へ上がる前に潰れた。およそ都会っ子が満足できるような娯楽施設は皆無だ。かろうじて喫茶店くらいはあった気がするけれど、それだって、ここからじゃバスでも二十分はかかる。
くすんだ灰色のような、なにもない島。つまらない町と、くだらない人間たち。それが私の生まれ育った、小さな世界。
「別にぃ、どこでもいいよぉ? サトコが普段行ってるとこに連れてってくれたらさ。公園とか……林で虫取りとか」
「ごめんなさいっ。私、やることあるんで」
私はそう言って無理やり会話を断ち切った。
虫取りって、わんぱく小僧か。いまは六月だから戦果なんて見込めないし、そもそも女子中学生のやることじゃないでしょうよ。たとえ悪気がないとしても、やっぱり、なんだか見下されている気がする。
つい、熊手を持つ手に力が入った。そのせいで、掻いた落ち葉と一緒に飛んできた土が足首にかかってしまう。意図せず舌打ちが漏れた。
ちらりとミカを盗み見る。こちらの小さな苛立ちにも災難にも気づいた様子のない彼女は、「ちえー」とぼやいて俯きながら、石畳をつま先でぐりぐりしていた。
このとき私とミカの間には、明確な、目に見える隔たりがあった。湿った土に塗れる私と、乾いた石畳の上に立つ彼女。やりたくもない軽作業を強いられる私と、遊ぶことしか頭にない派手な女の子。憂鬱なコントラスト。
なんだか、みじめだ。
それきり私はミカがなにか言ってきても、まともに相手をしなかった。だというのに彼女は境内をうろうろしたり、鳥居近くの石段に腰かけたりで、私が掃除を終えるまで帰ろうとは――お社から離れようとはしなかった。変なやつ。
夕方近くになって作業がひと段落した頃にも、あいつは残っていた。さすがに話しかけてくることはなくなり、すみっこで携帯電話をいじっている。
しかし帰り支度を始めた私に気づき、パッと顔を上げた。
「終わった?」
「……うん」
とりあえず境内は。下の石段なんかは、また今度だ。
「じゃあ、一緒に帰ろー」
そう言って、満面の笑みを向けてくる。はじめの愛嬌のなさが嘘みたい。警戒を解いた野良猫のように、べったりまとわりついてくる。猫なら即座に抱き上げたり撫でたり舐めたりするところだけど、あいにく相手は人間で、しかも結構な美人。そしていまの私は、劣等感のかたまりだった。
「遠慮しとく」
「えぇー、なんでぇ?」
あからさまにムッとされる。でも、とにかく意地になっていた私は、この子と一緒にいたくなかった。
「なんでも。知らない人についてっちゃいけないって、常識でしょ」
「はぁーっ? 腹立つんですけど。せっかく待っててあげたのに」
「頼んでないっ」
私は手さげ袋を引っ掴み、境内から一気に飛び出した。
「あ、ちょっと待って。サトコ!」
ミカが慌てて後ろから追いかけてくる。でも、もう遅い。私は不揃いの大きな石段を、少しひやりとするくらいのスピードで駆け下りていった。所々に落ち葉が積もっているので、気を抜くとすごく危ない。でも、だからこそ、ふいをついた疾走は効果的なはずだ。なんでここまで……って気が自分でもするけど、もう止まれない。
「ねえ。ねえって! 待ってってば!」
もちろん聞く耳なんか持たない。振り向く余裕はなかったけれど、追ってくる声がどんどん遠くなっていくことに安堵した。私は足には少し自信がある。肉弾戦ならともかく、小学生のときに同級生から「フナムシみたいだねっ」などという不本意な称賛を受けたことのある私が、あんな大きな胸を生やした女にかけっこで負けるはずがないのだ。
丘を降り切ってから、ようやく背後を見た。彼女はまだ、鳥居と麓の中間ぐらい。つまずかないように足下を見ながら、早足で石段を降りている。
こちらの視線に気づくと、やつは顔を上げ、ひときわ大きな声で喚きだした。
「卑怯者ー! 恩知らずー!」
卑怯はともかく、恩知らずってなにさ。そう言い返したいところだったけど、罵声の応酬が始まってしまいそうなのでツッコむのはやめておいた。代わりに、言いたいことだけ言ってやることにしよう。口に手を当てて思いっきり息を吸い込み、声を張り上げる。
「ついてくるなーっ、デカパーイ!」
ミカのからだが一瞬だけ止まった。でも、すぐに早送りボタンを押したみたいに加速しだす。なぜだか横向きで、そして結構なペースアップ。速い。どんどん近づいてくる。さっきまでとは段違い。遠目からでも胸が揺れているのがはっきり見えた。ああ、そうか。あの突き出た脂肪で足下が見えづらいから、カニ歩きになったのか。
それにしたって、あんなにおしゃべりだった子が無言で迫ってくるプレッシャーは凄まじい。ヤバい、怒ってる?
なんだかこわくなってきた私は、家路へとつながる砂利道を慌てて駆け上った。
私の名前は佐藤郷子。十四歳、中二だ。先に述べた通り、口頭で名乗るときは、なるべく姓と名を分けて伝えることにしている。面倒くさいやつだと思われそうだけど、実はこれには一応の理由がある。中学校入学直後の自己紹介でフルネームを口にしたとき、声の大きな女子に「サトウサトウ?」と聞き返されてクラス中で笑われたからだ。トラウマは人の行動を変える。
中肉中背。髪は肩口までで揃えている。器量は十人並みだし、学力もまあまあ。ちょっと足は速いけど、それだって島内の同学年で一番を狙えるってほどじゃあない。取り柄と言えるだけのものは持たず、その上、人に話を合わせるのは苦手だし、愛想も悪いから、特別親しい友人はいない。言ってしまえば、あれだ。ぼっちってやつ。
そんな私が住んでいるのは、北九州に点在する離島のうちのひとつ。その中でも割と端にある島なので、本州までの直線距離と朝鮮半島までのそれが、ほとんど変わらない。だからよく、商品名がハングルで書かれた菓子袋や空き缶が海岸に流れ着いていたり、電波の通りがいい日には、韓国語のラジオが聴けたりする。もちろん向こうの言葉なんてわからないから、なんのメリットもないんだけど、ちょっとだけ面白い。
この島は娯楽に乏しい田舎の常で、年々過疎化がつづいている。私が生まれたばかりの頃はまだ十校あったという中学も、現在では四校だけだ。バスで通学している途中、廃校後ほったらかしで手つかずの校舎が目に入るので、そのたびノスタルジックな気分に浸らせられる。通ったこともないくせに、なんだか不思議だ。
あのミカって子に話した通り、遊べるところはろくにない。あるのは山とか、海。林。田畑。公園。校庭。子どもはその辺りを無邪気に駆け回って遊んでろってことらしい。ばかにしてる。そのくせパチンコ屋とかゴルフ場とかスナックとか、私たちにはあってもなくてもどうでもいい、大人のためだけの空間はしっかり残ってる。まったく、解せないぜ。
田舎特有の閉塞感には、うんざりする。場所そのものに対しても、住んでいる人間に対しても。かと言って、意気揚々と地元を飛び出し、自由に生きる将来の自分はうまく想像できない。
やさしかった母のように。誰より好きだった、おかあさんと同じように。あの父親や、またはほかの誰かのために神経をすり減らして、ある日ぽっくり死んでしまう。そういう、暗鬱な未来しか浮かばない。
だから私は、ひとりがいい。ひとりでいい。ひとりになりたい。
小さなお社から逃げるようにして去ったあと、私は帰路の途中でときどき後ろを振り返った。しかし、あの派手な女の子が追ってくる様子はない。完全に撒いたらしかった。
夕方五時を知らせるサイレンが島全土に鳴り響くのと、私が見慣れた最寄りの神社の前で手を合わせたのは、ほぼ同時だった。
さっきとちがって、ここは島の中では、ほどほどの規模の神社である。けれど境内は所々管理が行き届いておらず、はっきり言ってみっともない。草むしりや掃き掃除だけならともかく、伸びすぎた木の枝を切り落としたり、崩れた石畳を補修したりするのは私には無理だ。結局、管理する人間の意識の低さに依ってしまう。実に勿体ない。
そんなかわいそうな神社の前を横切って、二十メートルぐらい奥へ進んで門をくぐれば、そこが我が家だ。縦に伸びた古い平屋。外壁はくすみ、土台のコンクリートはひび割れ、まわりには雑草が茂っている。おかあさんが亡くなったあと、父親の知人が紫陽花や椿などの庭木を無遠慮に伐採したことも手伝って、外観は最悪に近い。
足が泥だらけなので裏口へ回った。大きな声では言えないけれど、表も裏も、大体うちは鍵を開けっぱなしにしている。
「ただいま」
戸を開け、つぶやくような小声で言う。車がないので父親の不在を悟ってはいたのだけれど、案の定、返事はない。少しほっとした。
手さげ袋を隅に置き、靴と靴下を脱ぐ。次に、家を出る前に用意しておいた古タオルで、軽く足の裏を
浴槽にもシャワーを当てて、スポンジで軽く擦った。またすすいでから栓を締め、給湯ボタンを押す。
私は一旦お風呂場から出た。そして濡れた手足をバスタオルで拭き、お湯が溜まるまでの間、やるべきことをやっておくことにした。
客間の御霊殿を前に、今日ふたつの神社でもやったのと同じ、略式の挨拶をする。
ただいま帰りました。
そう心の中でつぶやいたあと、もう夕方なのでお茶も
「おやすみなさい、おかあさん」
遺影へ向かって、今度は声に出して言った。そのまま静かに扉を閉める。
お風呂から上がって着替えを済ませたあと、夕食の準備を始めることにした。と言っても、大したものが作れるわけじゃない。大体カレーか鍋か、さもなくば炒め物。もしくはレトルトやインスタント食品。作り置きできるものか、手早くできあがるものか。季節感を度外視した、省エネ重視のメニューばかりだ。
なるべく休日に作り置きして平日の負担を減らしたいところなのだけど、今日は疲れたからいいや。棚からとんこつラーメンの袋をひとつ掴み、冷蔵庫を開けて卵を取り出した。
手鍋に水を入れ、コンロに火を点ける。そのあとでハッとなり、居間にかけられた、日付が印字されている黒板を見た。月ごとに曜日を書き換えて予定を加える、半永久的に使用可能な父親専用のスケジュール表。今日の予定は空欄だった。仕事で出かけているのではない。おそらく、またパチンコ屋にでも行っているのだろう。煙草と、すっぱい汗のにおいをさせて帰ってくるにちがいなかった。万が一にも調理中に出くわすことをおそれ、密かにハマっている半熟玉子を作るのは断念。生玉子も好きなので大丈夫だ。
もう、かれこれ一年近く、父親とふたりきりでは食事をしていない。いや、せずに済んでいると言うべきか。
母が亡くなってから一年が過ぎた、去年の秋。私が二泊三日の林間学校を終えて帰ってきたときのこと。昼過ぎに帰宅してすぐ、私は御霊殿に向かって挨拶をしようとした。そこで異変に気づいた。三方に載ったお茶の色が妙に濁っていたのだ。なんのことはない。二日前の早朝に私が出しておいた湯呑みが、そのまま放置されていただけの話。
問い質すと、ずっと家にいたはずの父親はこともなげに、「それはお前の仕事だから」と
ゆるせなかった。
もし母の霊前でなければ。そして、母が亡くなる要因となった男の言動でなければ、また話はちがっただろう。
そのとき私は、おそらく肉親に対して言ってはいけないことを言ったし、相手はそれを受け止めきれるだけの度量を持つ男ではなかった。
頭に血が上りすぎて、しっかりとは覚えていない。しかし、どうやら私はお腹を蹴られるか殴られるかしたらしい。気づけば畳の上に、よだれと涙と鼻水を垂らし、うずくまっていた。
女子中学生の反抗なんて、そんなものだ。どんなに腹が立っても、腕ずく、力ずくでねじ伏せられてしまう。
とにかく、それからだった。自分の非力さを思い知らされたあと。私は徐々に、父親と距離を
私はずっと以前より、その男を軽蔑していた。
高圧的で、怠惰で、
救いようがない。反吐が出る。
おとうさん。
親しみを込めて、そんな風にあの男を呼んでいたのは。呼べていたのは。いくつの頃だっただろうか。おかあさんが亡くなるよりも、ずっと前。
やさしくされた思い出。愛されていた記憶。ある。あった。あった、気がする。しかし、そんなもの、いまは泥を浴びたように黒く滲んで、異臭を放っている。
生前からのおかあさんに対する侮辱や無礼は、いまでもゆるせないし、思い出すだけで
必要最低限の会話とお金。ふいに飛び出す命令。ゴミみたいな父子のつながり。これらを受け入れさえすれば、私はいまの生活を維持できる。
いつまで?
わからない。この家にいるあいだ……中卒で世間に出るのは厳しいから、高校卒業? そしたら家を出て、別のところへ行きたい。島の外にしろ、中にしろ。
それまで、あいつのお金で生活して。学校通いつづけて。それで楽しい?
そんなわけがない。日々精神が摩耗していく。あの男に対する感情と、親を軽蔑するような人間になってしまった、自分自身への失望によって。
自室でラーメンをすすり終えた私は、ふと、古ぼけたお社から現れた少女のことを思い出した。
キラキラした、ド派手な女の子。他所から来たというグラマーな同学年。見るからに私の抱えている悩みとは無縁の、遊ぶことしか考えてなさそうな……ばか女。
彼女は一体、何者だったのだろうか。
祖母の家に泊まっていると言っていた。口ぶりから、引っ越してきたわけではないように思える。知らない学校の制服を着ていたし、法事かなにかで島に訪れたという線が有力そうだ。それにしたって、なんであんな奥まったところにある神社に。
――やりたくないなら、投げ出しちゃえばいいのに
あの無雑な言葉が脳裏に甦り、心がざわついた。
あんな風に気ままに振る舞えたら、私の人生はちがったものになっただろうか。あるいは、なるのだろうか。正直、想像もつかない。
学校の目立つ子たちとか、ましてや父親とは異なる、もっと純粋な奔放さ。
羨ましい?
いや、ちがうな。なんだろう。
ただシンプルに……不快?
そう、これだ。たぶん、この表現が一番しっくり来る。
あまりに自分とは別種の存在で。人生を謳歌しているのが、ありありと伝わってきて。かと言って、妬ましいとは思わない。そうなりたいと望みはしない。
ただ彼女の眩しさが、私には毒だった。ミカを反射して映った、己のみじめったらしさが情けなかった。だから嫌い。嫌い、憎い。
ますます自分がどうしようもない人間に思えてくる。あんな子と、出会わなければよかったのに。
でも、もう顔を見ることはあるまいさ。そう心を落ち着けて、私はスープの残った器を掴み、流しへと向かった。
再会はすぐだった。
翌日の月曜日。
授業が終わったあと、私は学校近くの図書館で時間を潰し、スーパーで食料品を買い込んでからバスに乗った。ほかに乗客はいない。
時刻は午後七時を過ぎていた。本当はもっとずっと早く帰れるんだけど、同級生らとかち合わないよう気をつけると、どうしてもこんな時間になってしまう。しかし、いつかみたいに指を差して笑われるより百倍マシだった。同年代が買い物袋をぶら下げている所帯じみた姿は、あいつらからすると滑稽らしいのだ。
なにもない田舎では、退屈が蔓延している。だから普通とちがうものを見つけ、からかうことは、ある種の人間にとって貴重な娯楽なのだろう。
くっだらない。相手になんかしてやるものか。
帰りが遅くなることには、一応のメリットもあった。図書館なら集中して宿題ができるし、空いた時間で好きな本をゆっくり読むことができる。スーパーだったら、タイムサービスや期限切れ間近の値引き品が魅力的。今日は鶏ムネ肉を半額で買えた。悪いことばかりではない。
いつも通り、乗車してから二十分ほどで宮前のバス停に着いた。定期を出し、無愛想な年配の運転手に会釈して降りる。
バスが排気ガスを吐きながら消え去っていくのを見届けたあと、私はふと、西の空を見上げた。連なるもやい山に遮られてお日様は確認できなかったけれど、六月の空はこの時間でも、まだまだ明るい。しかし陰影のついた大きな雲の後ろでは、ピンクやオレンジが混じりだし、青空をじわじわと侵食していた。まるで空が濁っていくように感じられ、微妙に気味が悪い。私は未練なく視線を切った。
それからすぐ、神社の前を横切るより早く、自宅の門の前に、あの男の車が停まっていることに気づいた。窓に明かりが点いていることも。今日は拝殿横の社務所には泊まらないのだろうか。
いまから帰る家の中に父親がいる。そんな当たり前のことによって、私の胸は鬱々とした想いに満たされた。鉛でも呑んだみたいに、からだがずしりと重たくなった。それでも、ずっと外で突っ立っているわけにもいかない。門を抜け、静かに玄関の戸を開けた。
「ただいま」
本当はなにも言わず、すぐさま部屋に駆け込みたいところだけれど仕方ない。どうせ自分のご飯を作らなきゃだし、お風呂に入る。御霊殿のお茶も下げる。その行き来で何度も顔を見ることになるのだ。同じ空気は吸いたくないが、わざわざ不興を買うような行動は避けたかった。それでなくとも相手は、私が生まれる以前からの癇癪持ちだ。多少の小言や、手を上げられるくらいなら、まだいい。けれど、もし生活費を断たれる事態になっては堪らない。
歯痒い。情けない。でも、これは生きるために受け入れるべき苦痛だ。
声を出した結果、しかし向こうからの反応はなかった。すぐ横の客間から、襖越しに話し声がする。どうやら来客中のようで、こちらには気づいていないらしい。僥倖だ。冷蔵庫に卵やお肉をしまって、ひとまず部屋に退避するとしよう。そう考えて玄関の戸をそっと閉めたとき、あの男の癇に障る笑い声と、若い女性の明るい声が響いた。一体どんな馬鹿話をしているのか、いかにも楽しげだ。私は眉を
けれど不安を拭う間もなく、玄関のタイルに沿って綺麗に揃えられた、ぴかぴかのスニーカーが視界に入った。こちらも昨日、見たばかり。
いやな予感が確信に変わる。
や、やつだ。やつが来た。
うろたえた私は、片方の靴が半脱ぎ状態になったままで
客間の喧騒がピタリと止まる。おい嘘だろ。
一拍置いて襖が開いた。そして顔を覗かせたのは、予想通りのあの女。
「あーっ、やっと帰ってきたー」
小さな神社の境内で絡んできたときと同じく、ミカは親しみ深い笑みを浮かべてそう言った。
「いつもこんなに遅いわけ?」
「……買い物がある日は」
彼女は「ふーん」と気のない相槌を打ってから、口元をにちゃあっと歪めた。
「二日つづけて長いこと待たされちゃった。やるねえ、サトコは。悪い女だよ」
「……だから、頼んでないって」
顔を合わせて早々、私はミカを連れて家の前の神社まで歩いていった。自分の部屋では父親に声が届くかもしれないし、なにより彼女を己の
「あたしら同い年なんだってね。知ってた?」
「あー……うん」
そっちは昨日、中二だって言ってたし。
ミカはなんのつもりか、鳩尾の辺りで腕を組み、胸を抱えるようにしていた。今日の彼女はシャツの上に薄手のジップパーカーを羽織っている。上着のファスナーが開いているので、制服より薄く柔らかい布地が、ふくよかな乳房を一層強調していた。やっぱり大きい。凝視しすぎないよう気をつけなければ。
……いやいや、そんなことより。
「なんで私ん家がわかったの?」
警戒しながら訊ねた。当然の疑問。だって、振り切ったはずの相手が次の日に自宅まで押しかけてくるとか、端的に言ってこわすぎる。古いヤンキー漫画みたい。
「ばあちゃんに神主さんの家を訊いたから……っていうか、なくない? ありえなくない? なんで、いきなり全力疾走で逃げてったわけ? あんまりっしょ」
昨日の私の行いに対する、真っ当な抗議。これについては弁解のしようがない。
「あー……ごめんごめん。急にトイレへ行きたくなったもんだから」
「嘘つくんじゃないよ! 女子中学生がトイレになんか行くわけないじゃん」
「……なんでだよ」
妙な幻想抱くなよ。というか、あんたも女子中学生なんでしょうが。
ミカは、ふざけ気味に。でも、割としっかり怒っているようだ。さっきまでの余裕ぶった態度は虚勢だったらしい。しかし私にも、形容しがたい感情ゆえの、たしかな理由があったのである。それを説明するのも、本気で謝罪するのもいやだった。だから、強引に押し切ることにした。
「悪かったと思ってるって。で、なんの用?」
不服そうな彼女の剣幕を受け流し、問い質す。これでまた、「いまから虫取りに行こう!」なんて誘われたら、通報すべきか悩む。
ミカは大きく息を吐いた。燻る怒りを吐き出さんとするかのような、大仰なため息。そして真剣な顔で言う。
「頼みがあんの。お願いっていうかさ」
「うん。だから……なに?」
こっちは、その内容を訊いてるんだよ。なんだろうか、この噛み合わなさ。つくづく相性が悪い。
「今日はもう遅いから、明日付き合ってよ。何時くらいに学校終わんの?」
「えっと」
さて、どうしよう。適当なことを言って、もし万が一、今度は中学校にまで押しかけられては堪らない。結局、正直に答えることにした。
「四時には帰ってると思うけど」
お米や野菜のストックは十分。明日は買い物に行く必要はないから、授業が終わったら即下校の予定だ。
「本当に、なんの用なの?」
「まー明日わかるよ」
頑なに用件そのものは口にしない。どういった思惑があるのやら。
「面倒くさいのだったら、いやなんだけど」
「そんなでもないかな。サトコがあんな風に逃げ出さなかったら、昨日のうちに話せてたかもだけどー。……思い出したら、またムカついてきた。捨て台詞も吐かれたしぃ」
ぐぅ。痛いところを突いてくる。たしかに昨日は、みっともないことをした。
「すぐ済むなら……いいよ」
私がそう告げると、ミカはにまーっと口角を上げた。
「じゃあ、昨日の神社で待ち合わせよっか。誰にも内緒ね」
さっそく面倒くさいじゃないか。あの辺鄙な場所に、また? 彼女がどんなつもりで私を誘っているのか、ますますわからない。
不審に思って黙りこくると、焦れたミカに睨まれた。
「返事は? いいの? ダメなの?」
「わ、わかった」
そうして強引に約束を取り付けられてしまった。私のは単なる意地だが、彼女の強気は生来持ち合わせている才能のように感じる。
得体の知れない不安はあれど、ひとまず大人しく従うことにした。だって、いまだに謎だらけで掴みどころのないミカと、家に押しかけられた私とでは立場がちがう。こうなっては下手に逆らわない方がいい。昨日、勢いで逃げ出してしまったことによる後ろめたい気持ちも、一応はあるし。
「じゃー、そういうことでヨロシク。あ、あとサトコのおとうさんには、アンタとは、この神社にお参りしに来たとき偶然会ったって言ってあるから。口裏合わせも頼んだよ」
彼女はそう言って口をすぼませ、チュッと楽しげに音を鳴らした。その嘘になんの意味があるのかはわからなかったが、私はとりあえず頷いておいた。
「おい。反抗期はいつまでつづくんや」
ミカと別れて家に戻り、居間でテレビを見ていた父親の横をすり抜けようとしたとき、そう投げかけられた。
私はポケットに手を突っ込み、中に入っているボールペンの感触をたしかめた。一呼吸置き、平静を装って答える。
「え、別に」
別に、あなたを嫌うのは反抗期だからってわけじゃないんだけど。言外の意味が、この男に通じることはないのだろう。私の冷めた返事に、男は苛立ちと嘲りのこもった息を吐いた。そして、こちらを見もせずに言う。
「アザミちゃんを見習って、もっとシャキッとできんのか」
「……アザミ?」
馴染みのない名前だ。学校にも親戚にも、そんな知り合いはいない。私は首を傾げた。
「なんや。友達やないんか、さっきの子」
「……ああ」
ミカのことか。ひょっとして偽名? いや、こっちは名字かな。アザミミカ。ふうん。
アザミ、アザミ……ああ、薊美。覚えがある。どんな人が住んでいるかは知らないけれど、徒歩圏内にそんな表札の家があったはず。あの神社からも割と近い。あれが彼女の祖母の家なのだろうか。
「よく知らない。昨日会ったばかりだから」
なるべく感情を込めないよう、気をつけて答えた。あの子を見習え? なにを? まさか、あんたに愛想を振りまいて談笑のひとつでもしろと?
冗談じゃない。
反抗期だって? ふざけるな、ふざけるな。子どもに拒絶されている原因を、自分に都合よく解釈するな。
想いを気取られまいと、奥歯を喰い縛りながら廊下へ出た。開けっぱなしだった戸を静かに閉める。
「なにが不満なんや」
野太い、呆れ混じりの声が響く。私は眩暈のするような怒りを押し殺し、無言で部屋に向かった。
翌日の放課後。
この頃には私は、アザミミカが自分をあてにしてくる理由に、なんとなく目星がついていた。
だから学校を出てもすぐバス停には向かわず、近くの百円ショップへと足を運んだ。おそらくお社の中へ入ることになるだろうから、上履き用のスリッパを買いに来たのだ。
このお店はおととしにできたばかりで、外観も内装もまだまだ綺麗。ちょっとしたスーパーくらいの規模なので品揃えがよく、住民の多くが重宝している。近所の雑貨屋さんにしてみれば大打撃なんだろうけど、消費者にも生活がある。安い方がいいに決まっている。
平日の昼下がりでも、客はそれなりに入っていた。同じ学校の制服もちらほら。長居は無用だ、さっさと用を済ませよう。
目当てのものが並んでいる棚を見つけ、適当に物色する。どれもこれも生地が薄くて頼りない、ペラペラの綿製スリッパだ。しかし贅沢は言うまい。どうせすぐに汚れるし、無難な色でいいだろう。少し悩んで、ミカの分も手に取った。
そうしてレジに向かう途中、知った顔と鉢合わせた。
「あっ、サトちゃん。お買い物?」
「お、あぁ」
その朗らかな表情に呑まれ、私は口ごもりながら答えた。
孤立しがちな私にも気さくに話しかけてくる、貴重な存在。誰からも好かれ、拒まれず、のほほんとしている癒し系。アザミミカが気まぐれでわがままな
シイナにしては珍しく、今日はひとりだった。
彼女はおさげ髪を揺らし、こちらが手にしている商品を覗き込んだ。
「スリッパ?」
「ああ、うん。部屋履き、新調しようかと」
説明が難しいので、適当にはぐらかす。するとシイナは小さく口元をゆるめた。
「ふーん。じゃあ、おじさんと仲直りしたんだ」
「は?」
「だってソレ、ふたり分でしょ?」
黒と紺色、二足のスリッパ。だからこその、唐突に飛び出した不本意な誤解。
「や、どっちも自分の。ていうか仲直りって、なに」
こちらが不機嫌になったのを察してか、彼女は少し声のトーンを落とした。
「えと、こないだ、うちのおかあさんづてに聞いたからさ。サトちゃん、おじさんと喧嘩してるって」
私は軽くため息を吐いた。そんなところだと思った。
これまでシイナに……というより、誰にも父親とのいまの関係、問題を話したことはなかった。ならば家庭事情の出所など、ひとつしかない。あの男のことだ。さも自分に都合のいいようにこぼしたのだろう。
「あいつの言うことなんか鵜呑みにしないでよ。イライラする」
シイナと私はずっと同じ学区内に住んでいるので、お互いの家族と顔を合わせることは稀にあった。防ぎがたい事柄ではあるし覚悟もしていたけれど、噂話はやっぱり不快だ。
「あ……ごめん。もちろんサトちゃんの方が悪いなんて、私は思ってないよ? ……でも、おとうさんのことをあいつなんて言うのは、よくないと思う」
「……そうだね」
そう答えるのが精一杯だった。
「やっぱり、まだ喧嘩中なんだ?」
そもそも私と父親の関係は、すでに喧嘩だとか仲直りだとかの線を越えている。互いが互いを疎ましく思い、しかし一方は世間体のため、もう一方は無力ゆえに放り出せずにいるだけだ。
だが、仮に本心や実態を伝えたとしても、目の前の穢れ知らずな少女に理解してもらえるとは到底思えない。
私は苛立ちを抑えて答えた。
「そんなとこかな。どうも意見が合わなくて。ズレたことを上から言われるかんじが、イラッとさ」
「あー、ソレわかる。私も実は、親からの反抗期かー、思春期かーって決めつけ、ちょっとウザったいんだよね」
ともに苦笑い。抱えている本音の薄皮だけを晒すような、益体もない愚痴。私は反抗期という単語で昨日の会話を思い出し、鳥肌が立った。それでもシイナがこちらに話を合わせてくれているのはわかる。だから
だから、しんどい。
「あ、バッジつけてくれてる」
シイナは私が肩からさげているバッグを指差して言った。ほころぶような笑顔。全力で嬉しそう。
「あー、うん。一応」
ショルダーバッグのフロント。その左端に留めている缶バッジは、シイナに先月もらったお土産だ。ゴールデンウィークに海外旅行先で買ったという黄色い徽章には、世界的に有名な鉄塔のイラストが描かれ、それを覆わんばかりの大きな日本語で、『えっふぇると〜う』と書かれている。なんとも間抜けで胡散くさい。というか、嘘くさい。相手がシイナでなければ、これを外国で買ってきたなんて言われても信じなかっただろう。
せっかく好意で贈ってくれたものを使わないわけにもいかず、こうして着用している次第だ。最初は異物感がすごかったけど、いまでは、あまり気にならなくなっていた。
「よく似合ってるね」
「あー……うん?」
どういう意味だ?
無邪気そうな笑顔が、声に出してのツッコミを躊躇わせた。
「シイナ、おまたせーっ」
そのときレジの方から女子が三人、だらりだらりと連れ立って歩いてきた。私たちと同じ制服姿で、手には買い物袋をぶら下げている。シイナはどうやら、友達の会計待ちをしていたらしい。
シイナがにこやかに手を振る一方、声をかけてきた茶髪の子は私に気づき、わずかに眉を寄せた。あとにつづくふたりも似たような反応だ。見覚えはあるような気がするけれど、どの子とも話したことはない、微妙な距離。頃合いだ。
「じゃあ私、支払いあるから」
そう言ってシイナとの会話を打ち切り、その連れと入れ替わるようにしてレジへと向かう。
「う、うん。じゃあ、またねサトちゃん」
私は振り返り、軽く頷いた。彼女の連れの視線が気になって、返事をしたり手を振ったりはできなかったのだ。うまく微笑めていたかも自信がない。
「なんで、あんなのと話してたん?」
背中越しに、さっきの茶髪の声が響く。こちらに聞こえるか聞こえないかぐらいの――いや、聞こえても構わないってトーンの、あけすけな声。
否応なしに身が強張った。しかし足を止めて振り返る勇気はなく、私はそのまま歩きつづける。やがてシイナがなにか言うのと、その友人たちの笑い声が耳に響いた。いま、あの子はたぶん相槌を打ったのだ。空気を読んで。シイナが悪い子じゃないことを知っているだけに、より一層、苦い気持ちになった。
心の中で、ふっ、と笑う。
なにを期待してたんだ、私は。
腕時計の針は午後五時半を示していた。薄曇りの空が私の小さな世界を濡らす気配は、まだない。
「遅いよっ」
長い石段を登り切ると、鳥居に寄りかかって待っていたミカが開口一番、ふくれっ面で抗議してきた。
「四時には帰るって言ったくせに」
「……いや、何時に集合とかは決めてなかったから」
そう答えると、今日も制服姿のミカは大袈裟にのけ反って顔を顰めた。
「なに言ってんの? なに言ってんの? 四時に帰ってきたなら、三十分後にはここに着いてるべきでしょ。決まってんじゃん」
彼女の語気の強さに少しムッとした私は、ぶっきらぼうに言い返す。
「や、そこまで急ぎたくなるような用事でもないし」
「はぁーっ?」
まず、約束通りに来てあげたことを感謝してほしい。こっちはそのために寄り道して、おかげで非常にいやな気分にさせられたんだから。その上、連日の階段運動で、ふくらはぎも少々張っている。本当いいことなし。
実際、別段のんびりしていたわけではない。買い物して帰ってきて、シャワーを浴びてジャージに着替えて……とやっていたら、自然とこんな時間になってしまったのだ。が、言い訳するのも面倒くさかった。
半眼になったミカが、ぼそりと口を開く。
「サトコって友達少なそうだよね――痛っ!?」
つま先でスネを蹴ってやった。余計なお世話だ。
「いっぱいいる」
野良猫とか、本とか。あとボールとか?
痛みに耐えかね、そこらをケンケンで跳ねていたミカは、やがて落ち着きを取り戻した。
「まあいいや、一応は来たんだし。……それじゃあ行こっか」
蹴られたこと自体は気にした風でもなかった。案外、大物なのかもしれない。
ミカはスカートを翻して鳥居をくぐった。今更ながら気づいたけれど、彼女のセーラーは冬服だ。
「暑くないの? 長袖」
あとにつづきながら訊ねると、彼女は顔だけ振り向き、生地の厚い袖を摘んだ。
「あぁー、これ。もちろん暑いよ。でも汚れていい服、制服しか持ってきてないからさー」
「汚れていい服? 制服が? むしろ逆じゃない?」
この島に、よそ行きの上等な服しか持ってこなかったってことだろうか。異文化に触れた感覚。私は制服より高価な服なんて、着た記憶がない。いや、でも。昨日ミカがうちに来たときの恰好は、割とラフだった気がする。
「なんかおかしい?」
「……いや、別に」
別に、いいか。人それぞれだし。さして、こいつに興味があるわけでもないし。
ふたりして境内に上がった。お社そのものは当然ボロっちいままだけど、一昨日の掃除で辺りは幾分マシになっている。新しい落ち葉は少々気になるものの、そんなのはご愛嬌。
ミカはお社へとつづく参道の中央――神様の通り道とされている『正中』をのしのし歩いていく。私はあんまり指摘ばかりして、この教養のない罰当たりなばか女に口うるさいと思われるのは癪だから、あえて注意せずにおいた。自分だけは黙って端を歩く。
途中、ミカが手水鉢で手を洗い始めたので、私も倣った。
「で、先に訊いときたいんだけど」
「んー?」
私はしっかり蛇口を締めてから、すでに歩き出していたミカに再び声をかけた。彼女が足を止めようとしないため、そのままつづける。
「うちの神社で、なにか飼ってるの?」
ミカは、ざりっ、と靴底を石畳で
「なーんだ、気づいてたんだ。びっくりさせようと思ってたのに」
ああ、やっぱり。
おそらく、こういうことだろう。
たまたま田舎に訪れた都会っ子が、子猫だか子犬だか(子ダヌキかもしれない!)を拾って、こっそり飼育しだした。不届きにも神社の敷地内、それもお社の中でだ。そして当然いつまでも田舎にいられるわけではないので、代わりに世話をしてくれる現地人……つまり私を見繕ってきた。
無責任で身勝手な行為だと言えなくもないけれど、ほっぽって帰っていくよりは万倍マシだ。
私は言い当てたことで得意になりすぎないよう気をつけながら、すましてつづけた。
「まあ、そんなところかなって。ほかに私を手伝わせたがる理由、思いつかなかったし」
「はぁー、サトコは冴えてるねえ」
ミカが感心したように頷いた。やや大袈裟な素振りだけど、そう悪い気はしない。
「ま、大したことじゃないよ」
私は頰がふにゃふにゃ柔らかくなっていくのを懸命に堪えながら、彼女の横についた。そして颯爽と促す。
「さあ、さっさと入ろう。犬だか猫だか知らないけど、お社の中、あんまり汚してるようだったら怒るからね」
するとミカは、やや声のトーンを落として、「あー……うん」と答える。私は妙に引っかかるものを感じて、ズバリ訊いた。
「なに、汚してるの?」
「んー、それほどじゃないと思うけど」
「けど、なに」
「いや、うーん」
なんとも曖昧な返事。そこでピンと来た。
「わかった、タヌキだ。キツネ?」
「そうじゃな……タヌキ? この辺、タヌキやキツネなんて出るの?」
私はきょとんとしている無知な都会っ子に、少し気取って教えてやった。
「ざらにいるよ、そんなの。私、ずっと小さいとき、ここで一緒に遊んだもん」
「タヌキと一緒に? あはは、面白い」
「……まあね」
冗談と受け取ったらしいミカに、私は釈然としないまま取り繕った。
しまった。言うんじゃなかった。ちょっとテンション上がって油断した。
嘘じゃない。たった一度きりだけど。三つか四つのとき、私はこの境内で野生のタヌキやキツネと遊んだことがある。そのときは、おかあさんと一緒で。だから、もう。いまは証明しようがないのだけれど。でも、いたのだ。まんまるタヌキと、のっぽのキツネが。
賽銭箱の前に来たところで、私は買ったばかりのスリッパをショルダーバッグから取り出した。一番下の階に二足とも並べてみせると、ミカが怪訝な顔をこちらに向ける。
「コレ、あたしに?」
「だって、また土足で上がる気だったでしょ?」
どれだけ年季が入っている建物だろうと、一応は神域なのだ。精神衛生上、そこまでの不敬を見逃したくはない。いや、まあ。動物を連れ込んでいる時点で、十分アウトなんだけどさ。
「そっか……そーね。うん、気をつける。ありがと」
ミカはこちらの気遣いがよほど嬉しかったらしく、顔をほころばせていた。逆に私は彼女の笑顔が眩しくて、つい目を背けてしまう。
「あ、うん。ついでだったし」
面映ゆさに負け、いそいそと靴を脱ぐ。そうしてお互いスリッパを履き、階の上の段に足をかけたところで、私は大事なことを思い出した。
「あ、待って。二百二十円」
「……にひゃくにじゅうえん?」
ミカが目をぱちくりさせた。まるで、未知の言語を耳にしたかのような風情だ。
「タダじゃないから。ふたり分のスリッパ代」
私はレシートを出してみせ、堂々と言い放った。けっして金銭的に余裕がある方ではない。かかった分はきっちり請求させていただく。
「サトコの分も、あたしが払うの?」
「当然でしょ。必要経費だし」
私は胸を張って答えた。
しばしミカは無言となったが、やがてお財布から小銭を取り出し、こちらに突きつけてきた。心なし、口を尖らせているように見える。
「はい。たしかに」
必ず払ってもらえるっていう保証はなかったから百均のやつにしたのだけど、これなら雑貨屋さんで買えばよかったかな。やっぱり、いいものはいい値段がするものだし。なんて余裕ぶって掌返しを言えるのも、他人のお金だからだけどね。
ふと、ミカが三白眼でこちらを見ているのに気づいた。
「なに?」
「絶対友達いないよね」
「……いっぱいいる」
余計なお世話だ。
なぜだか微妙な空気になりはしたものの、それでも私たちは隣り合って階を上がり、お社の扉の前に立った。
本音を言えば、少しわくわくしている自分がいる。だって私は動物が嫌いではないから。ここに来る前、チューブタイプのフードでも買っておこうか迷ったのだけど、彼女の保護しているのが犬なのか猫なのか、はたまた別の小動物かわからなかったのでやめておいた。まずは確認だ。さあ、さあ早く。扉を開け。
ミカがシミのついたハンカチを手にして言う。
「じゃあ開けるけどさ。あんまり大きな声は出さないでね、びっくりしちゃうから」
「わかってる。心得てる」
やや強めに答えた。対して彼女は、笑いを堪えるような。もしくは不安に耐えるような。そんな、なんだか不思議な表情を浮かべた。
向かって右側の扉。黒と薄緑の錆に覆われた真鍮製の取っ手を、ミカがハンカチ越しに掴んだ。そして、そおっと引く。彼女と出会ったときと同じく、古い扉は、大きく音を軋ませて開いた。
まず、ほのかにカビのにおいが鼻をついた。むわっとした、生ぬるい空気も。思わず
ミカがいなければ、お社はおそらく何ヶ月も閉め切られたままだったはずで。そしたら、もっと悪い空気に満たされていただろう。もし中のものが傷んでいたりしたら、換気を怠ってきた私が怒られるんだろうか。なんて、そんなことを呑気に思った。
カビのにおいが強いせいか、動物を飼っているという割に、獣くささは感じられない。
中は当然、暗かった。すりガラス製の小窓は一応付いているけれど、あいにくの曇り空で日差しは弱い。ミカが片方の扉を半分ほどしか開けていないこともあって、どこになにがあるのか、すぐにはわからなかった。
なかなか目が慣れない。仕方なく私は顔を突っ込み、瞼を何度も瞬かせて中の様子を探った。ミカはなにも言ってこない。
しばらくそうしていると、左奥の隅で、なにかがうごく気配がした。そちらに向かって、じぃっと目を凝らす。
少しずつ薄暗がりに馴染んでいく私の瞳は、ようやくその生き物を視界に捉えだした。
布製のなにかの上……あるいは中で、もぞもぞと蠢くもの。うごきが連動しているから、複数の小動物というわけではなさそうだ。一匹。いや、一頭?
大きいのだ。思っていたより、ずっと。
いや、これはまさか。
不穏な予感が迸る。そのとき、けほっ、という乾いた音が、仄暗い闇の中で響いた。
私は唾をごくりと呑み込み、ミカに顔を向けた。そうして彼女に訊ねようとしたところで――
「いらっしゃい」
中から声をかけられた。
こっちは逆に、あまりのことで声も出ない。うなじに氷でも押し当てられたかのような心境だ。
私はミカに目を向けたまま、硬直していた。対する彼女はなにも言わず、こちらを見ようともしない。
こんなのおかしい。だって暗闇の中、響いたのは。人間の。男の人の、声。
なんのつもり?
できるならミカの胸ぐらを掴んで、そう問い質したかった。しかし、うまく口がうごかない。頭もだ。
身震いしながら、やがて私は再びお社の中へと顔を向けた。目だけは慣れて、さっきより、はっきりものを見ることができるようになっていた。
私たちが現れるまで、床で横になっていたらしき青年。いま彼は上体を起こし、まっすぐにこちらを見返している。薄闇の中、私と彼の視線が、カチリとつながった。
青年が目を細める。やさしい笑顔だった。
こちらが顔を向け直すまで、また呼びかけるのを待ってくれていたのだろう。彼はゆっくりと口を開いた。
「はじめまして。サトコちゃん」
その細い、いまにもぽっきり折れてしまいそうなからだとは裏腹に、よく通るしっかりした声だった。
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